奥田民生の歌声はどう変わった?UNICORN初期から60歳以降までの歌唱変遷

奥田民生のUNICORN初期から60歳以降までの歌唱変遷をたどる記事のアイキャッチ シンガー

奥田民生さんの歌声は、年齢とともに細くなったという単純な変化ではありません。
若い頃はバンドの大音量へ勝つために声を大きくし、ソロでは歌と演奏の責任を一人で背負い、50歳頃からは力を減らしたほうが高音を出せる方法へ切り替えました。

そのため現在の声は、初期より軽く見えるのに、奥には昔の太さが残っています。
変わったのは声の材料そのものより、どこまで押し、どこで引くかという使い方です。

1986〜1993年のUNICORNでは、聞こえない声を大きくする必要があった

奥田さんの歌唱の出発点には、きれいな発声理論より先に、バンドの音があります。
本人によると、若い頃に使っていた安い練習スタジオはPAが小さく、ギターやドラムが鳴ると自分の声が聞こえませんでした。そこで、とにかく声を届かせようとした結果、本人が「メタルな歌い方」と呼ぶ大声の出し方が身につきました。

高校時代まで奥田さんは、もともとギターとハーモニーを担当していました。
メインボーカルになったのは、当時の歌い手が受験勉強で抜けたことがきっかけです。最初から前に立つ歌手だけを目指したのではなく、演奏の中で必要になって歌う役へ移った。この順序が、後の「声もバンドの一楽器」という考え方につながります。

初期は、現在よりビブラートを使っていたと本人が振り返っています。
大きな声を出し、長い音を揺らし、歌手として前へ出る要素が今より多かった時代です。ただし、後年の変化はこの声を捨てたのではなく、扱い方を整理していく過程でした。

1994〜1998年のソロ初期に、声は「バンドの顔」から「一人分の責任」へ変わった

UNICORNは1993年に解散を発表し、奥田さんは1994年の「愛のために」からソロ活動を本格化させます。
1995年には『29』『30』を続けて発表し、初のソロツアーも行いました。グループなら曲作りも演奏も役割を分けられますが、ソロでは作る曲の数も歌う量も増えます。

ソロ活動初期から現在まで歌と演奏を担ってきた奥田民生

この時期に興味深いのは、ソロ歌手として声を飾る方向へ進みきらなかったことです。
本人は、次第にビブラートを減らし、歌を平たくするようになったと説明しています。歌だけが伴奏から大きく浮くより、ギターやドラムと同じ場所へ声を戻したかったからです。

独唱の責任は増えたのに、歌手らしい誇張は減らしていく。
ソロ初期は、奥田さんが強い声を前面へ出すだけの歌手ではなく、声量を持ったまま演奏へ溶け込む歌手になっていく時期でした。

2004年の広島市民球場で、隠れていた「声そのもの」が表に出た

2004年10月、奥田さんは故郷の広島市民球場で、ギター一本の「ひとり股旅スペシャル」を行いました。
バンドの厚い音も、スタジオで重ねた歌声もありません。大きな空間を、自分のギターと声だけで成立させる公演です。

この公演は、奥田さんの歌声を考えるうえで一つの節目です。
普段は演奏へなじませているため見えにくかった声量と芯が、ほとんど裸の状態で表へ出ました。飄々とした歌い方が、弱い声や勢いのない声を意味しないことも分かりやすくなりました。

一方、本人にとって弾き語りは楽な形式ではありません。
他の演奏者から刺激を受けられず、自分で盛り上げ、自分で空間を動かす必要があるからです。ギターと歌のタイミングをあえてずらすなど、一人の中で二役を作る。この経験によって、声を楽器として置く考え方が、バンドの外でも試されました。

2009年のUNICORN再始動で、ソロとバンドの境界が薄くなった

UNICORNは2009年に再始動します。
若い頃のバンドへ昔の声をそのまま戻すのではなく、ソロで育てた平たい歌い方と、大声の土台を持ち帰る形でした。

本人は、再始動後にはUNICORNとソロの音楽的な違いが以前ほどなくなり、「ごっちゃになっている」と語っています。
ソロでは自分が多くを引き受け、UNICORNでは責任も刺激もメンバーで分ける。その違いは残っても、声を使い分けて別人になる必要はなくなりました。

