ホイットニー・ヒューストンの歌声の変遷|「音が低い」と止められた一音の答え

「音が低い」。
「My Love Is Your Love」の録音中、共同制作者のワイクリフ・ジョンは作業を止め、そう伝えました。
相手は、高く力強い歌声で知られるホイットニー・ヒューストンです。
ジョンによると、しばらくの沈黙の後、彼女は「外したんじゃない。
音を曲げたの」と答えました。

ジョンは後で聴き直し、ブルースのB.B.キングを思わせる表現だったと受け取りました。
「音が低い」と聞こえたその一音で、彼女は何を選んでいたのでしょう。
彼女がデビュー時から録音の場で下してきた判断をたどると、「大きな声」の陰にあった別の選択が見えてきます。

1984~1985年|高いキーを変えずに歌う

デビュー・アルバムの「How Will I Know」を作るとき、プロデューサーのナラダ・マイケル・ウォルデンには一つ心配がありました。
デモのキーがとても高かったのです。
ニューヨークでホイットニーの歌を録る前に、ウォルデンがその高さで大丈夫かと電話で尋ねると、彼女はキーを変えなくてよいと答えました。

基本トラックを作ったのは1984年、アルバムの発売は翌1985年です。
ウォルデンの回想によれば、母シシー・ヒューストンらとのコーラスを先に録り、その後に主旋律を録りました。
彼が驚いたのは、高い声の力だけでなく、彼女が曲をよく覚え、自信を持って歌い始めたことでした。

コーラスが整ってから、主旋律は一、二回の歌唱で形になったとウォルデンは回想しています。
ただし、ハーモニーの細部には手を加えていました。
初めから最後まで何も直さなかったという話ではなく、曲を理解して来た歌手の勢いを生かし、必要な箇所を制作側が整えた録音だったのです。

当時からホイットニーは、制作側に用意された高さをただ受け入れるだけの歌手ではありませんでした。
高いキーを保つと自分で答え、その声を録音に残しています。
同時に、母たちとのコーラスを先に重ねた制作は、彼女の声が独唱だけで成り立っていたわけではないことも伝えます。

同じデビュー盤で「You Give Good Love」を制作したカシーフは、もう一つのやり取りを覚えています。
自分でも歌う彼は、求める歌い回しを声で示し、ホイットニーはそれを受けてさらに良くしてくれたと語っています。
手本どおりにするだけでなく、彼女自身の音やリズムにしてほしいと促していたのです。

高いキーで歌える自信と、人の歌を聴いて取り入れる柔軟さは、初期から一緒にありました。
人の提案を受け、その場で自分の表現を返すやり取りを、デビュー盤の録音ですでに行っていたのです。
後年、ワイクリフへ一音の意図を説明する場面も、こうした共同作業の延長にあります。

1992年|大きなバラードが声の基準になる

映画『ボディガード』の「I Will Always Love You」は、静かな始まりから大きな歌へ進む彼女の声を広く知らしめました。
後の歌もこのバラードと比べられがちですが、一曲だけでは1996年のゴスペルや1998年の一音にある別の選択を見落とします。
「I Will Always Love You」の伴奏なしの始まりと終盤の歌い上げをどう作ったかは、ホイットニー・ヒューストンの歌い方で詳しく扱っています。

1991年3月、Welcome Home Heroes公演で歌うホイットニー・ヒューストン
1991年3月、Welcome Home Heroes公演で歌うホイットニー・ヒューストン。
写真:PH2 Mark Kettenhofen / Public domain(米国)

1996年|「一番居心地がよい」ゴスペルで、合唱の中を自由に歌う

『天使の贈りもの』のサウンドトラックで、ホイットニーはゴスペルを前面に出しました。
本人が盤に残した謝辞には、ゴスペルこそ自分の始まりであり、最も居心地のよい音楽だとあります。
新しい流行へ移ったというより、以前から知っていた歌を、作品の中心に据えたのです。

ジョージア・マス・クワイアと共演した「I Love the Lord」では、公式クレジットに彼女自身の歌のアレンジ、マーヴィン・ウォーレンの合唱アレンジが記されています。
彼女が用意された伴奏に声を乗せるだけでなく、自分の歌う部分を形作る側にもいたことが分かります。

