京のデスボイスの進化が凄すぎる

DIR EN GREYの京を語る時、多くの人はまず「表現力が凄い」と言う。
それはもちろん正しい。
けれど、京の本当の異常さは、ただ感情が乗るとか、ただ歌が上手いとか、そういう次元ではない。
もっと根本的に言えば、彼は人間の声を、年々別の生き物へ変えていったボーカリストである。

しかもその進化は、単純な「昔より低い声が出るようになった」という話ではない。
叫びの鋭さ、グロウルの質感、囁きの不穏さ、クリーンとの落差、そしてそれらを曲の中でどう配置するか。
京のデスボイスの進化とは、ひとつの発声が上手くなった歴史ではなく、声そのものが表現体系へ変わっていった歴史だ。
2008年の『UROBOROS』期には京自身が「この作品の世界はライヴのほうがもっと深い」と語っており、その時点ですでに彼の声は単なる歌唱ではなく、“世界観そのもの”として扱われていたことが分かる。

最初の京は「デスボイスの人」ではなく「壊れた叫びの人」だった

今の京を知っていると、昔から自在にグロウルを操っていたように見えるかもしれない。
しかし、初期の京の核は、現在イメージされるような“重低音のデスボイス”ではない。
むしろあの頃の彼は、叫びそのものが不安定で、生々しく、危険だった
後年の振り返りでも、DIR EN GREYは3rdアルバム『鬼葬』の頃にはすでにエクストリーム・メタル的なスクリーミングを取り入れていたと評されており、京の声は「整った技巧」より「むき出しの異常性」で聴き手を掴んでいた。『VULGAR』期のレビューでも、彼の絶叫は“tortured sounding scream”のように受け取られている。
つまり初期の京は、上手いデスボイスの人というより、声が壊れそうなギリギリで感情を噴出させる人だったのである。

中期に入って、叫びは「楽曲を支配する武器」へ変わった

『Withering to death.』から『THE MARROW OF A BONE』へ向かう時期、京の声は一気に攻撃性を増していく。
ここで重要なのは、ただ荒くなったのではなく、叫びが曲の中で機能するようになったことだ。
『Withering to death.』のレビューでは、クリーンとスクリームが楽曲の中で自然に溶け合っていることが指摘されているし、『THE MARROW OF A BONE』期にはメタルコアやデスメタル的な質感が強まり、京の発声もより“咆哮”として前景化していく。
この時期の京は、初期のむき出しの狂気を保ったまま、そこに構造を持ち込んだ。
感情の破裂だった叫びが、ここで初めて意図を持って曲を切り裂く武器になったのだ。

『UROBOROS』で、デスボイスは「技」ではなく「言語」になった

京のデスボイスの歴史を語る上で、やはり最大の分岐点は『UROBOROS』だと思う。
この作品では、シャウト、囁き、グロウル、クリーンが別々のパーツとして存在しているのではなく、ひとつの物語の中で有機的につながっている。
レビューでも『UROBOROS』の京は、shrills、whispers、growls を同一曲の中で行き来し、ダイナミックレンジそのものが作品の核になっていると受け取られていた。
しかも京本人は、この『UROBOROS』の世界はライヴのほうがさらに深いと話している。
これはとても象徴的で、つまりこの時点で京のデスボイスは「激しい場面で使う技」ではなく、作品世界を成立させるための言語へと昇格していたのである。
BARKSも後に『UROBOROS』なしに『DUM SPIRO SPERO』はあり得なかったと書いており、実際この作品が後の進化の土台になったことはかなり明白だ。

『DUM SPIRO SPERO』で、京の声はほぼ別次元に到達した

もし「京のデスボイスの進化が凄すぎる」と一番強く感じる時期をひとつ挙げるなら、やはり『DUM SPIRO SPERO』だろう。
この時期の京は、ただ低い声を出しているのではない。
クリーン、囁き、絶叫、グロウルを、もはや“歌唱法の切り替え”ではなく、ひとつの生理現象のように連続させている
PopMattersもこのアルバムで、京がクリーンの美しさと guttural death growls、shriek、scream、whisper を見事に共存させていると評していた。
ここまで来ると、京のデスボイスは「上手い」「下手」の尺度から少し外れてくる。
人間の声帯でどこまで不穏さ、痛み、獣性、そして美しさを同時に成立させられるか。
その実験を、京はこの時期にかなり極端なところまで押し進めた。

