上田正樹の歌唱変遷|「悲しい色やね」を自分のR&Bとして歌えるまで

上田正樹の本人写真 シンガー

代表曲がヒットしても、歌った本人は喜べなかった。
上田正樹は、1982年の「悲しい色やね」を当時の自分には入りづらい曲だったと振り返る。
ところが長く歌い続けたのち、押尾コータローとの再録ではようやく納得できたと話し、有山じゅんじの編曲では新鮮な気持ちで歌えたという。
曲は同じでも、歌い手と伴奏、聴き手の関係は変わっていく。
その一曲を、自分のR&Bとして引き受けられるまでをたどる。

1982年発表曲の公式リリックビデオ(映像公開は2025年)。

大阪の言葉を歌う前から、ソウルが身近にあった

上田が歌を仕事にできた最初の場面には、アメリカのR&Bがある。
2024年の取材では、大阪の店を回って歌手として雇ってほしいと頼み、エディ・フロイドの「Knock on Wood」をギターで弾き語りしたと振り返った。
その演奏を聴いた店の人から、翌日から来るように言われた。
憧れて聴いていた音楽が、自分の暮らしを支える歌になったのである。

1974年には、サウス・トゥ・サウスとして福島のワンステップ・フェスティバルに出演した。
公演を収めた作品には、有山じゅんじとのアコースティック演奏と、ホーンも加わるバンド演奏が残っている。
有山と少人数で歌う場と、大きな編成の中で歌う場を、すでに行き来していた。

1974年ワンステップ・フェスティバルの記録音源を紹介する公式トレーラー(抜粋)。

翌1975年、有山と作った『ぼちぼちいこか』では、大阪の生活を歌にした。
有山のラグタイムを気に入って一緒にやろうと誘い、その音楽を土台に大阪を歌った作品だと、上田は説明している。
「梅田からナンバまで」など、身近な街の言葉を使う試みは、後のヒット曲より前からあった。
洋楽を歌う自分と、大阪の言葉で歌う自分が、完全に分かれていたわけではない。

1975年のアルバム『ぼちぼちいこか』から(2015年再発盤音源)。

作曲家が手応えを感じた歌を、本人は持て余していた

1980年代、上田は歌謡曲にも一度入ってみようと考えた。
外から批判するだけで終わらず、自分で試して、体に馴染まなければやめればよい。
そんなつもりだったが、そろそろやめようかと思い始めた頃に渡されたのが「悲しい色やね」だったという。
歌謡曲を歌う試みが行き詰まりかけたところで、代表曲に出会ったことになる。

作曲した林哲司の側にも、予想外の展開があった。
もとはアルバム『AFTER MIDNIGHT』に入れる一曲として作ったもので、強く押し出すサビや、速いテンポを狙ったシングル曲ではなかった。
CBS・ソニーの制作担当者が、このバラードをシングルにしたいと周囲を説得したのだという。

林が思い描いたのは、ジョー・コッカーのように、個性的な声で美しい旋律を歌う姿だった。
そこへ康珍化の大阪の言葉と、星勝のブルージーな編曲が加わり、上田が歌う。
林は、その組み合わせから、旋律だけでは歌は完成せず、言葉と歌い手が必要なのだと学んだと話している。
1982年の発表から翌年にかけて広がったヒットは、作曲家にとっても大きな発見だった。

しかし、上田自身の感覚は違っていた。
2020年の取材では、最初の録音は自分の中で消化できず、売れたときには落ち込んだと明かしている。
作り手の一人が歌の力を発見した録音を、歌った本人は十分に引き受けられていなかった。
だからこそ、この曲の物語は、ヒットした年では終わらない。

上田正樹の本人写真
上田正樹(2020年の取材写真)。
写真出典:日本香堂・フレグラボ取材

自分のブルースを認められ、歌う基準を探し直す

その後の歩みで支えになったのが、憧れの音楽家から受け取った言葉だった。
上田はB.B.キングに歌を評価されたことを、先の見えない時期に進む方向を示してくれた出来事として覚えている。
2021年の本人の記録では、1990年代に仕事の進め方に煮詰まっていた頃、共演の機会が来たと振り返った。

その共演曲が、自作の「Feelin’ Fine」だった。
上田によれば、キングは自分が感じるブルースをそのまま表してよいと励ましてくれたという。
音楽の仕事に行き詰まりを感じていた人にとって、敬愛する相手が自分の歌を認めた意味は大きかった。

