萩原健一さんの歌を初めて聴くと、音程より先に一人の人物が近づいてくるように感じます。
声を揺らし、言葉を遅らせ、急に裏声へ抜け、ときにはメロディーからこぼれそうになる。それでも曲は壊れません。
本人は晩年、歌を上手に聴かせることより「語る」ように歌い、音と呼吸とリズムを崩さないことを大切にしていると話しました。
ここに、ショーケンの歌唱を理解する鍵があります。
自由に崩しているようで、守る場所は決めているのです。
荒々しさは無計画な暴走ではなく、ブルース、歌謡曲、俳優としての言葉の感覚、そして意図的に整えた裏声が重なって生まれました。
「上手く歌わない」は、雑に歌うという意味ではない
萩原さんの歌には、教科書的な見本と反対のことがいくつも起こります。
同じ曲でも節回しが変わり、語尾は長く伸びたり途中で消えたりし、きれいな音色のままそろいません。
だから「音程を気にせず感情だけで歌った人」と誤解されがちです。
しかし本人が残した説明では、崩さないものとして音、呼吸、リズムを挙げています。
初心者向けに言い換えると、歌詞を楽譜どおりの長さで読むことは変えても、バンドと合流する地点は外さないということです。
少し遅れて言葉を置いても、次の小節の入口には戻る。声を細くしても、息の流れを途中で投げない。その土台があるから、会話のような自由さが音楽として成立します。
音を崩すこと自体が個性なのではありません。
どこまで動かしても曲へ戻れるかを知っていることが、萩原健一さんの個性です。
ブルースより先に「ショーケン節」があったわけではない
萩原さんは横浜の山下町にあった進駐軍向けクラブの近くで、幼い頃からブルースに触れたと語っています。
最初に地元で組んだのもブルース・バンドでした。
ところが、ザ・テンプターズで世に出た時代に制作側が求めたのは、広く届くメロディアスな歌でした。
本人の内側にあるブルースと、外側から求められた歌謡曲的な旋律。その二つが衝突した結果、どちらにも完全には寄らない歌が育ちます。
1969年にメンフィスで録音した際、現地の音楽家から自分のブルースを「プリティ」と評された経験も大きな挫折になりました。
憧れた音楽をそのまま再現しただけでは、本場の人には可愛らしく聞こえてしまう。その痛い発見が、誰かのブルースを借りるのではなく、日本語で自分の歌を作り直す方向へつながります。
後年の声が西洋音楽の模写に聞こえないのは、この遠回りがあるからです。
英語らしく聞かせることより、歌詞の人物が本当にそこにいるように語ることが前へ出ました。

