根本要さんの歌声は、1981年のデビューから同じまま保存されてきたわけではありません。
本人も声が年齢とともに変わることを認め、ライブのたびに歌い方は変わると話しています。
それでもスターダスト☆レビューの高音が長く同じ曲を支えてきたのは、変化へ逆らったからではありません。
若い頃に魅力を感じていた雰囲気優先の歌から、音程とハーモニーを精密に合わせる歌へ進み、さらに歌の主人公を自分から聴き手へ渡してきました。
結論を先にいえば、根本要さんの最大の変化は声の高さではなく、歌う目的です。
自分が格好いいと思う音楽を鳴らす出発点から、客席と楽しみ、誰かを支え、受け継いだ音楽を次へ渡す歌へ変わっています。
1981年、ギタリストが必要に迫られて歌い始めた
根本要さんは、最初から完成されたボーカリストとしてバンドの中央へ立ったわけではありません。
自分の出発点はギターで、必要に迫られて歌うようになったと振り返っています。
1981年、スターダスト☆レビューはアルバム『STARDUST REVUE』と「シュガーはお年頃」でデビューしました。
初期から高い声と複雑なコーラスは目立っていましたが、本人の関心は声を美しく聞かせることだけに向いていませんでした。
ビートルズやビーチ・ボーイズのように、複数の声がコードを作り、バンド全体が一つの音になることへ強く惹かれていたからです。
前座を重ねた時代には、短い時間で知らない客席を引き込む必要がありました。
歌、演奏、会話を分けず、一つのステージとして楽しませるスタレビの形は、売れてから付け加えた演出ではなく、この時期から育った生存戦略でもあります。
1984〜1986年、高音がライブの共有物になった
1984年の「夢伝説」は、スターダスト☆レビューを広く知らしめた初期の転機です。
その後の「今夜だけきっと」も、根本さん一人の高音だけで完結せず、コーラスと観客の記憶を巻き込む代表曲になりました。
大きな会場へ進んだ1980年代後半にも、根本さんは客席を受け身の「お客様」として扱いませんでした。
一緒に歌い、手拍子をし、会場の空気を作る参加者と考えています。
高音は歌唱力を証明する頂上ではなく、全員の気持ちを同じ場所へ集める合図になっていきました。
この時代の公式音源と後年のライブ映像は、録音環境もアレンジも異なります。
動画だけを比べて声の加齢変化を断定することはできません。
重要なのは、同じ曲がライブごとに客席との関係を変えながら歌い継がれてきた点です。

