高田渡の歌声はどう変わった?20代から老成していた声と2005年まで

高田渡の歌声の変遷 シンガー

高田渡さんの歌声を年代順に聴くと、少し不思議なことが起こります。
普通なら若い録音ほど若く、晩年ほど年齢を感じるはずです。
ところが高田さんは、二十代の時点ですでに長く旅をしてきた人のように聞こえます。

もちろん、四十年近い活動の中で声も歌い方も変わりました。
ただしその変化は、勢いのある若い声が少しずつ枯れたという話ではありません。
社会へ鋭い言葉を投げた青年が、音楽の色を広げ、長い空白を抱え、最後には歌う前の沈黙まで作品にしていった歴史です。

高田渡さんの変遷では、声が先に老成し、人生と時代があとからその声へ追いつきました。

1968年、若い声は社会を笑わせながら刺した

高田さんは1949年、岐阜県に生まれました。
幼い頃に母を亡くして東京へ移り、中学卒業後は印刷会社で働きながら定時制高校へ通います。
十代でウディ・ガスリーやピート・シガーらの音楽に惹かれ、ギターを手にしました。

1968年、十九歳の高田さんは「自衛隊に入ろう」で注目を集めます。
題名だけを見れば勇ましい勧誘歌ですが、歌は軍隊と社会への皮肉として働きました。

ここで特徴的なのは、怒りを大声で説明しなかったことです。
朗らかなフォークソングの形を借り、楽しそうに聞こえる表面と、言葉の意味を食い違わせる。
聴き手は笑った後で、自分が何に笑ったのかを考えさせられます。

若い高田さんの鋭さは、声を荒らすことではなく、親しみやすい歌へ棘を隠すことにありました。
後年の日常歌にも残る、深刻さと可笑しさを同時に置く方法は、活動の出発点ですでにできていたのです。

1969年から1971年、抗議の歌から「生活の歌」へ移った

1969年、高田さんは「五つの赤い風船」と片面ずつを担当したアルバムでレコードデビューします。
京都へ移り、高石音楽事務所で活動した時期には、社会や制度へ直接向けた歌が目立ちました。

しかし高田さんは、そのまま政治的なフォーク歌手の代表になる道を進みません。
1971年に東京・武蔵野へ移り、キングレコードから『ごあいさつ』を発表します。

この作品で、歌の視線は大きな制度だけでなく、長屋、自転車、コーヒー、仕事のない一日へ近づきます。
山之口貘さんや添田唖蝉坊らの言葉も、高田さんの日常と同じ高さで歌われました。

声の強さも変わります。
聴衆を振り向かせる若い皮肉から、一人の暮らしをじっと見せる低い語りへ。
主張が弱くなったのではありません。
社会の矛盾を、制度の名前ではなく、そこで暮らす人の姿から見せるようになりました。

『ごあいさつ』には、はっぴいえんどらが参加しています。
初期の粗い弾き語りから、弦や管の色がある音へ広がっても、高田さんの声は飾り立てられません。
むしろ周囲が華やかになることで、中央にいる歌手の素朴さが際立ちました。

若い時代の高田渡

1972年から1976年、日本の路地から世界のルーツ音楽へ広がった

1972年の『系図』、1973年の『石』と作品が続きます。
この時期、高田さんは古い日本の俗謡や現代詩だけでなく、自分が惹かれてきた海外のルーツ音楽をさらに深く掘りました。

1973年にはヨーロッパを旅し、1975年には細野晴臣さん、中川イサトさんとロサンゼルスへ渡って録音します。
翌年に発表された『FISHIN' ON SUNDAY』には、アメリカの演奏家も参加し、カントリーやブルースにカリブ海を思わせる色まで加わりました。

変わったのは編成や土地だけではありません。
高田さんの声が、どんな音楽の中でも「日本のフォーク歌手らしく」振る舞う必要を失っていきます。
ギター一本なら詩人に見え、軽快な演奏の中なら街を歩く旅人に見える。
同じ低い声が、周囲のリズムによって別の人物を連れてきます。

この広がりは、晩年の高田さんを単なる昔のフォーク歌手にしなかった理由でもあります。
歌詞だけが古典になったのではなく、音楽の根が最初から一つの時代や国に閉じていませんでした。

1980年代、作品が少ない時間に「全国で歌う人」になった

1970年代前半の多作期を過ぎると、アルバムの間隔は長くなります。
1983年の『ねこのねごと』から、次のスタジオ作品『渡』までは約十年空きました。

この期間を、創作力が落ちた空白と見ることもできます。
しかし高田さんは歌うことをやめていません。
大きな流行へ戻るために作品を急ぐのではなく、全国の店や小さな会場で歌い続けました。