メンバーとの対話では、現在の奥田さんが昔の曲を歌うと、歌い方自体は当時と違っても、その時代の雰囲気が現れるという話も出ています。
同じ声を保存しているのではありません。新しい使い方で歌いながら、曲が持つ記憶を呼び戻せる。この頃から、歌唱の変化は「昔に戻れるか」ではなく「今の声で昔をどう鳴らすか」へ移ります。

草野マサムネさんの歌唱変遷にも、昔の曲を現在の声で保つという長期活動ならではの課題があります。ただし、草野さんが声の軽さと透明感を大きく崩さず進んだのに対し、奥田さんは大声の力感を少しずつ引くことで現在へつないでいます。

50歳頃、力で押す高音から「手を抜く」高音へ変わった

歌い方のはっきりした転換を、奥田さん自身は50歳頃に置いています。
若い頃は全身へ力を入れ、腹筋も使って押すように歌っていました。しかし、力を減らした別の方法を試すと、むしろ高い声が出ると分かったのです。

本人はこれを「手を抜く」と表現しますが、声を出す仕事を放棄したわけではありません。
必要な力と、首や顔まで固める余分な力を分けた結果です。ライブが連日続くと喉に影響が出て、回復にも時間がかかるという現実を認めたうえで、声を長く使う方法へ変えています。

この転換があるため、後年の高音は初期より軽く見えます。
それでも薄くなりきらないのは、若い頃に大音量の中で作った声の芯が消えていないからです。現在の発声を詳しく知りたい場合は、奥田民生さんの脱力しても太い高音が出る理由で掘り下げています。

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2024〜2025年、還暦を前に声は「自分らしさ」からも自由になった

2024年にソロ活動30周年を迎えた奥田さんは、自分らしさを以前ほど考えないと話しています。
何をしても自分らしさは勝手に出る。それなら、昔の奥田民生像を守るより、誘われた企画や一緒に演奏する相手へ反応するほうが面白いという姿勢です。

2025年には、同じ1965年生まれで広島出身の吉川晃司さんとOoochie Koochieを結成しました。
還暦を迎える二人が、曲ごとに主唱、ユニゾン、ギターの役割を入れ替えます。ソロで一人分を背負う時とも、UNICORNで五人に分ける時とも違う、新しい相手との間で声を置き直す活動でした。

還暦以降も新しい共演と録音へ進む奥田民生

年齢を重ねるほど、自分の型を固める歌手もいます。
奥田さんは反対に、自分らしさを管理しなくても残るものとして扱い、編成と相手に合わせて力の量を変えるようになりました。桑田佳祐さんの歌唱変遷と比べても、長いキャリアを「昔の声の再現」だけで語れないことが分かります。

2026年の再録は、昔の声を保存せず今の演奏へ合わせる選択だった

2026年のEP『あまりもの』は、配信済みの曲や提供曲を含め、全曲を新たに録音した作品です。
過去のテイクを寄せ集めるのではなく、現在のバンドのノリへ合わせて演奏し直し、歌も録り直しました。

ここに、奥田さんの歌唱変遷の答えがあります。
昔と同じ歌い回しを再現することが目的ではありません。演奏の速度や重さが変われば、言葉を置く位置と声の力も変える。声は保存品ではなく、その場のバンドへ参加する楽器なのです。

奥田民生の声は、足し算から引き算へ進んだ

奥田民生さんの歌声は、UNICORN初期に大音量へ勝つための大声を獲得し、ソロで一人分の責任を背負い、広島市民球場の弾き語りで声そのものの強さを露出させました。
再始動後はバンドとソロの境界が薄れ、50歳頃から余計な力を減らす方法へ移っています。

60歳以降も残っているのは、若い頃とまったく同じ声ではありません。
昔に足した力を必要な時だけ使い、演奏に要らない分は引く。その更新を続けたから、軽く歌っているように見えても声の中心が消えません。

変化したのは、歌えるかどうかではなく、歌うために見せる力の量です。
奥田さんの長い歌唱歴は、声を若いまま凍らせることより、今の身体と今の演奏に合わせて使い直すことのほうが、長く歌う力になると教えてくれます。

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