TERUの歌声はどう変わった?GLAY初期の張りから「身体全体で鳴る声」まで

TERU縺ョ豁悟」ー縺ョ螟蛾・ TERU

TERUさんの歌声は、若い頃の張りを失って穏やかになった、という一方向の変化ではありません。
地声で強く押し出す場面を残しながら、裏声やミックスボイスを選ぶ自由が増え、現在は本人が「身体全体で鳴る」と表現する声へ変わっています。

その変化は、歌い方だけに収まりませんでした。
TAKUROさんは近年、TERUさんの倍音と声の伸びが良くなったため、長い音を生かす言葉やメロディーを書けるようになったと語っています。

つまりGLAYでは、作曲された歌をボーカルが攻略してきただけではありません。
TERUさんの成熟した声が、次に作られるGLAYの曲まで変えてきたのです。

1988〜1994年、ドラムの後ろにいた声がGLAYの中心になった

GLAYは1988年、TAKUROさんとTERUさんを中心に函館で結成されました。
ただしTERUさんは、最初からボーカルとして前に立っていたわけではなく、ドラムを担当していました。

転機は、TAKUROさんがTERUさんの歌を耳にしたことです。
歌わせるべき人だと考えたことで、バンドの中心に置かれる楽器がドラムから声へ変わりました。

1994年5月、GLAYはYOSHIKIさんのプロデュースによる「RAIN」でメジャーデビューします。
後の巨大なライブを知る人には意外ですが、出発点の声は完成されたロックボーカルの記号ではなく、バンドの未来と一緒に広がり始めた段階でした。

この時期を現在と比べる時、単純に上手いか下手かで並べると大切なものを落とします。
若い声の直接さは未熟さだけではなく、これからGLAYが何者になるかを一気に外へ押し出す力でもありました。

1996〜1997年、言葉を詰め込む曲が若い張りを必要とした

1990年代半ばのGLAYには、短い時間へ多くの言葉を詰め込むメロディーが目立ちます。
TAKUROさん自身が後年、当時の歌詞と旋律を機関銃のようだったと振り返るほど、息を休ませる余白の少ない曲作りでした。

その設計では、TERUさんも一語ずつをゆっくり味わうより、次の言葉へ勢いを渡し続ける必要があります。
声の張りは高音の技術だけでなく、密度の高い言葉を前へ進めるエンジンの役割を持っていました。

「HOWEVER」が発表された1997年には、速い言葉の流れと大きなロングトーンが一曲の中で同居します。
若いTERUさんのまっすぐな声は、恋愛の迷いを繊細に隠すより、あふれた感情をそのまま遠くへ届ける方向に働きました。

「HOWEVER」発表期のTERU

後年の歌唱が丁寧になったからといって、初期の張りが間違いだったわけではありません。
当時の曲の密度とバンドの上昇速度には、言葉を迷わず放つ若い声が似合っていました。

1998〜1999年、巨大になったGLAYを一人の声が背負った

1998年から1999年にかけて、GLAYは大規模なツアーとヒット作を重ねます。
客席が大きくなるほど、ボーカルには細かな表情だけでなく、一声で会場全体の景色を切り替える存在感が求められました。

「Winter,again」では、寒さや距離を描く言葉と、広い旋律が結びつきます。
TERUさんの高音は個人的な独白を越え、巨大な会場で何万人もの記憶を同じ方向へ向ける役割を担いました。

「Winter,again」発表期のTERU

ここで声は、初期よりもGLAYの象徴に近づいています。
その一方で、ヒット期の強さがそのまま一生の正解になると、年齢や曲調が変わっても同じ圧力を再現し続けなければなりません。

TERUさんの後半の歩みは、この全盛期を捨てることではなく、過去の曲を届け続けるために声の使い方を増やす歴史になります。

氷室京介さんの歌声の変遷と並べると、若い頃の鋭さを保存するのではなく、年齢に合わせて言葉の置き方を増やしていくロックボーカルの共通点も見えてきます。

2003〜2004年、禁煙は「もっと高く」ではなく「もっと温かく」歌う選択だった

2004年3月、TERUさんは禁煙から約8か月が経ったと公に話しています。
その時に語ったのは、音域を広げた、声量が増えたという競技的な成果ではありませんでした。

歌い方が変わり、以前より温かい歌を届けたいという方向へ意識が向いたのです。
若い頃の強さを保存するだけでなく、同じ声をどのような温度で聞かせるかを考え始めた転機として読めます。

もちろん、禁煙だけですべての変化を説明することはできません。
年齢、作品、ライブ経験、身体作りが重なって声は変わるため、一つの生活習慣を万能な原因にするのは不正確です。

