竹内まりやさんの歌声は、若い頃より低い音が出やすくなりました。
ただし、本人が語る最大の変化は、発声法を大きく作り替えたことではありません。
デビュー初期には、テレビで同じ曲を何度も歌い、「歌わなければならない」という義務感を抱えていました。
それが2025年のアリーナツアーでは、たとえ声がかすれても観客と歌えることがうれしいと思えるようになります。
声を若い頃の形へ保った物語ではありません。
一度ステージを離れ、作家と録音歌手として自分の答えを作り、70歳を越えてから舞台を心から楽しめるようになった物語です。
1978〜1981年、歌うほど自分の音楽から遠ざかった
1978年のデビュー後、「SEPTEMBER」や「不思議なピーチパイ」がヒットしました。
明るく親しみやすい新人歌手としてテレビや取材へ呼ばれ、短い期間に多くの仕事をこなします。
外から見れば順調でも、本人の内側では違和感が大きくなっていました。
番組ではカメラリハーサルから本番まで同じ曲を繰り返し、歌う行為が楽しみより義務へ近づいていきます。
当時の歌声を単純に未熟と片付けることはできません。
アメリカ留学やコーラス経験を背景に、初期から英語圏のポップスへ通じる軽やかさがありました。
問題は声そのものより、その声で何を作りたいかを考える時間が持てなかったことです。
次の動画は2000年に初期曲を歌った公式ライブであり、1979年の歌唱映像ではありません。
初期作品が後年の本人と観客にどう受け継がれたかを確認する資料として掲載します。
1981〜1984年、歌わない時間が自分の声を取り戻した
1981年、レコーディングとコンサート活動を休止します。
歌うことが苦しい姿を人に見せるより、時間をかけて音楽を探し、自分の言葉と旋律でアルバムを作りたいという思いが強くなっていました。
表舞台から離れた期間も、音楽をやめたわけではありません。
河合奈保子さんの「けんかをやめて」、薬師丸ひろ子さんの「元気を出して」など、別の歌手へ曲を書く仕事が続きます。
他人の声を考えて曲を作る経験は、自分の歌声を外から見る時間にもなりました。
誰にでも同じメロディーを渡すのではなく、その歌手の個性や声質を想像して作品を作る。
この作家としての視点が、復帰後の多彩な歌い分けへつながります。
活動休止は、声を休ませただけの空白ではありません。
「歌わされる人」から、「誰がどう歌うかまで考える人」へ役割を変えた転機でした。
1984年、『VARIETY』で歌手と作家が一人になった

