「夜永唄」で柳田周作の声を知ると、神はサイコロを振らないは小さく語りかける歌のバンドに思える。
ところが本人は、その歌い方ではライブで声が聴こえにくいこともあったと話す。
それでも、声を一律に大きくする道は選ばなかった。
同じ曲でも演奏や歌う箇所を変え、別の曲では伴奏に声の役割を分け、録音時にはマイクとの距離に気を配る。
息の多い声を消さずに歌を届けるため、柳田は何を選んできたのか。
息の多い声は、弱点でも万能な武器でもない
柳田は、自分の曲にはウィスパーボイスが中心になるものが多いと認めている。
息を含む声で歌っていると、ライブハウスのスタッフからもっと腹から出すように言われることもあった。
本人も、マイクに声が乗りづらく、客席で聴こえにくい場合があったと話す。
ここに、柳田の歌い方の難しさがある。
音源で心に近く感じる声も、ステージでは他の楽器に埋もれ得る。
本人は独特だと指摘されたブレスの入れ方も、細かく設計した技術というより感覚的にやってきたという。
息の多さを単に「脱力できている証拠」と褒めるだけでは、ライブでその声を届ける問題が見えなくなる。
この迷いをほどいた一人が、ビリー・アイリッシュだった。
柳田は彼女の歌を聴き、大きな声で押し出さなくても成立するのだと感じたという。
自身も六畳の部屋でデモを作っており、身近な環境で生まれる声を作品にする感覚があった。
他の歌手と同じ声量を目指す前に、自分が自然に歌ったときの魅力を見つける。
そのうえで客席まで届く音に整える、という二段階で考えると、息の多い声を残した意味がわかりやすい。
「夜永唄」は、歌の最初から聴く人を引き込んだ
「夜永唄」が短い動画で広がったとき、柳田が意外に思ったのはサビだけではなくAメロも使われたことだ。
普段なら盛り上がる部分だけを切り取られそうな曲で、物語へ入る部分にも耳が向いた。
小さい声を大きい声へ上げる瞬間だけが、この歌の決め手ではなかった。
だから「夜永唄」を息の多い声だけで説明すると、柳田本人が意外に思ったAメロの広まり方を見落とす。
本人が挙げたのは、短い言葉を区切って歌う部分だった。
サビの高まりを待つ前に、歌詞の断片を自分の経験へ結びつけられる。
その余白が、声量とは別に聴き手を引き込む理由になったのではないか。
歌とピアノだけにすると、どこを歌うかも変わる
2020年に公開された「THE HOME TAKE」版の「夜永唄」は、歌とピアノだけで演奏された。
柳田は、伴奏が少なくなると歌詞の一つ一つがいっそう浮き上がったと話す。
しかも原曲で最後にフェイクが入り、二つの歌詞が重なっていた箇所は、どちらの言葉もきちんと歌う構成に変えたという。
同じ曲をただ静かに歌い直したわけではない。
収録日の声は万全ではなかった。
それでも本人は、仕上がった映像に残る儚さをよいものと感じた。
毎回同じフェイクを再現する技術より、その日の声で歌詞をどう届けるかを重視している。
声の調子を理想形に近づけるだけでなく、演奏を減らしたときに何を明瞭に歌うかを選んだ例だ。

写真出典:日刊スポーツの2023年写真記事
「泡沫花火」は、伴奏が歌の強さを決めた
「泡沫花火」は、女性側の気持ちを想像して書いた歌だ。
柳田は、当初考えていた歪んだギターをやめ、繊細な歌を最後まで響かせられる編曲を選んだ。
本人によれば、伴奏が変わったことで歌の表情も変わった。
曲に開ける旋律を用意しながら、全体を力強く押し切らない良さを残している。
歌い方の理由を喉の使い方だけに求めると、この判断を見落とす。
強い歌詞には強い音量、と決めず、別の人物の思いが繊細に聞こえる伴奏を探した。
声が前へ出過ぎないように周りの音を選ぶのも、歌を届けるための仕事だった。
「プラトニック・ラブ」は、悲しみを声へ足さない
「プラトニック・ラブ」の歌録りで、柳田は最初、悲しみを帯びた声を出していた。
だが制作に参加した伊澤一葉から、感情をなくす方向を試すよう言われた。
伴奏は大きく動くのに、歌は平坦にする。
柳田自身は、この曲を「夜永唄」の悲しみが過ぎ、空っぽになった状態として説明している。
録音に立ち会ったドラマーの黒川亮介も、表情をなくした歌のほうが、最初より悲しく聞こえたと振り返った。
感情を弱める指示が、聴き手に伝わる感情まで弱めるとは限らない。
歌詞が悲しいから声も悲しくする、という一対一の対応ではない。
声が語らない分を楽器へ預けると、かえって曲の人物が立ち上がることもある。
柳田は自分の持ち味を捨てたのではなく、声が担う仕事を減らした。
「1on1」では、声で人物へ近づいた
反対に「1on1」では、主人公の変化に合わせ、2番を女性が歌うように表現したかったと柳田は話す。
何十回も歌い直し、語尾のビブラートにも納得するまでこだわった。
通常は聴きながら歌うクリック音を外したときにうまく収まったという。
この曲では、ギターと歌は生の演奏、リズムは打ち込みという組み合わせも選んでいる。
対照的な人物を音でも描くための構成だった。
一定の拍を示すクリックを外しても、曲からリズムが消えるわけではない。
伴奏の規則的な動きに対し、言葉の終わりをどう揺らして人物の気持ちを残すかが、歌側の課題になっていたと考えられる。
感情を引く「プラトニック・ラブ」と比べると、同じ歌手の別の技術が見える。
声を響かせる方法そのものより、その場面で誰の言葉を歌っているのかを先に考える。
ぴったり揃えた時間が人物の動きを狭めるなら、録音の手順も変える。
柳田にとって歌い方は、息の量やビブラートの形だけで決まるものではない。

写真出典:BARKSの2024年記事
マイクとの一センチが変えるもの
近年の柳田は、自分でミックスに関わり、録音やライブのマイクの扱いにも意識を向けている。
顔の位置が一センチ動くだけで声の質が大きく変わると本人は語る。
曲が生まれた瞬間に家で録ったデモには、肩の力が抜けたよい歌が残ることも多い。
機材の性能だけでなく、その一回でどう歌えたかを重視している。
2026年の取材では、声の出方や、楽に歌うための身体の使い方がわかってきたことも話している。
ただし、そこで特定の筋肉や呼吸法を解説したわけではない。
具体的に語られているのは、自宅での録音を聴き、マイクの位置と歌の出来を確かめる経験だ。
気持ちよく歌えた感覚と、録られた声の良さは、両方を照らして判断できる。
柳田の言う楽さは、小さく歌えばよいという一律の答えより、自分の声が生きる条件をつかむ話として受け取れる。
「夜永唄」で耳に残った息の多い声と、ライブでその声を届かせる課題は、別々の問題ではなかった。
声を変えずに済む場面と、伴奏や録音を変えるべき場面を見分ける。
柳田の歌い方は、その判断を曲ごとに行うところにある。
こうした選択が時期をまたいでどう広がったかは、柳田周作の歌唱変遷で追っている。







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