一方で、尊敬するレイ・チャールズからは、同じ曲も演奏のたびに姿を変えることを学んでいた。
上田は何度も公演を聴き、毎回異なる編曲や旋律、バンド全体の細かな音まで捉える耳に驚いたと語っている。
一度録音した形を守るだけが、曲を大切にする方法ではない。
その音楽観は、のちに自分の代表曲を共演者と作り直す歩みにも通じている。

押尾コータローとの再録で、ようやく納得できた

2019年のアルバム『Soul to Soul』には、長年一緒に演奏してきた仲間が参加した。
その中で「悲しい色やね」は、押尾コータローのギターと上田の歌によるデュオで録り直している。
レコードの伴奏を再現するのでなく、二人で曲を進める形を選んだ。

押尾とは、それまでにもビルボードライブなどで何度か共演していた。
上田が取材で強調したのは、細かく相談しなくても、本番で気持ちよく演奏できることだった。
同時に、押尾がいつもギターを弾き、熱心に向き合っている姿も話している。
細かな指示を省ける関係には、それまでの共演で知った相手の音楽があった。

2020年の取材で上田は、この再録には手応えがあり、ようやく曲が完成に近づいたように感じると話した。
同じ旋律と言葉を、今の共演者との関係で歌い、自分でも納得できる録音を残した。
原盤を愛してくれる聴き手がいることも、本人はよく知っていた。
発売当時を知らない若い人がこの曲で涙を流す姿には、歌う側が驚くこともあるという。

「悲しい色やね」2019年再録版。
押尾コータローとのギター・デュオ。

ヒットの大きさと、自分が歌ったときの納得は、別々に育ってきた。
聴き手はすでに自分の思い出として曲を受け取っている。
上田はその曲を舞台へ持ち出し続け、自分も心から歌える形を探していたのである。

有山じゅんじのリズムで、昔の曲が新鮮になった

再録で納得を得ても、歌の形がそこで固定されたわけではなかった。
2021年7月の京都・高台寺での公演では、有山が「悲しい色やね」をシャッフルのリズムへ編曲した。
長短の弾みを持つリズムに変わり、上田は、何度も歌ってきた1980年代の曲を新鮮に歌えたと自身のブログに記している。

高台寺 meets Soul Music(2021年7月11日公演・公開映像は約13分の抜粋)。

いつ言葉を出し、どんな流れに身を置いて歌うか、その土台となるリズムが変わった。
『ぼちぼちいこか』を共に作った有山が、長い年月を経て、また上田の歌へ新しい入口を作っていた。

2024年のR&B BANDの公演レポートにも、有山版の「悲しい色やね」を歌ったことが記されている。
若い頃からの仲間との編曲は、その一回だけの試みで終わらなかった。
本人が同年の取材で、今はこの曲が自分の中でR&Bになっていると話した背景には、こうした演奏の積み重ねがあった。

上田正樹の本人写真
上田正樹(2024年の取材写真)。
写真出典:キョードーメディアス取材

代表曲を持ったあとも、歌手として始まり続ける

声への感覚も、長い現場の中で変わった。
20代の終わりにトレーナーから教わった「背骨を使え」という言葉を、上田は当時理解できなかったという。
50代の舞台でその感覚をつかみ、70代になってからも声の調子がよいと、2024年の取材で話している。
本人にとって、歌う体の理解も、若い頃に完成していたものではなかった。

同じ頃、さまざまな道を通った結果、R&Bの核はグルーヴ、すなわちリズムにあると実感したとも語った。
声の手触りだけでなく、仲間の演奏の中でどう歌が動くか。
押尾とのデュオや、有山のシャッフル版を重ねて見ると、上田の言う変化を、具体的な歌の場面として捉えられる。

2026年に公開された「BLUES & BARRELS」の映像でも、有山のギターと堺敦生の鍵盤を伴い、「悲しい色やね」を歌っている。
代表曲は、昔の成功を見せるためだけの歌ではなく、そのとき一緒にいる人と演奏する曲であり続けている。

「悲しい色やね」BLUES & BARRELS版(2026年公開)。

ヒットは、聴き手がこの曲を見つけた瞬間だった。
上田が自分の歌として納得するまでには、そこからさらに時間が必要だった。
その長さを知ると、原盤も後年の再録も、一人の歌手が途中で残した答えとして聴ける。
一曲の言葉や即興、伴奏との関係は、上田正樹の歌い方で掘り下げている。

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