稲葉浩志のカバーは、数だけ見れば決して多いほうではありません。けれど、ひとつひとつを追っていくと、そこにはかなりはっきりした共通点があります。原曲を壊さない敬意を持ちながら、ただ真似するのではなく、自分の声の温度、自分の喉の圧、自分の今の表現で曲をもう一度立ち上げることです。2016年のインタビューでも稲葉本人は、軽いボイストレーニングを続けていること、失敗の中で自分なりの「データ」を蓄積してきたこと、そして10年前と同じフレーズを無理して同じようには歌わなくなったことを語っています。つまり彼の歌は、気合い一発ではなく、身体と表現の両方を見ながら更新され続けている歌です。
その視点で、2026年の「タッチ」から2003年の「勝手にしやがれ」までを新しい順に見ていくと、稲葉浩志という歌い手の面白さがかなりよく見えてきます。単に「高音がすごい」「声量がある」で終わらない、曲ごとに重心を変える歌手としての姿です。
2026年「タッチ」
2026年2月、稲葉浩志がNetflix大会応援ソングとして「タッチ」をカバーすることが発表され、3月6日から配信が始まりました。公式コメントで稲葉本人は、オリジナルへのリスペクトを込めつつ、自分の情熱を注いで歌ったと述べています。原曲は岩崎良美が歌った1985年の主題歌で、野球と青春のイメージを背負った国民的な一曲です。
このカバーで稲葉がやっているのは、原曲の明るさをそのままなぞることではなく、そこに勝負の緊張感を足すことだと思います。岩崎良美版の「タッチ」には透明感と軽やかさがありますが、稲葉版はそこに少しだけ影と熱が入る。言い換えると、青春の歌がそのまま闘志の歌へ傾いているんです。Real Soundも、稲葉版について原曲とは異なる魅力があり、ヒロイン視点の歌謡曲を彼がどう表現するかに注目していました。稲葉本人が「昔と同じように無理して歌うことはしない」と語っていたことを踏まえると、この曲でも若々しさを演じるのではなく、今の自分の声で“真剣さ”を足しているのが大きいと感じます。
2024年「銃爪」
「銃爪」は、松本孝弘の邦楽カバーアルバム第2弾『THE HIT PARADE II』に、稲葉浩志フィーチャリング曲として2024年8月28日に収録されました。原曲は世良公則&ツイストです。アルバム自体も、松本孝弘のルーツである昭和歌謡や名曲を、新たな魅力をまとわせてカバーする作品として打ち出されています。
この曲で面白いのは、原曲の荒っぽい男臭さをそのまま再現するのではなく、稲葉の声が入ることでより鋭く、より緊張感のあるロックへ整流されるところです。私には、世良公則版の「不良っぽい危険さ」が、稲葉版では切っ先の立った決意に変わって聴こえます。稲葉は濁して押し切るというより、子音を立て、語尾を締め、要所で一気に噛みつくように圧をかけるので、曲全体がだらけずに前へ進む。BARKSがアルバムについて「深いリスペクトとともにカバー」と紹介していたのも納得で、これは力任せの翻案ではなく、**稲葉のエッジ感で再設計された「銃爪」**だと思います。
2024年「Get Wild」
B’zによる「Get Wild」は、TM NETWORKデビュー40周年を記念するトリビュートアルバムに参加したカバーで、2024年5月15日に配信開始となりました。公式発表では、B’zがTM NETWORKの40周年企画に参加していることが示され、Real Soundではこのカバーのアレンジを中田ヤスタカが担当していると紹介されています。
このカバーの肝は、デジタルな楽曲に人間の体温を持ち込んでいることです。Real Soundが書いている通り、イントロのシンセや打ち込みはかなり中田ヤスタカ的なのに、稲葉の声が入った瞬間に「これはB’zだ」と分かる。つまり彼は、TM NETWORKの都会的でクールな疾走感を壊さずに、そこへ肉体感のある推進力を足しているんです。私はこの曲で、稲葉が原曲の“夜の無機質さ”を少しだけ“熱のある夜”へ変えているように感じます。無表情に滑っていくというより、言葉をしっかり前へ押し出し、ビートに対して体を入れていく。だから同じ「Get Wild」でも、よりロックボーカルの血が通ったカバーになっています。
2023年「ダンスはうまく踊れない」
2023年3月、フジテレビ系ドラマ『あなたがしてくれなくても』の挿入歌として、稲葉浩志が「ダンスはうまく踊れない」をカバーすることが発表されました。公式発表でも、井上陽水の名曲を稲葉がカバーすると案内されており、ドラマ本編でも挿入歌として使われました。
