坂本九の歌声はどう変わった?ロカビリーから「心の瞳」までの歌唱変遷

1963年のレコードジャケットに写る坂本九 シンガー

坂本九さんの歌声は、1963年の全米1位で完成し、その後は同じ歌を守っただけではありません。
10代のロカビリー歌手、テレビ時代の「九ちゃん」、世界へ出た日本人スター、レコードが出にくくなった1970年代、再出発を図った1985年で、歌に与えられた役割が変わりました。

変遷を象徴するのは、最初の大ヒット「ステキなタイミング」と、最後に録音した「心の瞳」です。
前者には若者の弾む身体があり、後者には家族へ話しかける大人の声があります。
その間に何が起きたのかを、作品と制作記録からたどります。

1958〜1960年:最初の声は、エルヴィスを追う16歳の身体から出た

坂本九さんは16歳の頃、立川の米軍将校クラブでエルヴィス・プレスリーやリトル・リチャードの曲を歌いました。
日劇ウエスタンカーニバルへ出演し、ダニー飯田とパラダイス・キングに加入した出発点は、戦後のロカビリーブームです。

1960年の「悲しき六十才」と「ステキなタイミング」で、テレビ時代の若いスターになりました。
軽快な曲、コミカルな表情、身体全体で刻むリズムが一つになり、歌だけを鑑賞させるより、画面の中で親しまれる人物として広がります。

この時期の重要な変化は、上手な洋楽コピーから抜け出したことです。
海外の発音をなぞるのではなく、日本語をロックンロールの足取りへ乗せる方法が、次の代表曲で決定的になります。

1961年:「上を向いて歩こう」で、癖が作品になった

1961年、中村八大さんのリサイタルで初披露された「上を向いて歩こう」は、坂本九さんの歌手人生を分ける曲になりました。
作詞した永六輔さんは独特な歌い回しに違和感を示しましたが、中村さんと制作陣は直さずに録音しました。

1961年にテレビで歌う坂本九

ここで生まれたのは、新しい高音技術ではありません。
ロカビリーで覚えた8ビート、母から学んだ小唄の節回し、本人の明るい声が、日本語の一節の中で同居するようになりました。

細かく区切るのに曲は前へ進み、涙を歌うのに暗く沈みません。
若い歌手の癖が、作家の用意した曲を超えて作品の中心へ入った瞬間でした。

坂本九の歌い方・発声分析では、この歌い回しがなぜ単なるぶつ切りではないのかを詳しく説明しています。

1962〜1964年:世界的成功の後、声は「日本の顔」になった

「上を向いて歩こう」はヨーロッパを経て、1963年に米国で「SUKIYAKI」として発売され、Billboard Hot 100で3週1位になりました。
日本語の歌詞を理解できない聴き手にも、旋律、声の表情、リズムが届いたことになります。

同じ1963年には「見上げてごらん夜の星を」、年末には「明日があるさ」、1964年には「幸せなら手をたたこう」が続きました。
一人の寂しさを歌う声から、人々を一緒に歌わせる声へ役割が広がっています。

世界的スターになっても、歌唱を英語圏向けの無国籍な形へ直したわけではありません。
むしろ独特な日本語と笑顔が、そのまま坂本九という人物の印になりました。
1960年代後半にはミュージカル、映画、司会、万博の活動まで担い、声はレコードの中だけでなく公共の場へ置かれます。

1970年代:ヒット曲が減った時、歌手は司会者の顔に隠れた

1970年代になると、音楽の中心は自作曲を歌うシンガーソングライターへ動きました。
職業作家の歌を明るく届ける坂本九さんは、テレビや司会、福祉活動では親しまれ続けた一方、レコード発売の勢いを失います。

これは歌えなくなった時期ではありません。
1975年のアルバム「ターニング・ポイント」では米国録音を行い、吉田拓郎さんやオフコースなど新しい世代の作品を取り上げました。
英語曲も含め、1960年代の「九ちゃん」を現在の音楽へ置き直そうとしています。

1975年のレコードジャケットに写る坂本九

表紙の笑顔は変わらなくても、作品の目的は懐メロの保存ではありませんでした。
過去の成功を持つ歌手が、次に何者として歌うのかを探し始めたのです。

1978〜1983年:六・八・九の再始動と、名前を隠した覆面歌手

1978年の芸能生活20周年を機に、永六輔さん、中村八大さん、坂本九さんは「六・八・九」の活動を再び進めました。
1979年のアルバム「689」では、手話を交えた「そして想い出」など、同時代の社会とつながる作品へ向かいます。

しかしレコード歌手としての苦境は続きました。
1983年には坂本九の名前を伏せ、XQSという覆面名義で「ぶっちぎりNO文句」を発売しています。

国民的な名前が強すぎるから新曲が届かないのではないか。
そう考えて、誰もが知る名前を一度脱いだ試みでした。
全米1位の実績を持つ歌手が、20年後には正体を隠して入口を作ろうとした落差に、この時期の切実さがあります。

1985年:「心の瞳」は遺作ではなく、再出発の一曲だった

1985年、坂本九さんは新しいレコード会社ファンハウスへ移り、「懐かしきLove-song/心の瞳」を発表しました。
後から見れば最後のシングルですが、制作時には終幕ではなく新しい旅立ちでした。

「心の瞳」を録音した日、坂本九さんは家へカセットを持ち帰り、妻の柏木由紀子さんへ、自分たちのことを歌っているような最高の曲だと喜んだそうです。
テレビで本人が歌う機会はありませんでした。

若い頃の代表曲は、悲しみを明るいリズムで外へ開きました。
「心の瞳」は反対に、華やかなスターの声を家庭の時間へ戻します。
大勢へ親しげに呼びかけた歌手が、一人の伴侶へ話しかけるような歌へたどり着いたのです。

曲は当初シングルのB面でしたが、後に合唱曲として広まり、学校教材にも掲載されました。
本人が公の場で歌えなかった作品を、多くの人の声が受け継いだことは、坂本九さんの歴史に不思議な続きを与えています。

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坂本九の歌声は、若さから成熟へ一直線に変わったのではない

坂本九さんの変遷は、年齢とともに技巧が増えたという話ではありません。
時代が求める歌手像から外れた時にも、自分の声を置く場所を作り直した歴史です。

1950年代末にはエルヴィスを追い、1961年には周囲が変だと感じる歌い回しを自分の表現へ変えました。
1963年以降は日本の顔となり、1970年代にはテレビの人気者という大きな看板の陰で、新しいレコードの形を探しました。
1983年には名前まで隠し、1985年には新しい会社で再出発しています。

最後の「心の瞳」が胸を打つのは、事故後の物語を知っているからだけではありません。
世界へ向けて開かれた「SUKIYAKI」の声が、最後には家族という最も近い場所へ向いたからです。

尾藤イサオの歌声の変遷も、ロカビリーから長い活動を築いた歌手の歴史です。
坂本九さんの場合、43歳で時間が止まった一方、歌は世界のカバーと学校の合唱によって本人のいない未来まで変化を続けました。

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