カルメン・マキさんの歌を知る人ほど、最初から巨大なロックボーカルだったと思いたくなります。
しかし本人は、ブルース・クリエイションと録音した頃の自分を、ロックを歌うにはまだ声が細く、憧れの中で必死に歌っていただけだったと振り返っています。
それでも数年後、カルメン・マキ&OZでは「私は風」の長大な曲を背負う声になりました。
変わったのは声量だけではありません。
歌謡曲、ブルースロック、ハードロック、朗読を別々の芸として扱わず、その作品が必要とする人物へ丸ごと入り直せる歌手になったのです。
現在のカルメン・マキさんの歌唱力を説明する鍵は、ずっと強く歌えることではなく、声の「モード」を作品ごとに切り替えられることにあります。
最初の大ヒットは、本人が選び取った完成形ではなかった
17歳のカルメン・マキさんは、寺山修司さんの天井桟敷で舞台に立ち、歌と詩の朗読をしていました。
そこで歌った「時には母のない子のように」がレコード会社の目に留まり、1969年にデビューします。
曲は大ヒットし、その年の紅白歌合戦にも出演しました。
ところが本人の記憶に残ったのは、成功をつかんだ手応えより、知らない間に売れっ子になり、霧の中を歩いているような感覚でした。
この違和感は重要です。
当時の低く陰影のある歌声は、すでに強い存在感を持っていました。
ただし、それは本人が生涯守ろうと決めた歌い方ではなく、寺山修司さんが17歳の感性や生い立ちまで汲み取って作った世界の中で完成した声でした。
歌手として最初から成功したのに、その成功した声から出ていこうとした。
カルメン・マキさんの歌唱史は、技術を足す前に、自分の声を誰のものにするかという問題から始まっています。
ジャニス・ジョプリンへの憧れだけでは、ロックの声になれなかった
芸能界に居心地の悪さを感じていた頃、レコード会社で手にした海外ロックの中からジャニス・ジョプリンに強い衝撃を受けました。
それまでの歌にも満足できず、自分もロックを歌いたいと考えるようになります。
近田春夫さんらとの短命なバンドを経て、1971年にはブルース・クリエイションとアルバムを制作しました。
ここで面白いのは、後年の本人が若い自分を美化していないことです。

本人の振り返りでは、当時はまだ声が細く、ジャニスへの憧れを抱えながら必死に歌っていました。
ロックへ転向した瞬間に、あの太い声が完成したわけではありません。
第三者のアルバム評にも、この時期を「きれいな声質のままハードロックへ入った段階」と見るものがあります。
一方、後年の聴き手は、すでに安定した持続音や暗めの音色に、その後へつながる個性を見ています。
二つの見方は矛盾しません。
声の素材はすでに印象的だったけれど、巨大なバンドの音に対して、どこまで声を出し、どこで引くかというロックの設計はまだ途中だったのです。
OZが育てたのは、最高音よりピアニシモから絶叫までの距離だった
1972年に結成されたカルメン・マキ&OZでは、声を大きくするだけでは通用しませんでした。
代表曲「私は風」は約12分に及び、静かな場面、バンドが膨らむ場面、声が頂点へ抜ける場面が一曲の中で何度も入れ替わります。
公式の作品解説は、OZのボーカルをパワフルで感情的と表現しています。
ライブレポートでは、弱い音から極端に強い音までを行き来する表現力が繰り返し評価されました。
ここでいう歌唱力は、最初から最後まで最大音量を保つ能力ではありません。
小さい声があるから大きい声が現れ、長い沈黙や演奏があるから一声の重さが増す。
曲全体の時間を使って、声の大きさと人物の感情を同時に動かす力です。
ファンのアルバム評には、「六月の詩」や「Image Song」で穏やかな始まりから圧倒的な声量へ展開するところに説得力を感じるという記録があります。
「私は風」の高音だけを切り出すより、この落差を見る方がカルメン・マキさんの歌い方へ近づけます。
浜田麻里さんの歌い方も高音と持久力で語られやすい歌手ですが、カルメン・マキさんの場合は、長い曲の中で静けさをどこまで保てるかが強い声の土台になっています。
「OZを歌う声」は、普段の歌声とは別の生活モードにある
2018年、カルメン・マキ&OZは41年ぶりの単独公演を行いました。
長く再結成を断っていた理由について、本人はOZと異なる活動を続けてきた自分が再びOZを歌うには、発声だけでなく生活態度まで全部のモードを切り替える必要があり、負担が大きいと説明しています。
これは、声を一つの筋肉操作だけで説明できないことを示す発言です。
長い曲を受け止める体力、バンドの大音量へ入る集中、OZの世界へ戻る日常の準備までが、本人にとって一つの歌唱でした。
しかも再結成時には、40年以上前の曲をそのまま思い出せばよかったわけではありません。
メンバーも、若い頃の意図を探りながら曲を体へ染み込ませ、少しずつアレンジを調整したと語っています。
完成した公演では、ハードロックの音量だけでなく、アコースティック編成の緩い歌やブルージーな曲も同じステージに置かれました。
OZのモードとは、常に絶叫することではありません。
巨大な曲の中で、声をいつ解放するかという共通感覚へ戻ることだったのでしょう。
朗読へ進んだことで、デビュー前の声とOZの声がつながった
1998年にレコード会社とプロダクションを離れた後、活動はロック、フォーク、ジャズ、即興演奏へ広がりました。
2008年には全編が詩の朗読によるアルバムも発表しています。
本人は、歌と朗読はどちらも声と言葉のリズムから生まれる同じものだと語っています。
現在の公演では、事前に展開を決めない演奏の中で言葉と楽器が反応し、いつの間にか朗読が歌へ変わる状態を目指しています。