同じ盤の「I Go to the Rock」について、当時の『ワシントン・ポスト』の評者は、合唱団が旋律を繰り返す間にホイットニーが自由に歌い回せる構成だと書きました。
評者が注目したのは、何度も同じ音を正確に再現する力より、合唱の反復の上で歌を動かす余地でした。

1998年|新しい制作陣の中でも、一音の形は譲らない

アルバム『My Love Is Your Love』では、ワイクリフ・ジョンやロドニー・ジャーキンズらとの制作が進みました。
ホイットニーは翌年の取材で、ジャーキンズもジョンも自分と同じく教会に根を持つ人たちだと話しています。
彼女が好きだったミッシー・エリオットにも、自分から声をかけました。
新しいリズムの担い手との仕事は、育った音楽を置いていくことではなかったのです。

ジョンが「音が低い」と止めたのは、このアルバムの表題曲を録っていたときでした。
ホイットニーは音程を外したという指摘を受け入れず、意図して音を曲げたと説明します。
ジョンは後で聴き直し、B.B.キングのような歌い回しだと理解したと、2025年に振り返りました。
どの音をどう動かしたかという細部は、彼の回想からは特定できません。
それでも、制作現場で「正しい音」をめぐる意見が分かれ、本人の狙いが言葉にされた出来事です。

別の曲「It’s Not Right But It’s Okay」を作ったジャーキンズも、従来の大きなバラードの枠から外れる速い曲をホイットニーに用意したと振り返ります。
その仕事へ至る前、十代の彼が最初にクライヴ・デイヴィスへ聴かせた案は、ホイットニーの水準に届かないと退けられていました。
ジャーキンズはそこで諦めず、準備が整ったら再び曲を持ってくる機会を得たといいます。
新しい制作者との出会いにも、彼女に何を歌ってもらうかを探す時間があったのです。

ホイットニー自身は、この時期に求める曲の条件を「情熱」だと答えました。
新しい相手との仕事や速い曲に取り組むことと、自分がどう歌うかを決めることは、このアルバムの制作で重なりました。

2002~2009年|声が変わっても、歌で届けたいものを選ぶ

2002年、ホイットニーはヒット曲を望む気持ちも認めたうえで、人に希望を与え、心から歌っていると伝わる曲を何より求めると語りました。
この言葉は、後年の声が昔と同じかどうかだけでは、彼女の曲選びを説明できないことを示します。

2009年のアルバム『I Look to You』には、明るいリズムの「Million Dollar Bill」も、困難を越える言葉を歌う「I Didn’t Know My Own Strength」もあります。
発売前に本人は、後者の歌詞にシングルマザーとしての苦労を重ねたと話しました。
曲を書いたのはダイアン・ウォーレンですが、その言葉を自分の経験に引き寄せて歌ったのはホイットニーです。

当時の批評家ケン・タッカーは、アルバムでの声を以前より粗く、開いた響きだと評しました。
そして「I Didn’t Know My Own Strength」では、壮大な曲でも彼女の歌い方に抑制があると評価しています。
声の響きが変わった理由をそこから決めることはできません。
本人が歌詞に自分の経験を重ねたことや、当時の批評家が聴き取った抑制も、この時期の歌を考える手掛かりになります。

2010年4月、ロンドンのO2アリーナでのホイットニー・ヒューストン
2010年4月、ロンドンのO2アリーナでのホイットニー・ヒューストン。
写真:Egghead06 / crop: Matanya / CC BY 3.0

「音を曲げた」という返事が教えてくれること

1984年の録音では、高いキーをそのまま歌うと決めました。
1996年には、本人が居心地よいと呼ぶゴスペルで、合唱とともに歌を作りました。
1998年には、新しい制作者が「低い」と受け取った一音を、意図して曲げたと伝えています。

ジョンが後で聴き直して分かったのは、正確に高音へ届くことで知られた歌手が、音を曲げることも自分の表現として選んでいた、ということです。
2009年には声の響きも変わりましたが、希望を伝える曲を求め、自分の経験と重なる言葉を歌いました。
彼女の変遷は、声の力を失ったか保ったかだけでなく、その時々の歌で何を選んだかをたどると見えてきます。

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