カルメン・マキさんの歌声は、若い頃の細い声が年齢とともに太くなった、という一行では説明できません。
1969年には寺山修司さんの世界を歌う少女として大ヒットし、1971年にはジャニス・ジョプリンへの憧れを抱えたままロックへ飛び込みました。
OZでは長大な曲の静けさと絶叫を行き来し、5Xではより硬いロックへ進み、後年は朗読と即興の中で歌そのものの境界を消していきます。
さらに2018年には、41年前の声を再現するのではなく、生活ごとOZのモードへ切り替えて復帰しました。
この変遷を貫くのは、過去の成功した声にとどまらない姿勢です。
カルメン・マキさんの歌唱史は、一つの声を磨き続けた歴史ではなく、必要な世界が変わるたびに声の役割を作り直した歴史です。
1968年から1969年、歌より先に朗読する声があった
高校を中退したカルメン・マキさんは、寺山修司さんが主宰する天井桟敷へ入りました。
デビュー前の舞台では、すでに歌と詩の朗読を組み合わせていました。
「時には母のない子のように」は、その舞台を見たレコード会社関係者の耳に留まり、1969年に発売されます。
曲は大ヒットし、17歳だった歌手は同年の紅白歌合戦へ進みました。
後から見ると、ここが完成されたスターの出発点に見えます。
本人にとっては、気づけば売れっ子になり、霧の中を歩いているような時期でした。
芸能界の居心地もよくありませんでした。

当時の声には、低く暗い色と、言葉を劇の一場面のように置く感覚がありました。
ただし本人は、デビューアルバムを自分一人の作品というより、17歳の自分を理解した寺山修司さんとの完成度の高い共同作品として捉えています。
最初の声は強烈でしたが、まだ本人が自由に出入りできる歌唱の型ではありませんでした。
大成功した声から抜け出すことが、次の時代を始めます。
1970年から1971年、ロックへ移った直後の声はまだ細かった
海外ロックのレコードに触れる中で、ジャニス・ジョプリンに強く影響を受けました。
それまでの自分の歌に満足できず、ロックを歌いたいという気持ちがはっきりしていきます。
短期間のバンド活動を経て、竹田和夫さん率いるブルース・クリエイションと1971年にアルバムを制作しました。
後年の本人は、この頃を「まだ声が細い」と振り返り、憧れの中で必死に歌っていた段階だったと説明しています。
これは歌唱変遷を考えるうえで貴重な自己評価です。
歌謡曲からロックへジャンル名を替えても、声がその日に完成するわけではありません。
強いギターとドラムの中で、自分の声をどの距離に置くかを探す時間が必要でした。
一部の聴き手は、この録音に後年よりきれいで細い声を感じています。
別の分析では、派手に息を抜かず持続音を保つ安定感や、暗めの音色がすでに評価されています。
つまり、声の素材が足りなかったのではありません。
素材をロックの長い時間と大きな音の中でどう使うかが、まだ固まっていなかったのです。
1972年から1977年、OZで声が一曲のドラマを動かすようになった
1972年にカルメン・マキ&OZを結成し、下積みの演奏を重ねた後、1974年に「午前1時のスケッチ」でデビューしました。
翌年のファーストアルバムには、約12分の「私は風」が収められています。
OZの曲は、短いサビで高音を一度当てれば終わる作りではありません。
静かな導入、長い演奏、感情が膨らむ場面、声が頂点へ出る場面を、一人の歌手がつなぐ必要があります。
バンドはデビュー前、深夜まで一日5回演奏する店や、デパート屋上のビアガーデンでも演奏していました。
こうした現場の積み重ねを経て、細いと感じていた声は、単に大きくなるのではなく、曲全体の起伏を引き受ける声へ変わります。
ファーストアルバムは当時のハードロックとして異例の売上を記録し、海外の大物バンドの来日公演でも前座を務めました。
公式解説や当時を振り返る記事が強調するのは、パワフルさと同時に、ピアニシモから極端な強音までを動かす表現力です。
カルメン・マキさんの「ロックの声」が完成した転機は、最高音が出た瞬間ではありません。
長い曲の静かな時間まで、自分の歌として支えられるようになった時です。
1979年から1983年、海外志向と5Xで声の硬さを押し広げた
OZ解散後、数回の渡米を経て、1979年にはカーマイン・アピスが制作とドラムで参加した『ナイト・ストーカー』を発表しました。
1980年にはLAFFを結成し、その後5Xへ改称します。
OZでは日本語の長い物語とバンドの抑揚が声を育てました。
5Xでは、より硬く直線的なハードロックの音の中で、声を前へ出す役割が強まります。
ただし、これをOZより強くなったという単純な上昇として見ると、後の活動が分かりにくくなります。
カルメン・マキさんは、同じロック声を保存する方向へは進みませんでした。
