内田裕也さんの歌声を、音域や声量だけで説明するのは難しいことです。
歌が始まる前の立ち方、短い言葉の切り方、バンドをあおる声まで含めて、すでに一つの作品になっているからです。
滑らかな高音や精密な歌い回しを見せるタイプではありません。
それでも一声で内田裕也だと分かり、曲より先に「この人は本気でロックンロールを信じている」と伝わる。
技術を目立たせず、人物そのものを音へ変えることが、内田さんの歌い方の中心です。
しかも、その個性は晩年になって突然できたものではありません。
外国曲のカバーを歌っていた若い頃から、原曲の模写より自分の輪郭を残すことを選び続けていました。
内田裕也さんの歌唱力とは何だったのかを、声の外側まで含めて見ていきましょう。
カバー歌手なのに、原曲へ近づくほど遠回りになった
内田さんは1950年代にロックンロールへ傾倒し、1960年代前半にはエルヴィス・プレスリーやジーン・ヴィンセントなどの楽曲を日本語で歌いました。
当時は海外ヒット曲を日本人歌手が歌うカバーポップスの時代です。
普通なら、原曲の発音や節回しをどこまで再現できるかが評価の基準になりそうです。
ところが初期録音を振り返った文章では、内田さんは原曲通りに歌うことより、自分の癖を曲へ入り込ませていたと評されています。
これは英語らしく聞かせる技術を軽視したという話ではありません。
借りた曲を上手に返すのではなく、自分がその曲を信じていることを声で証明しようとしたのです。
初期から変わらないのは、声をきれいに整える前に、歌う理由を前へ出す姿勢でした。
内田裕也さんの歌は、完成度の高い模写ではなく、海外から届いたロックンロールを日本のステージで自分の事件に変える行為だったのです。
少し高く硬い声が、豪華なバンドの中で旗になった
1973年のアルバム『ロックンロール放送局』では、内田さんは1815 Rock'n'Roll Bandと古いロックンロールを歌い直しました。
周囲を固めたのは、日本のロック史を作っていく演奏家たちです。
この厚いバンドに対して、内田さんの声は低く沈んで溶けるのではなく、比較的高い位置から硬く飛び出すものとして受け止められてきました。
滑らかな響きで演奏を包むより、短い叫びや言葉で曲の進行方向を示します。

面白いのは、圧倒的な声量だけでバンドに勝とうとしていないことです。
一語の立ち上がりを強くし、空白を作り、次の演奏を呼び込む。
声が旋律の主役であると同時に、バンドへ合図を送る旗のように働きます。
鮎川誠さんの歌い方にも、ギターと声を別々の技巧として見せない魅力があります。
ただし鮎川さんが演奏の流れへ自然に声を滑り込ませるのに対し、内田さんは一声で場のルールを変える方向へ進みました。
「シェキナベイベー」は発音の癖ではなく、人物の入口だった
内田裕也さんを象徴する言葉として、「シェキナベイベー」を思い浮かべる人は多いでしょう。
英語の発音練習として見れば、一つのフレーズにすぎません。
しかし内田さんの場合、歌、掛け声、挨拶、決めぜりふの境界が消えています。
短い言葉を強く放ち、その後に間を作る。
一度聞けば誰の声か分かる。
曲の外で発した言葉まで、歌唱の続きを聞いているように感じさせます。
ここには、母音や子音を正確にそろえるのとは別の技術があります。
何を言うかだけでなく、誰が、どんな姿勢で、どの瞬間に言うかを固定し、言葉そのものを署名へ変える技術です。
真似をするなら、語尾だけを誇張しても内田裕也さんには近づきません。
フレーズの前後にある沈黙や、言葉を引っ込めない覚悟まで含めて初めて、あの短い声が成立します。
日本語の歌を避けた人が、言葉の重さへ戻ってきた
若い頃の内田さんは、所属側から普通の歌を勧められても拒み、海外のロックンロールを歌い続けました。
日本語のスローな歌に対しても、長く距離を置いています。
ところが1970年代後半から1980年代にかけて、「きめてやる今夜」「さらば愛しき女よ」など、日本語の言葉を正面から置く歌が増えました。
本人も、以前はスローな曲を軽く見ていたが、日本語の歌を歌う中で考えが変わったと振り返っています。
これはロックを捨てて歌謡曲へ寄ったのではありません。
速さや英語の響きがなくても、自分の立ち方を声に残せると気づいた変化です。
日本語では、勢いだけで言葉の輪郭を隠しにくくなります。
内田さんの少し乾いた声、強く置かれる子音、言い切った後の間が、物語を運ぶようになりました。
歌唱の幅は高音域が広がったからではなく、信じられる言葉の範囲が広がったことで大きくなったのです。
「コミック雑誌なんかいらない」は歌と映画をつないだ
「コミック雑誌なんかいらない」は、内田裕也さんを考える時に外せない曲です。
1973年のアルバムに収められた後、1980年代には映画の題名となり、本人が主演と企画の中心を担いました。
歌の中にあった社会への苛立ちや反射的な言葉が、映画ではニュースの現場を歩き回る人物へ変わります。
声で説明していた世界が、映像と身体を持ったのです。