1984年の『VARIETY』では、全曲の作詞・作曲を竹内まりやさんが担い、山下達郎さんがプロデュースしました。
初期のように外から与えられた役を歌うのではなく、自分で作った物語を、自分に合う環境で録音する形が整います。
「プラスティック・ラブ」は、この再出発を象徴する曲です。
歌唱だけを前へ押し出さず、演奏とコーラスの層へ声を組み込み、都会の孤独を踊れるポップスにしました。
後年の世界的な再評価は、当時の歌唱を新しく録り直した結果ではありません。
1984年の録音が、時代と国境を越えて別の聴き手に発見されました。
1987〜1992年、歌入れの最終判断を自分へ戻した
復帰後もしばらくは、山下達郎さんやディレクターがボーカルを導く場面がありました。
ところが、自分では納得できないテイクへ「OK」が出ると、曲の人物と声がずれたまま残ります。
「けんかをやめて」を録音した頃から、自由に試し、自分で結論を出す方向へ変わりました。
『Quiet Life』以降、歌入れは基本的に本人とエンジニアで進みます。
この変化は、声の高さより大きなものです。
歌う人が最後の判断者になったことで、少し情熱的にするか、明るさを引くか、語尾をどこまで残すかを、作品の意図から決められるようになりました。
「駅」は中森明菜さんへ書いた曲を後にセルフカバーした作品です。
別の歌手を想定して生まれた歌を自分の声へ移す難しさは、竹内まりやさんが声色より人物を優先する理由をよく示します。
1990〜2000年代、ライブの少なさが録音の精度を上げた
1990年代以降も、「告白」「シングル・アゲイン」「カムフラージュ」など、異なる人物を描く曲が生まれました。
頻繁にツアーを行わない代わりに、歌入れでは何度も試し、言葉とサウンドの位置を細かく決めます。
本人にとって、日常的なボイストレーニングよりレコーディングが実践の場でした。
歌唱法を意識的に更新するのではなく、新しい曲が要求する声を探すことで、結果として表現の幅が増えます。
2007年の「人生の扉」では、若い恋愛の主人公ではなく、年齢を重ねる時間そのものが物語になりました。
声を若く聞かせようとせず、落ち着いた中音域で一語ずつ置くことが、歌手の実人生と曲を結び付けます。
2014年、33年ぶりの全国ツアーで録音の声を舞台へ運んだ
2014年には、地方を含む全国ツアーを33年ぶりに行いました。
スタジオで精密に組み立ててきた歌を、観客の前で長い曲順として成立させる挑戦です。
若い頃のように出演を求められて立つ舞台ではありません。
長く作品を聴いてきた人の顔を見て、感謝を直接届けるために選んだステージでした。
「いのちの歌」は、歌手の技術を見せるより、家族や命への感謝を平易な言葉で届ける曲です。
2014年の公式ライブでは、録音だけを主戦場としてきた歌手が、大勢と一つの物語を共有する段階へ進んだことを確認できます。
2024〜2026年、声のかすれより歌える喜びが勝った

2024年、10年ぶりのオリジナルアルバム『Precious Days』を発表しました。
本人は経年で低い音が出やすくなったことを認めつつ、歌唱法そのものを意識して更新してきた感覚はないと話しています。
翌年のアリーナツアーは11年ぶりで、8都市14公演、約14万人を動員しました。
過去には舞台へ立つたび緊張し、歌や演奏の出来が気になっていたのに、このツアーでは一公演目から観客に会う喜びが上回りました。
2026年に映像を振り返った本人は、昔より楽しく歌っていると語っています。
「SEPTEMBER」も、デビュー時には何度も歌わなければならない仕事でしたが、現在は70歳を越えた自分と観客が懐かしさを共有できる曲になりました。
さらに印象的なのは、声がかすれる可能性まで受け入れられたことです。
完璧な一音を残す録音歌手の厳しさを失ったのではありません。
ライブでしか生まれない温かさを、出来の採点より大切にできるようになりました。
変わったのは音域だけでなく、歌う理由だった
初期と現在では、声の高さ、録音技術、バンド、会場が違います。
公式動画を並べただけで、発声能力の上下を決めることはできません。
本人の言葉から明確にたどれるのは、低域が出やすくなったことと、歌う感情の変化です。
テレビで同じ曲を繰り返す義務感から離れ、自分で曲を書き、自分で歌入れを判断し、最後には観客と同じ時間を楽しめるようになりました。
現在の歌声の仕組みや曲ごとの使い分けは、竹内まりやさんの歌い方・発声分析で詳しく説明しています。
松任谷由実さんの歌唱変遷と比べると、同じ1970年代から続く女性シンガーでも、舞台との距離や録音での自己決定が違うことが分かります。
まとめ
竹内まりやさんの歌声は、若い頃より低い音が出やすくなりました。
しかし、キャリアを動かした本当の変化は、発声法の改造ではなく、誰のために、どのような環境で歌うかを自分で選べるようになったことです。
1978年には歌うことが義務へ変わり、一度表舞台を離れました。
作家活動を経て、自作曲を自分の声で録音し、1980年代後半から歌入れの答えも自分で決めます。
そして2025年、声がかすれる瞬間さえ含めて、観客と歌えることを楽しみました。
変わらず残ったのは、長く聴かれるポップスを作る姿勢です。
変わったのは、その歌を届ける舞台を心から好きになれたことでした。






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