河島英五の「てんびんばかり」は、一度録音した形のまま歌い続けられた曲ではありません。
初期のアルバムからライブへ、さらに1991年の「世紀末ヴァージョン」へと、歌う言葉の量も、歌の進み方も変わっています。
荒削りで力強いと評された歌い手が、同じ曲をどう歌い直していったのか。
版ごとの違いと、共演した人たちの回想から、その歩みをたどります。
酒と泪と男と女 公式リリックビデオ(1993年発売音源・2026年動画公開)
1975年、力強い歌をライブの場へ
1975年、河島英五とホモ・サピエンスはアルバム『人類』を発表しました。
「酒と泪と男と女」も「てんびんばかり」も、この初期の作品に収められています。
音楽評論家の前田祥丈は、当時の河島のボーカルを、荒削りでありながら力強く、率直な心情を歌うものとして振り返っています。
後に広く知られる代表曲の歌手像が出来上がる前から、強い声で思いを伝える存在でした。
バンドの解散後には、京都のライブハウスを足場に全国を回ります。
公式メモリアルサイトの紹介によれば、各地でのライブが話題になり、アルバムの中の「酒と泪と男と女」も注目を集めていきました。
録音した歌を舞台へ持ち出し、聴き手と出会っていくことが、ソロ活動の出発を支えていたのです。
一方、「てんびんばかり」が深く残った聴き手もいました。
後に河島と仕事をするフジテレビのきくち伸は、高校時代、街でこの曲を耳にして衝撃を受けたと書いています。
レコード店で探し、二枚組の『LIVE てんびんばかり』を買うと、同じ一曲を何度も繰り返し聴いたそうです。
誰もが知るヒット曲だけでは、当時の河島が聴き手に与えた衝撃を語り切れません。

画像出典:河島英五メモリアルWEBサイト
1977年のライブ盤では、問いかける場面が増える
「てんびんばかり」は、対照的な出来事を次々に並べ、物事をどう受け止めるかを問いかける歌です。
複数の版を比較したブログ筆者のちゃぶ~は、1977年の『LIVE てんびんばかり』には、初期のアルバム版にない、兄弟の喜びや悲しみ、若者と大人のやりとりが加わっていると記しています。
一つの主張を短くまとめて終えるのではなく、別の場面へ進み、もう一度考えさせる。
歌う情景を増やすことは、その問いを聴き手と共有する時間を長くすることでもあります。
同じ題名の歌でも、舞台へ持ち出した時には、初期の録音をそのまま再現するだけのものではなくなっていました。
1978年の出会い、ピアノで歌った「酒と泪と男と女」
舞台でその存在感に触れた一人が、加藤登紀子です。
2026年の取材で加藤は、1978年末の「ほろ酔いコンサート」を初対面の場として振り返っています。
客席に河島がいると声が上がり、舞台へ招くと、そのままピアノの前へ座って「酒と泪と男と女」を歌ったそうです。
予定された共演を重ねる前に、歌を交わしたことで二人の距離が縮まりました。
翌年の正月には、河島から加藤の事務所へ「生きてりゃいいさ」のカセットが届きます。
加藤はその歌を録音し、二人はジョイントコンサートで各地を回ることになりました。
ここでの新しい録音は加藤の歌唱ですが、河島にとっても、自分の歌が別の歌い手へ渡り、同じ舞台で届ける機会へと広がった出来事です。
生きてりゃいいさ 加藤登紀子による音源(1979年発売)
加藤の記憶には、歌に加え、旅の話で客席を笑わせた姿も残っています。
歌の言葉で問いかける河島と、話す言葉で聴き手と打ち解ける河島。
共演者の回想からは、録音された一曲の外側にも、舞台で人を引きつける時間があったことが分かります。
1991年の「世紀末ヴァージョン」で変わった、言葉と間
1991年7月には、「てんびんばかり~世紀末ヴァージョン」がシングルとして発売されました。
ちゃぶ~はこの録音を初期の版などと聴き比べ、伴奏がポップス調になり、旋律に対する言葉の歌い方も変わったとしています。
比べた四つの版の中で、歌唱が最もマイルドだと感じたのも、この版でした。
構成にも、具体的な違いがあります。
初期の版にあった母親と子どもについての重い一節が省かれ、サビの直前に八小節の間奏が入る。
ほかの版では二度繰り返すサビも、一度になります。
歌い方の柔らかさという評者の印象に加え、言葉を重ねる量や、演奏へ渡す時間が変わっているのです。
1977年のライブ盤では場面を加え、1991年の版では言葉や反復を減らす。
同じ曲を歌い直すにも、違う選択がありました。
この曲の変化は、声の勢いだけでなく、何を歌い、どこで歌わずに演奏へ委ねるかにも表れています。
舞台の端まで、そして被災した人のもとへ
河島のステージに学んだ押尾コータローは、大きな会場での身振りについても教わったと振り返っています。
大きく手を広げれば、二階席や客席の端にいる人にも伝わる。
まだ大舞台を経験していなかった押尾に、河島はそうした届き方を話していたそうです。
2021年のラジオ番組の記録には、「晩秋」のライブでピアノを弾き、足で大きくリズムを取る姿への回想もあります。
押尾は、無骨に見えて繊細な河島の人柄を、その音楽と重ねています。
声、楽器、体の動き、曲の間の話。
舞台で歌を届ける河島の表現は、それらを含めたものとして、後輩の記憶に残っていました。

画像出典:写真掲載元
1995年の阪神・淡路大震災の後には、加藤と避難所を回り、マイク一本で一緒に歌ったこともあったといいます。
同年には、河島が復興義援コンサート「復興の詩」を始めました。
漫才作家の本多正識の回想でも、河島は、自分が歌うことで少しでも助けになるなら、続けられる間は続けたいと話しています。
初期には、ライブを重ねることで自分の歌を広めていました。
後年には、その歌を求める場所へ出向き、歌うことを人の支えにしようとしていたのです。
加藤が舞台の上で初めて出会った歌い手は、年月を経て、避難所でも隣に立って歌う仲間になっていました。
年を重ねた自分の気持ちで歌う
本多が記した本人の言葉には、これからの歌との付き合い方も残っています。
年を重ねれば、その時々に思うことも変わる。
だから、その時の素直な気持ちを歌にし、歌いたいように歌っていきたいという考えでした。
この発言が「世紀末ヴァージョン」の変更理由を説明しているわけではありません。
ただ、過去に歌った自分と、これから歌う自分との違いを、自然に受け止めようとする言葉ではあります。
「てんびんばかり」に残る言葉の増減と、歌う場所や相手の広がりをたどると、同じ歌を持ちながら、その時の自分として歌う河島の姿が見えてきます。
力強い声と語尾の表情については、河島英五の歌い方で詳しく取り上げています。







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