1993年、「木蘭の涙」が完成しない曲になった
1993年の「木蘭の涙」は、根本要さんの歌唱を語るうえで外せません。
のちに多くの歌手がカバーし、アコースティック版も作られましたが、本人は死ぬまで完成しない曲だと考えています。
完成しないという言葉は、毎回激しく感情を加えるという意味ではありません。
根本さんは歌へ入り込みすぎず、聴く人を主人公にする立場を取ります。
悲しみを自分の涙で埋めず、旋律と言葉を壊さず客席へ渡す方向へ、長い年月をかけて歌の距離を整えてきました。
同じ1990年代には、長く一緒だったメンバーの離脱も経験しています。
解散も考えた不安の中で活動を続け、1995年からは香川のテアトロン公演を積み重ねました。
バンドが不変だったから声も残ったのではなく、変化のたびに「誰と、どこで歌うか」を作り直してきたのです。
小田和正との出会いで、音程の意味が変わった
若い頃の根本さんは、音程が少し低めに揺れた歌にも独特の雰囲気があると感じていました。
正確さだけが音楽の魅力ではないという感覚です。
その考えを大きく動かしたのが、小田和正さんとの演奏でした。
小田さんの声がバンドの中で鮮やかに共鳴した時、正しい高さへ音を置くことが、単なる採点上の正解ではなく、和音を美しく鳴らす条件だと気づいたといいます。
以後、歌詞やリズムとともに、音程を外さないことを強く意識するようになりました。
ここで初期の個性を捨てたわけではありません。
乾いた声や勢いを残したまま、音の中心をより正確に狙うようになった。
高音の高さが増えたというより、バンドの中で高音が働く場所を細かく選べるようになった変化です。
小田和正さんの歌唱変遷と並べると、異なる声質の二人が音程と共鳴をどう捉えてきたかを比較できます。
2011年以降、音楽の目的が自分から人へ広がった
東日本大震災の後、根本要さんは何を歌えばよいのか分からなくなったと話しています。
それまで最大の娯楽だった音楽を、自分が作って楽しむものだけでは捉えられなくなったのです。
考え抜いた末に出た答えは、音楽を通して人と一緒に楽しむことでした。
誰かが少し前を向く時、気づけば体を揺らし、口ずさめる曲を作る。
この転機以後、歌は自己表現である以上に、人と人をつなぐ働きを意識するものへ広がります。
30周年期に披露された「木蘭の涙〜acoustic〜」は、1993年のアルバム音源と編成も収録条件も違います。
変化を声だけへ還元せず、曲が長いライブ活動の中で別の役割を得た例として見るのが適切です。
2018年の入院後も、変化を隠さず舞台へ戻った
2018年6月、根本要さんは脳に微小な梗塞が見つかり、治療と検査のため約1週間入院しました。
退院時の公式発表では日常生活に特別な制約はなく、本人は体に気をつけながら最高のライブを目指すと伝えています。
この出来事を、歌声が変わった原因として結びつける根拠はありません。
むしろ変遷の中で大切なのは、健康上の出来事までMCの題材へ変えながら、活動を再開した姿勢です。
声も体も不変ではないという現実を隠さず、その時の条件で舞台を成立させています。
本人は同じ頃、声の年齢変化を受け入れ、現在を保つ工夫によってデビュー時のキーで歌えていると語りました。
これは全曲・全公演が若い頃と同じという意味ではありません。
変化を認識しているからこそ、曲の高さを守るための息、音量、マイクの使い方を更新できるという話です。
現在の高音の設計は、根本要さんの歌い方・発声分析で詳しく整理しています。
2020年代、歌声は次の世代へ渡す役目を持った
2020年の「はっきりしようぜ」では、40周年を目前にしても新曲を作り、ツアーへつなげるスタレビの循環が続いています。
2025年には4年半ぶりのオリジナルアルバム『星屑冒険王』を発表しました。
45周年ツアーは2025年から2027年まで、ホール、アカペラ&アコースティック、野外を含む約150公演が計画されています。
根本さんは、全国の聴きたい人の街へ自分たちが出向くことを重視しています。
近年さらに強くなったのは、自分が影響を受けた音楽を次世代へ伝える意識です。
歌声は個人の若さを証明するものではなく、過去の音楽と現在の客席をつなぐ媒体になりました。
高音が注目されても、本人が本当に残そうとしているのは、その音を生んだハーモニーと音楽への好奇心です。

変わったのは声だけでなく、歌を置く場所だった
根本要さんの歌声は、初期から現在までに変化しています。
ただし、その変化を太くなった、細くなった、高音が落ちたという一本の物差しでは説明できません。
ギタリストが必要に迫られて歌い始め、ライブで客席と高音を共有し、「木蘭の涙」を完成しない曲として育てた。
小田和正さんとの演奏から音程と共鳴の意味を学び、震災後には音楽の目的を人とのつながりへ広げました。
声の年齢変化を認めながらデビュー時のキーを保てたのは、昔の声へしがみついたからではありません。
歌い方を日々変え、感情を押しつけず、今の声が最も正確に働く場所を探し続けたからです。
1981年の根本要さんが歌っていたのは、自分たちが格好いいと思う音楽でした。
45周年を迎えた現在、その歌は客席を主人公にし、受け取った音楽を次へ渡すために鳴っています。
高音が長く残った理由は、声を変えなかったことではなく、歌の置き場所を変え続けたことにあります。






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