内田さんは後年、自分名義の完全なオリジナルアルバムを作ってこなかったため、映画をオリジナル作品のように作っているのかもしれないと語りました。
歌手本人が、自分の大きな作品は歌の外にあると考えていたことになります。
一見すると歌手としての弱さを認めたようにも聞こえます。
実際には逆でしょう。
声だけで完結しないから、歌が映画へ、発言へ、フェスへはみ出した。
内田裕也さんの歌唱は、一曲を美しく閉じる技術より、次の出来事を起こす力に価値がありました。
歌唱力の評価が割れること自体が、この声の正体を示している
内田さんの歌を高く評価する人は、唯一無二の声、ステージの存在感、バンドを動かす力を挙げます。
一方で、1973年の録音を頂点と見て、後年の歌唱は祭りの熱気や人物像に頼る場面もあったとする厳しい見方もあります。
両者は、まったく別の声を聞いているわけではありません。
歌唱技術を音程、音域、滑らかさだけで測れば、弱点は見えます。
人物が一声で場を変え、演奏家と観客を同じ物語へ巻き込む力まで含めれば、代わりのいない歌手になります。
評価が割れるのは、内田裕也さんが評価の物差しそのものを曲の中へ持ち込んだからです。
歌をきれいに完成させることより、ロックンロールを生きている姿を信じさせることを優先した。
その選択を歌唱力と呼ぶかどうかで、答えが変わります。
忌野清志郎さんの発声も、声の仕組みだけでは収まらない人物表現が魅力です。
二人に共通するのは、声色を記号として借りるだけでは本質へ届かないところでしょう。
参考にするなら、枯れ声ではなく「何を譲らないか」を決める
内田裕也さんらしく歌おうとして、喉をつぶしたり、わざと荒い声を出したりする必要はありません。
声のざらつきや叫びだけを切り取ると、本人が何十年も積み上げた背景を外見だけでまねることになります。
参考にできるのは、歌う前に「この曲で何だけは譲らないか」を決めることです。
一つの言葉なのか、リズムなのか、バンドとのやり取りなのか。
中心が決まれば、すべてを大声にせずとも曲の人格は立ち上がります。
内田さんは流行に合わせて普通の歌を選ぶことも、ロックを商売だけで測ることも拒みました。
その頑固さには賛否がありますが、声に迷いが少なく聞こえる理由でもあります。
矢沢永吉さんの歌い方と比べると、同じロックンロールを背負いながら、声を作品へ磨き上げる方法と、生き方ごと投げ込む方法の違いが見えてきます。
年代ごとの変化は、内田裕也さんの歌唱変遷で詳しく追っています。
内田裕也の声は、歌を聞かせる前に信念を聞かせた
内田裕也さんの歌は、原曲の再現から始まりませんでした。
海外のロックンロールを借りながら自分の癖を残し、豪華なバンドの前で短い声を旗にし、日本語の歌と映画へ表現を広げました。
だから歌唱力を一つの技法で説明することはできません。
比較的高く硬い声、強い言葉の立ち上がり、曲の外まで続く掛け声。
それらを結んでいるのは、ロックンロールを一時の音楽ではなく、自分の生き方として見せる姿勢です。
声が美しいから人物が見えるのではありません。
人物が声から隠れないから、一声で内田裕也だと分かる。
内田裕也さんは、声より先にロックンロールを聞かせる歌手でした。






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