ただし、この進化は代償と無縁ではなかった

そしてこの話の重さは、2012年の活動休止によって一気に現実味を持つ。
DIR EN GREYは2012年、京が声帯結節・音声障害と診断されたことで活動休止に入った。
報道では、喉に以前から問題を抱えており、「声を極力使わないこと」が必要な状態だったとされている。
これは単純に「発声が悪かった」という雑な話ではない。
ただ、少なくとも『UROBOROS』から『DUM SPIRO SPERO』へ至るあの表現が、本当に人間の喉の限界付近で行われていたことは、この事実によって逆に証明されてしまった。
京のデスボイスの進化が凄いのは、それが安全圏の中で少しずつ器用になった歴史ではなく、声という肉体を削りながら拡張された歴史だからでもある。

復帰後の京は、「壊す人」から「置ける人」へ進化した

ここが実はいちばん面白い。
多くのボーカリストは、極限まで行ったあとに少し丸くなる。
でも京は違った。
喉のトラブルを経たあと、彼は単純に弱くなったのではなく、荒々しさをコントロールする方向へ進化した
『輪郭』期のレビューでは、活動休止を経た新作でカップリング曲にグロウル/スクリームが炸裂し、喉の復調を伝えていると書かれている。
さらに2015年のライヴレポートでも、京がファルセットからスクリーム、グロウルまでを全開で行き来していたことが記されている。
つまり復帰後の京は、以前のように全編を喉の限界で押し切るのではなく、どこで獣性を解放し、どこで抑えるかを知ったのである。
これは「昔より大人しくなった」のではない。
むしろ、昔は衝動だったものが、今は意思になったということだ。

近年の京は、デスボイスを「色」として使っている

近年のDIR EN GREYを聴くと、京のデスボイスはもはや単独で目立とうとしていない。
むしろ、曲全体の陰影を決める“色”として置かれている印象が強い。
『The Insulated World』のレビューでは、美しさと harsh さの行き来、そして京の声にかかる strain の異様さが語られており、『PHALARIS』周辺のレビューでも、京が highs and lows を自在に扱いながら、以前にも増して楽曲全体の緊張感を支配していることが指摘されている。
これはかなり大きな変化だ。
若い頃の京は、声が暴れることで世界を作っていた。
今の京は、声をどこまで暴れさせれば、曲が最も恐ろしく、美しくなるかを分かっている
デスボイスが主役ではなく、世界観の濃度を決める塗料になっている。
この成熟は、初期の爆発とも、DUM期の極限ともまた違う種類の凄みだ。

だから京は、「デスボイスが上手い人」では終わらない

実際、過去のファンの議論を見ても、京は“デスボイス単体の専門職として世界最強か”という評価軸ではなく、クリーンから絶叫までを横断する総合表現の人として見られていた。
2011年時点のファンコミュニティでも、「デスボイス単体なら専門職の怪物たちとは別軸だが、幅広い歌唱を共存させることが京の魅力だ」という見方がすでに見えている。

そして実際、その見方こそが本質だと思う。
京は、低い声だけで勝負する人ではない。
高音だけで勝負する人でもない。
綺麗な歌だけで勝負する人でも、汚い叫びだけで勝負する人でもない。
その全部を、自分の内側にいる別々の人格のように使い分け、それでもなお「京の声」に聴こえる。
ここが異常なのだ。

まとめ

京のデスボイスの進化が凄いのは、単に昔より上手くなったからではない。
初期には、壊れた叫びの生々しさがあった。
中期には、叫びを武器として運用する強さが生まれた。
『UROBOROS』ではそれが作品世界を支える言語になり、『DUM SPIRO SPERO』では人間の声の限界を押し広げるところまで行った。
そして活動休止を経たあと、京はその獣性をコントロールし、楽曲の中に最適な濃度で置けるようになった。

つまり京の進化とは、
叫べるようになった歴史ではない。
声で狂気を設計できるようになった歴史なのである。

ここが、京の恐ろしさであり、凄さだ。
そしてたぶん、DIR EN GREYというバンドが今もなお唯一無二に見える理由も、かなりの部分でそこにある。

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