加藤登紀子の歌唱変遷|低い声への自信と、50歳から始めた声の訓練

加藤登紀子の取材掲載写真(2024年、関西プレス) シンガー
加藤登紀子の取材掲載写真(2024年、関西プレス)

加藤登紀子が本格的にボイストレーニングを始めたのは、50歳を迎える少し前だった。
すでに代表曲をいくつも持つ歌手が、そこで声を学び直している。
その前には、嫌いだった低い声を認め、シャンソンを習い、歌手らしく歌おうとする自分から離れていく過程があった。
そして80代には、長年歌ってきた曲を新しい共演者と録り直す。
声への自信と、歌い続けるための準備は、どのように育ってきたのだろうか。

「時には昔の話を」(2015年・NHKホール公演の正規ライブ音源)

低い声を、歌うための声として受け止めるまで

子どもの頃の加藤は、自分の低い声をコンプレックスに感じていた。
2026年のラジオで振り返った転機は、女性シャンソン歌手ダミアとの出会いだ。
低い声の女性が、これほど魅力的な音楽を歌っている。
その発見によって、自分が恥ずかしいと思っていた声にも、歌う可能性が見えたという。

1964年、父が応募したシャンソンのコンクールへ出場する。
最初の結果は4位だったが、翌年も出るよう勧められ、レッスンへ本腰を入れた。
フランス語の歌詞と日本語訳の違いを調べることも、その学びに含まれていたという。
翌1965年の優勝へ向かう間には、ただ歌い慣れるだけでなく、歌う言葉の意味へ近づく時間があった。

歌手の形に合わせるより、「ひとり寝の子守唄」で自分を歌う

プロとしての出発が恵まれていても、すぐに自分の歌が見つかったわけではない。
加藤は2020年の取材で、まだレパートリーが少なく、作詞作曲もできないうちに、歌手が本業になってしまったように感じたと振り返っている。
シャンソンを歌う店やホテル、大きな舞台で経験を積むことと、自分が何を歌いたいかを知ることには、隔たりがあった。

後に夫となる藤本敏夫が「知床旅情」を歌うのを聴いたとき、歌はプロだけのものではなく、誰もが持つ思いなのだと気づいたという。
歌手にふさわしい形へ自分を合わせようとするより、自分を歌えばいい。
その考えが、自作曲を表へ出す方向につながっていった。

高石ともや、ジャックスとのジョイントライブで、とくに手応えがあったのが「ひとり寝の子守唄」だった。
1969年に発売され、その年の日本レコード大賞歌唱賞へつながったこの曲で、自分の思いから生まれた歌が聴き手に届く経験をする。
低い声を認めた後、歌う内容も、自分の側から選び取るようになっていったのだ。

この曲はその後も歌い継がれ、公式に公開された30周年公演の映像には、1995年の歌唱が残っている。

ひとり寝の子守唄 30周年コンサートでの歌唱(1995年)

自分で作った歌でも、今の自分に合うとは限らない

自分の歌を見つけても、その形だけに収まろうとはしなかった。
1974年の「灰色の瞳」は、その一例だ。
ギターの弾き語りで親しまれるようになった後、復帰の曲に南米の音楽を選んだことを、不思議がられたり批判されたりしたと、2025年の対談で振り返っている。
加藤にとっては、自分が良いと思う出会いを歌へ取り込むことが自然だった。
出来上がった歌手像より、次に歌いたいものへ向かっていたのである。

一方、作った歌と、その時の自分に距離を感じたこともある。
「難破船」を中森明菜へ渡した経緯について、加藤は、自分が歌うと他人事のように感じ、当時の自分の歌ではないと思ったと話している。
それなら22歳の明菜に、と考え、1987年の録音へつながった。

自作曲だからこそ、自分が最もよく歌えると決めつけてはいない。
誰が、どの時期に歌えば、その言葉が生きるかも考えていた。

加藤登紀子の取材掲載写真(2020年、フレグラボ)
加藤登紀子の取材掲載写真(2020年、フレグラボ)。
画像出典:写真掲載元

1992年秋、歌い続けるために一度立ち止まる

50歳を迎える少し前には、歌う声を支える生活そのものを見直す時期が来た。
2022年の『サライ』で加藤は、疲れ果て、自分を肯定する気持ちも失い、いつまで歌手を続けられるのか考えたと話している。
直前に父を亡くしたことも、立ち止まるきっかけだったという。

1992年秋から一年間、スケジュールを白紙にし、仕事の態勢もいったん解いた。
その時に初めて始めたのが、ボイストレーニングやストレッチなどの訓練だった。
それまでは、周りの歌手が体を鍛えたり声を訓練したりしていても、自分は何もしてこなかったと振り返っている。

若い頃のシャンソンのレッスンでは、曲や言葉をどう理解して歌うかを学んでいた。
ここで本人が初めてと呼ぶボイストレーニングは、長く歌ってきた声と体を、改めて整えるための取り組みだ。
歌を習い始めた時期と、声の訓練を生活に取り入れた時期を分けて見ると、50歳前後の転機がはっきりする。

加藤自身は、新しい自分を一から作り直したかったのかもしれない、と説明している。
一曲だけの歌い方を変えるよりも広く、これから歌うための土台を学び直した時間だった。

時には昔の話を 日比谷野音での歌唱(1992年)

教わったことを、自分の声の調整へつなげる

2025年、81歳の加藤は、かつて教わったことが身につき、自分で声の調子をコントロールできるようになったと話した。
先生に付いて学ぶところから、自分の状態を見ながら整えるところへ進んだのだ。
若い頃に声の低さを好きになっていった経験とは別に、後年には、変わる体とどう付き合って歌うかという学びが加わっている。

同じ取材では、立ち方を意識して続けたところ、以前より声が出ていると言われるようになったことも語っている。
本人の体に合わせた工夫であり、その経験の中に、歌うための準備を続ける姿勢が表れている。

2025年、今の歌として録り直した『for peace』

そうして整えた声で、何を歌うのか。
2025年のアルバム『for peace』には、過去の録音に加え、新たに録音した15曲が収められた。
きっかけの一つは、前年の公演で新曲「運命の扉」を最後に歌った経験だったという。
親しまれた曲を求める声もある中、今の自分が歌いたい歌を受け取ってもらえるか、緊張もあった。
その歌への反応が、現在の思いを発信するアルバムを作ろうという気持ちにつながったそうだ。

白いカーテンの前に並ぶ江﨑文武と加藤登紀子
江﨑文武(左)と加藤登紀子。
2025年の対談掲載写真、撮影:吉田圭子。
画像出典:ぴあ

「時には昔の話を」の再録では、江﨑文武のピアノ、常田俊太郎のバイオリン、村岡苑子のチェロと共演した。
加藤は三人の公演を観て、この音で歌いたいと感じていたという。
録音は別々のブースに入っての同時演奏で、江﨑は、加藤の歌に引っ張られた感覚を語っている。
録り終えた後に全員が同じテイクを選んだことも、印象に残る話だ。

昔の歌を今の声で歌うことに、新しい共演者と一緒に作る時間が重なる。
過去の歌唱をなぞるだけでは得られない、その時の組み合わせでの表現を残そうとしていた。

声の高さや言葉の歌い方を曲ごとに見ていく話は、加藤登紀子の歌い方で掘り下げている。

加藤登紀子の歩みでは、自分の声を認めること、自分の思いを歌にすること、歌い続ける声を整えることが、違う時期に課題となった。
そして現在の声で昔の曲を録り直すところまで、その学びは続いている。
かつての歌を持ち続けながら、今の自分が歌う理由を、そのつど見つけ直してきたのだ。

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