この活動を寄り道と考えると、カルメン・マキさんの声は「時には母のない子のように」からOZへ進み、後にロックから離れたことになります。
しかし実際は逆です。
天井桟敷で最初にしていたのも、歌と詩の朗読でした。
OZで身につけたのは、長い曲の中で言葉を弱く置き、必要な瞬間に大きく解放する力でした。
即興と朗読は、デビュー前の出発点とロック時代の表現力を、もう一度同じ場所へ戻したのです。
2024年の「花鳥風月」でも、肩書きはボーカルだけではなく「唄と語りと鳴り物」です。
歌手の枠を小さくしたのではなく、声になる直前の言葉まで表現の中へ取り戻しています。
真似するなら、ハスキーな高音ではなく曲ごとのモードを聴く
カルメン・マキさんらしさを再現しようとして、最初から声を太くし、かすれを足し、高音で強く押すのは危険です。
本人自身が、ロックを歌い始めた時期は声が細く、必死だったと振り返っています。
参考にしやすいのは声色ではなく、曲ごとに役割を変える考え方です。
「時には母のない子のように」では、言葉を大きく飾らず、影を残す。
「私は風」では、長い曲の静けさを急いで埋めず、頂点まで距離を残す。
朗読では、音程の代わりに言葉の間とリズムを聞かせる。
同じ太い声をすべての曲へ当てはめると、この三つは一つになりません。
歌の中へ誰として立つのかを先に変えるから、声量も語尾も息の使い方も変わります。
寺田恵子さんの歌い方のように、力強いロック声と喉の管理を結びつけて考える記事もあります。
カルメン・マキさんから学ぶなら、さらに一歩手前の「今日はどの世界の声を使うのか」という選択に注目するとよいでしょう。
痛みや強いかすれを表現として我慢する必要はありません。
違和感が続く時は歌唱を中止し、耳鼻咽喉科など専門機関へ相談してください。
カルメン・マキの歌唱力は、一つの声を守らなかったことにある
カルメン・マキさんは、完成されたロックボーカルとしてデビューしたわけではありません。
大ヒットした歌謡曲の世界に違和感を持ち、海外ロックへ憧れ、細いと感じていた声のまま試行錯誤を始めました。
OZで身につけたのは、最高音だけで勝つ方法ではなく、静かな声から巨大な声までを一曲の時間の中で生かす方法でした。
後年はその力を朗読と即興へ移し、歌と話す声の境界までなくしていきます。
だから41年ぶりにOZへ戻るには、発声だけでなく生活全体のモードを切り替える必要がありました。
あのハイトーンは、喉だけに保存されていた技ではなかったのです。
最初の細い声を否定して太い声へ交換したのではなく、作品ごとに必要な人物へ入り直せる声を増やしていった。
それが、カルメン・マキさんの歌い方と歌唱力です。
年代ごとに、どの活動を境に声の役割が変わったのかは、カルメン・マキさんの歌唱変遷で詳しく追っています。






コメント