ただ、TERUさん自身が声の変化を感じ、目標を「強さ」から「温かさ」へ言い換えた事実は重要です。
全盛期の再現ではなく、次に届けたい感情から歌い方を選ぶ姿勢が、ここからはっきり見えます。

2010年代、「Satellite of love」は声の年輪を測る曲になった

TERUさんは「Satellite of love」を、10年ごとに録音してみたい曲として挙げています。
50代、60代と歌い直せば、声が太くなり、表現も成熟していくはずだと考えているからです。

この発想は、若い時の録音を絶対的な正解にしません。
同じ曲を同じ音色で保存するのではなく、年齢によって変わった声を作品の新しい価値として受け入れています。

一般に歌手の変化は、昔より高音が出るか、原曲キーを守れるかで評価されがちです。
TERUさんは、キーを下げることも善悪ではなく、過去の曲をファンへ届け続けるための選択だと考えています。

声の年輪を隠さず、曲の中へ残す。
この考え方があったからこそ、後のトレーニングも若返りではなく、長く歌うための更新になりました。

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2020〜2023年、歌えない期間にも歌い続けた三年間が喉の役割を変えた

コロナ禍で通常のライブ活動が止まっても、TERUさんは歌うこととリモートでのトレーニングを続けました。
身体作りも、大きな筋肉を付ける重い負荷から、柔軟性を保つ自重運動や軽い負荷へ移しています。

その後、帯同する鍼灸師から、声が身体全体で鳴るようになったと指摘されました。
本人も、呼吸するように自然に歌え、喉の疲労が少なく、二日間の公演でも状態が崩れにくくなったと説明しています。

若い頃の張りは、声を前へ押し出す力としてGLAYを大きくしました。
現在の安定は、喉だけに仕事を集めず、身体の状態を含めて歌える範囲を広げています。

この時期の変化を「昔より弱くなった」と表現するのは適切ではありません。
強さを出すために必要な負担が減り、二日目にも同じ曲を届けられる持続性が加わったからです。

同じく長い活動の中で声の距離感を変えてきた例は、河村隆一さんの歌声の変遷でも確認できます。
変化を衰えだけで測らない視点を持つと、現在のTERUさんが得た自由が分かりやすくなります。

2022〜2024年、TERUの変化がTAKUROの作曲を変えた

声の変化が最も面白い形で表れたのは、新曲の作られ方です。
TAKUROさんは、TERUさんの倍音や声の伸びが以前より良くなったため、長い音を生かす言葉やメロディーを選べるようになったと語っています。

初期GLAYの密度が高い歌詞は、短い時間へ言葉を詰め込む曲を生みました。
現在は、声が伸びる時間そのものを曲の魅力にできるため、作曲家が旋律へ置く余白も変わります。

さらに「さよならはやさしく」の録音では、TERUさん自身が地声、裏声、ミックスボイスのどれで歌うかを考えました。
若い頃の声を一種類だけ再現するのではなく、曲の感情に合わせて複数の声から選ぶ段階へ進んでいます。

2024年のアルバムでは、函館の自身のスタジオでボーカルを録音し、デモの段階から異なる声やスタイルを試しました。
最終録音で偶然うまく歌えるのを待つのではなく、曲が生まれる途中から歌い方を設計しています。

TERUさんの現在の歌い方・発声分析では、地声・裏声・ミックスを選び直してもTERUらしさが残る理由を、語尾とハスキーな輪郭から整理しています。

TERUの歌声は、全盛期を守るよりGLAYの未来を作る声へ変わった

ドラム担当からボーカルになったTERUさんは、1994年のデビュー後、密度の高い言葉と大きな会場を若い張りで背負いました。
1999年前後の高音は、GLAYが巨大になっていく速度そのものを声にしたような力を持っています。

2000年代には禁煙を通じて歌の温かさを意識し、2010年代には年齢で変わる声を作品の新しい色として受け入れました。
コロナ禍の継続トレーニングを経た現在は、本人が身体全体で鳴ると表現する、喉へ負担を集めにくい声へ進んでいます。

そして最も大きな変化は、その声が新しい曲の作られ方まで動かしたことです。
TAKUROさんが長い音を生かす旋律を書けるようになり、TERUさんも一曲ごとに声区を選び直しています。

GLAYの全盛期は、過去の音色を凍らせて保存することで続いているのではありません。
TERUさんの声が変わるたび、曲の側もその変化を受け入れて作り直されるから、昔の歌と新しい歌が同じバンドの現在として並び続けています。

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