レコードでは、一曲を同じ形で何度も聴けます。
小さなライブでは、話が長くなり、歌い出す時刻がずれ、客席の空気によって間が変わります。
高田さんの歌は、この反復の中で、録音された作品より「その場にいる人」の比重を増していきました。

若い頃から老成して聞こえた声へ、実際の生活時間が重なります。
言葉を急がないことが演出ではなくなり、今日そこへ来た人が、今日の速度で歌う自然さへ変わりました。

1993年の『渡』は、昔の姿へ戻らない再登場だった

約十年ぶりのスタジオ作品『渡』は、鈴木慶一さんがプロデュースしました。
ムーンライダーズや、はちみつぱいの周辺にいる演奏家が加わり、音には軽やかで現代的な輪郭があります。

ここで高田さんは、1971年の『ごあいさつ』を再現しませんでした。
代表曲「生活の柄」も新しい編曲で収録し、自分の過去を現在の演奏へ置き直します。

声は若い録音より乾き、言葉の間も大きくなっています。
一方で、暗い声へ閉じこもらず、周囲の演奏が作るポップな明るさを受け入れました。
老成した人物像を守るために古びた音へとどまらず、その時代の音の中で、変わらない話し方を試しています。

吉田拓郎さんの歌唱変遷では、大きな会場やバンドの変化が声を動かしました。
高田さんの場合は逆に、どれほど編曲が変わっても声の歩幅を変えすぎないことで、音楽の新しさを見せています。

2004年、映画によって若い聴き手が「現在の高田渡」を見つけた

2004年、ドキュメンタリー映画『タカダワタル的』が公開されます。
映画は過去の名場面だけを並べず、ライブ、移動、飲食、街で過ごす時間を通して、当時の高田さんを映しました。

その結果、懐かしいフォーク歌手の再発見ではなく、若い世代が「こんな人が今いる」と出会うことになります。
公演が増え、高田さんの周囲には以前と違う世代の客が集まりました。

若い頃から年齢不詳だった声は、ここで奇妙な強さを持ちます。
流行した時代の歌い方を保存していないため、三十年以上前の曲でも昔話になりきりません。
古い曲と現在の人物が、無理なく同じ画面へ収まったのです。

今入れる? 近くで入りやすい飲食店がわかる混雑予報マップ

2005年、最後のライブでは沈黙まで歌になった

2005年3月27日、高田さんは東京で最後の単独ライブを行います。
4月3日に北海道白糠町で最後のステージへ立ち、4月16日に亡くなりました。五十六歳でした。

最後の東京公演を記録した映画の予告編には、歌だけでなく、舞台上の話や何も起きていないような時間も残されています。
若い頃の高田さんは、親しみやすい歌の中へ社会への棘を隠しました。
晩年には、歌う前の沈黙や、言葉が出てくるまでの時間まで聴衆へ渡しています。

声量や音域が広がったという変化ではありません。
一曲に含められる「歌ではない時間」が増えたのです。
歌手が何かを見せ続けなくても客席が待ち、その待つ時間まで高田さんの世界になる。
これは全国の小さな会場で、長く同じ歌を生き直してきた人だから持てた間でした。

現在の歌い方がなぜ小さな声でも強く残るのかは、高田渡さんの歌唱力で詳しく解説しています。

晩年のステージに立つ高田渡

高田渡の変遷は、時代が声へ追いつくまでの物語だった

高田渡さんは、二十代から年齢を超えた声で歌っていました。
1968年には明るい曲へ社会への皮肉を隠し、1971年には視線を制度から暮らしへ近づけます。
1970年代半ばには海外のルーツ音楽へ音を広げ、作品の少ない時期にも全国で歌を続けました。

1993年には新しい編曲の中へ戻り、2004年の映画では若い世代が晩年の姿を現在形で発見します。
最後には、沈黙や寄り道まで一曲の時間になりました。

変わらなかったのは、声を大きく見せないことです。
変わったのは、その小さな声に入る時間の量でした。

若い高田さんは、年老いた人のように歌ったのではありません。
流行の若さから離れ、生活が持つ遅い時間を先に歌っていたのです。
四十年近い活動は、その声が古びる歴史ではなく、本人の人生と聴き手の時代が、少しずつ声の速度へ追いついていく歴史でした。

こちらの記事もおすすめ

コメント

タイトルとURLをコピーしました