この曲は、稲葉のカバーの中でもかなり重要です。なぜなら、ここではいつもの“押しの強さ”よりも、引き算の上手さが前面に出ているからです。Real Soundは、原曲のムードにかなり近く、乾いた憂いと悲しげな色気が稲葉の艶やかなボーカルで表現されていると評していました。実際、ここでの稲葉は、サビで大きく張り倒すのではなく、距離を保ったまま感情をにじませる。声を細くするというより、声の圧を抜いて余韻を残す歌い方です。普段のB’zで聴ける爆発力をあえて隅に置き、ためらい、寂しさ、触れられそうで触れられない感じを声で描く。この「抑えられる強さ」があるから、稲葉は単なるパワーボーカルでは終わらないのだと思います。
2021年「セクシャルバイオレットNo.1」
2021年6月、B’zは松本隆の作詞活動50周年を記念したトリビュートアルバム『風街に連れてって!』への参加を発表し、桑名正博の「セクシャルバイオレットNo.1」をカバーしました。公式サイトで稲葉本人は、松本隆の歌詞には「都会」「大人」のイメージがあり憧れの世界だったと語り、さらに「セクシャルバイオレットNo.1」という歌詞をこんなに歌いまくれる日が来るとは思わなかった、今回は亀田誠治のゴージャスなアレンジで楽しくやれたとコメントしています。BARKSも、このバージョンを骨太サウンドで、稲葉がその上を縦横無尽にシャウトする仕上がりと紹介しています。
この曲で稲葉がやっているのは、歌謡曲をロックに変えるというより、歌謡曲の妖しさをロックスターの華で増幅することです。タイトルだけ見ると、この曲は一歩間違えばキワモノっぽくもなり得ます。けれど稲葉はそこを照れずに歌う。しかも軽く流すのではなく、しっかり腰を入れて、言葉の派手さに負けない声の色気を乗せる。だからこのカバーは懐メロ感より先に、まず「うわ、似合う」と感じさせるんです。都市的で大人びた歌詞の世界を、稲葉は自分のハイトーンやシャウトで壊すのではなく、むしろもっとゴージャスな夜へ押し広げている。このあたりは、彼の“艶”の強さがよく分かる一曲です。
2003年「勝手にしやがれ」
「勝手にしやがれ」は、松本孝弘のソロアルバム『THE HIT PARADE』に、稲葉浩志フィーチャリング曲として2003年11月26日に収録されました。原曲は沢田研二です。後年の2024年には、このアルバムからの楽曲がデジタル限定で改めて配信され、稲葉が歌う「勝手にしやがれ」もあらためて聴きやすくなりました。
この曲は、稲葉のカバー歌唱の原型のような一曲です。Real Soundは、オリジナルの硬派な雰囲気を再現しつつ、より疾走感のあるゴージャスなバンドアレンジが施され、稲葉がダイナミックな歌唱と艶を展開していると評しています。実際、ここでの稲葉はかなり前のめりです。原曲の投げやりな余裕をそのままコピーするのではなく、**もっと推進力のある“攻めの曲”**として歌っている。言葉の切り方にも勢いがあり、情景を達観して見せるというより、曲の中に自分から突っ込んでいく感じが強い。この時点で既に、稲葉のカバーは「似せる」ではなく「自分の圧と艶で再構築する」方向だったことがよく分かります。
まとめ
こうして並べると、稲葉浩志のカバーには一つの流れがあります。
2003年の「勝手にしやがれ」では、圧と艶で曲を押し切る強さが前に出る。
2021年の「セクシャルバイオレットNo.1」では、派手な歌詞世界を堂々と成立させる華がある。
2023年の「ダンスはうまく踊れない」では、弱さや儚さを残す引き算が見える。
2024年の「Get Wild」では、無機質なサウンドに体温を入れる力が光る。
2024年の「銃爪」では、男臭さを鋭い決意へ変える切れ味がある。
そして2026年の「タッチ」では、青春の歌に勝負の熱を足す現在形の表現へたどり着いている。
つまり稲葉浩志のカバーの凄さは、何を歌っても「稲葉節」になることではありません。
本当に凄いのは、曲ごとに重心をずらしながら、それでも最後には“稲葉の歌”として成立させてしまうことです。強く歌える人は多い。でも、強さを引き算できる人はそこまで多くない。さらに、引き算しても存在感が消えない人となると、かなり限られます。稲葉浩志のカバーが毎回気になるのは、その希少さがあるからだと思います。

コメント