1993年には子守唄を土台にした『MOON SONGS』、1994年にはMOSES、1996年にはOZ時代の春日博文さんが参加した『UNISON』と、作品ごとに編成と声の居場所を変えます。
硬い音へ押し出す経験を持ったまま、再び小さい声や物語へ戻れる道を探していきました。
1998年以降、商業の型から離れて歌と朗読を同じ場所へ戻した
1998年の『SPLIT』後、長年の商業ベースの活動への疑問から、レコード会社とプロダクションを離れてフリーになりました。
2001年以降はロックやフォークへ限定せず、ジャズや即興の演奏家とも活動します。
2007年には「時には母のない子のように」を新しい編成で録音し、2008年には全編が詩の朗読による『白い月』を発表しました。
2009年の『ペルソナ』では、多様な楽器と言葉が交わる現在の方向がより明確になります。
本人は、歌と朗読は同じものだと説明しています。
どちらも声と言葉のリズムから生まれ、理想は朗読がいつの間にか歌へ変わることです。

ここで歌声は弱くなったのではありません。
決まったメロディーとバンドの大音量がなくても、言葉だけで時間を動かす声へ広がりました。
しかも朗読は、晩年に急に始めた新分野ではありません。
天井桟敷へ入った最初期から行っていた表現です。
ロックを離れて出発点へ戻ったのではなく、OZで得た強弱と間の感覚を持って、出発点を作り直したのです。
2014年から2021年、過去の声を一夜で再現せず二つの自分を並べた
デビュー45周年の公演では、活動をロック側とアンダーグラウンド側に分けて見せました。
本人が選曲したベスト盤も、初期を青、ロックを赤、その後に両方が混ざった現在を紫として整理されています。
この見せ方は、歌唱変遷の結論を先取りしています。
古い声を捨てて新しい声へ進んだのではなく、時期ごとに得た声を後年になって同じ人物の中へ並べ直したのです。
2018年、OZは41年ぶりの単独公演を行いました。
本人は長く再結成を断っていた理由を、OZとは違うことを続けた後で戻るには、発声から生活態度までモードをすべて切り替える必要があったからだと語っています。
再結成は、若い頃の声がまだ出るかを証明するだけの催しではありませんでした。
曲を体へ戻し、当時の意図を探り、必要ならアレンジも変える作業でした。
2018年の公演では、圧倒的な声量とハイトーンだけでなく、アコースティック編成の緩い歌も披露されています。
ロックのモードへ戻ったからこそ、全力だけではないOZの幅まで現在の声で見せられました。
カルメン・マキさんの歌い方・歌唱力では、この「モードを切り替える歌唱」が高音や朗読とどうつながるのかを詳しく説明しています。
2024年から現在、歌手という肩書きより声の自由を選んでいる
2024年に発表された「花鳥風月」で、カルメン・マキさんの担当は「唄と語りと鳴り物」です。
ギターと打楽器の即興へ声が反応し、朗読とも歌とも決められない表現を続けています。
一方でOZのリズム隊とVintage Makes Something Newでも活動し、2026年にはブルース・クリエイション時代の竹田和夫さんと55年を経て同じ公演へ立つ企画が発表されました。
若い頃の関係を懐かしむだけでなく、現在の編成を率いて再会する形です。
過去を消さず、過去の姿にも閉じこもらない。
歌謡曲、OZ、5X、朗読のどれか一つを本当のカルメン・マキと決めない姿勢が、現在の声を動かしています。
浜田麻里さんの歌唱変遷では、ハードロックの高音を長く保ちながら活動を組み替えた歴史を追っています。
カルメン・マキさんは反対に、声を守るための枠そのものを何度も外し、必要になればOZのモードへ戻る道を選びました。
カルメン・マキの歌声は、強くなった後に自由になった
1969年のカルメン・マキさんは、寺山修司さんの世界を見事に歌いました。
しかし本人はその成功の中で、自分の意志で歌っている実感を探していました。
1971年には細いと感じていた声でロックへ飛び込み、OZの長い曲と実演の中で、静けさからハイトーンまでを一つのドラマとして運ぶ声を作ります。
5Xでは硬い音の前へ出る力を広げ、後年は朗読と即興によって、音程のない言葉まで歌唱へ取り込みました。
そしてOZ再結成では、若い頃の声を保存していたのではなく、生活ごとモードを戻して現在の声で曲へ入り直しました。
変わったのは、単純な太さや高さだけではありません。
最初は誰かが作った世界を歌った声が、自分で世界を選び、壊し、必要なら再び入り直せる声になった。
それが、カルメン・マキさんの歌声の変遷です。
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