メロディーを崩すと、歌詞が台詞へ変わる
萩原さんの節回しについて、長年ライブを追った音楽ライターは明確な変化を記録しています。
1979年の『熱狂雷舞』ではまだ地声を中心に原曲のメロディーへ忠実でしたが、翌年録音の『DONJUAN LIVE』では旋律の崩しと裏声が増え、独特な歌唱が強くなりました。
この変化がおもしろいのは、声をきれいに磨いた結果ではなく、歌詞を本人の出来事のように話す方向へ進んだことです。
一つの母音を均等に伸ばさず、途中で音量を落とす。言葉の頭を強く当てた後、語尾だけ遠ざける。これにより、文章の中にためらい、怒り、照れが生まれます。
俳優だから歌も台詞のようになった、と一言で済ませるのは正確ではありません。
本人は芝居と音楽を似て非なるものと話しています。
ただし、観客が言葉の裏側まで想像できるようにする点では、二つの仕事で培った感覚が同じ人物の中にありました。
歌詞を説明するのではなく、歌詞を言わずにいられない人物になる。
そこまで進むと、旋律から少し離れた瞬間さえ演技ではなく、その人の反応に聞こえます。
荒い声の中で、裏声は逃げ道ではなく配役だった
萩原さんの声は低くざらついた印象が強い一方、突然細い裏声へ切り替わります。
ここだけ切り取ると、高い音を地声で出せず逃げたようにも聞こえるかもしれません。
本人の説明はもっと実務的です。
PYG、柳ジョージさんと組んだ時期、DONJUAN、ANDREE MARLRAUの各時代に、裏声でコーラスできる人がほかにいなかったため、自分が担ったと話しています。
必要に迫られて使い続けた声が、やがて本人の表現になりました。
晩年には裏声を出す部分を「調律」し、ボイストレーニングを続け、必要な箇所だけで使うと語っています。
これは、地声が主役で裏声は代用品という考え方と正反対です。
低い声が現実の人物を連れてきて、裏声が急に心の内側を見せる。二つの音色へ役を振り分けたから、短いフレーズの中でも景色が変わります。
沢田研二さんの歌い方と比べると違いが分かりやすいでしょう。
PYGでツインボーカルを務めた二人ですが、沢田さんが声の色と姿を鮮やかに切り替えて観客の視線を集めるのに対し、萩原さんは言葉を崩し、観客を歌の人物の内側へ引き込みます。
激しさの正体は、大声よりバンドとの駆け引きにある
萩原さんは、スタジオ盤とライブ盤を交互に残すような時期がありました。
同じ歌を完成形として保存するより、その時のバンドとどこまで変えられるかを作品にした歌手です。
長年の観客が記した西武球場の豪雨の公演では、帰り始める人々へ呼びかけながらステージを走り、ライブそのものを動かしたと伝えられています。
声量だけで観客を圧倒したのではなく、その場で起きたことを歌の一部へ巻き込みました。
一方、晩年の『Time Flies』については、生々しく聞こえる録音も計算して作ったと本人が明かしています。
自然に見えることと、偶然であることは同じではありません。
必要な楽器だけを入れ、低い声を中心に置き、裏声はほしいところだけにする。
自由人の印象の裏側には、何を出さないかを決める編集者のような冷静さがありました。
柳ジョージさんの歌い方では、声とギターが交互に語る関係が魅力でした。
萩原さんはさらに、バンド、観客、その日の出来事まで相手役にします。歌唱が一人で完結しないことが、ライブごとに姿を変える理由です。

真似しようとすると「ただ不安定」になりやすい理由
萩原健一さんの歌い方は、目立つ特徴だけなら真似しやすそうに見えます。
声をかすれさせ、語尾を揺らし、裏声を混ぜ、拍から少し遅れて歌えばよいと思えるからです。
しかし、その方法では多くの場合、言葉が聞き取りにくく、音程の戻り先も曖昧になります。
本人が守っていた呼吸とリズムを抜き、表面の崩れだけをコピーしてしまうためです。
とりわけ、喉を締めてざらつきを作ることは避けるべきです。
声の荒さは萩原さんの人生や音楽の結果であり、健康な喉を傷めて再現する技法ではありません。
世良公則さんの歌い方も荒々しく聞こえますが、言葉を拍の前へ飛ばす力が中心です。
萩原さんは、言葉を遅らせたり細くしたりしながら、最後にリズムへ戻る。その違いを見ると、ロック歌唱を単なるシャウトでまとめられないことが分かります。
萩原健一の歌声は、崩したメロディーではなく崩れない人物だった
萩原健一さんは、整った声を捨てて個性を作ったのではありません。
幼い頃から触れたブルースと、広く届くメロディーを求められたGS時代の間で、自分の日本語を探しました。
その後、原曲どおりに歌う比率を減らし、裏声へ役を与え、バンドとの駆け引きによって一曲を毎回生き直します。
歌い方が揺れても、歌っている人物の存在だけは揺れません。
だから聴き手は、上手い節回しを鑑賞するより先に、そこで誰かが怒り、笑い、弱音を吐いていると感じます。
萩原さんが歌を会話へ近づけたのは、メロディーを軽く扱ったからではありません。
音と呼吸とリズムを守ったまま、言葉だけを自由にする場所を見つけたからです。
その場所がいつ生まれ、どの時代に最も激しく変わったのかは、萩原健一さんの歌唱変遷で年代順にたどります。






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