内田裕也の歌声はどう変わった?ロカビリー、1815、映画、晩年まで

晩年にマイクを持って登壇する内田裕也 シンガー

内田裕也さんの歌唱変遷には、普通の歌手とは違うねじれがあります。
年を重ねるほど歌手として中央へ近づいたのではなく、バンドを作り、後輩を世に出し、フェスを始め、映画を撮ることで、自分の声がいる場所を外側へ広げていったからです。

若い頃はエルヴィス・プレスリーやジーン・ヴィンセントの曲を歌うロカビリー歌手でした。
1960年代末にはフラワーズを率いながら、次のフラワー・トラベリン・バンドでは歌手の座をジョーへ渡します。
1973年に1815 Rock'n'Roll Bandと歌手へ戻り、やがて日本語の歌と映画をつなぎ、晩年には歌と掛け声と生き方の境界が消えていきました。

声域がどう変わったかだけでは、この道のりの半分も見えません。
内田裕也さんが「歌う人」であることを何度も手放し、それでも最後まで歌手に見えた理由を年代順に追います。

1957年から1965年、まずはロックンロールだけを歌う人だった

1956年、内田さんはエルヴィス・プレスリーに憧れ、翌年には音楽で生きることを決めました。
1959年に日劇ウェスタン・カーニバルへ出演し、1960年代前半には複数のバンドを渡り歩きながらステージと録音を重ねます。

周囲では、ロカビリー歌手が歌謡曲やジャズへ転じていました。
所属側から普通の歌を勧められても、内田さんは断り、プレスリーをはじめとする海外曲を歌い続けます。

この時期の重要な変化は、発声法より立場です。
流行が変われば歌を変える芸能歌手ではなく、「最初からロックンロール一本だった」と自分を定義しました。
ライブが一番自分に合うという感覚も、すでにこの頃に語っています。

初期録音を振り返る文章では、原曲を忠実に写すより、若い内田裕也の癖や勢いが前へ出ていたと評されました。
後年の決めぜりふや強い立ち姿は、年齢を重ねて作った仮面ではなく、この時期からあった自己主張が研ぎ澄まされたものです。

1968年、フラワーズでは自分以外の声を中心に置いた

1967年にヨーロッパへ渡った内田さんは、クリームやジミ・ヘンドリックス、ザ・フーなど新しいロックの衝撃を受けて帰国します。
1968年に結成した内田裕也とフラワーズでは、麻生レミさんを中心ボーカルに据えました。

自分の名前を冠したバンドなのに、歌の中央をほかの歌手へ渡したのです。
内田さん自身も歌いましたが、役割は一人のスター歌手から、バンド全体の方向を決める人物へ広がりました。

フラワーズ期の内田裕也

ここで歌声は、単独で完成するものではなくなります。
女性ボーカル、重い演奏、海外ロックの新しい感覚をどう一つにするか。
内田さんの個性は、何を歌うかだけでなく、誰を歌わせ、どんな音の場を作るかにも現れるようになりました。

1969年から1972年、歌手を降りてフラワー・トラベリン・バンドを送り出した

フラワーズ解散後、内田さんはジョーさんをボーカルに迎えてフラワー・トラベリン・バンドを結成します。
『SATORI』を録音し、カナダ進出を進めた時、内田さんは表の歌手ではなく、プロデューサーと推進者の側へ回りました。

歌唱変遷の記事で「歌っていない時期」を扱うのは奇妙に見えるかもしれません。
しかし、この退き方が内田裕也という歌手を決めました。

自分より適した声があるなら、その声を前へ出す。
自分の名を売るより、日本のバンドを海外へ運ぶ。
声で示していた反骨を、制作と行動で示す段階へ移ったのです。

一方で、歌手を完全にやめたわけではありません。
1815 Rock'n'Roll Bandを率いるステージも続け、表と裏を往復しました。
以後の内田さんは、歌うことだけで自分を証明する必要がなくなっていきます。

1973年、歌手へ戻った声は豪華なバンドの点火役になった

フラワー・トラベリン・バンドが解散した1973年、内田さんは1815 Rock'n'Roll Bandと『ロックンロール放送局』を録音しました。
古いロックンロールのカバーを中心に据えた作品です。

初期のカバーへ戻ったように見えて、立場は変わっていました。
若いカバー歌手ではなく、演奏家を集め、場を作り、日本のロックの歴史を背負った人が同じ曲を歌っています。

この録音を内田さんの歌手としての頂点に挙げる批評もあります。
個人の回想でも、少し高い位置にある声が熱いバンドに押され、独特の内田節になったという受け止めが見られました。

同じ年の大晦日には、後のニューイヤーロックフェスティバルとなるオールナイト公演を始めます。
一枚のアルバムで歌手へ戻ると同時に、ほかの歌手やバンドが声を上げられる場所も作ったのです。

鮎川誠さんの歌唱変遷と並べると、1970年代のロックンロールが歌声だけでなく、仲間と場所によって受け継がれたことが見えてきます。

1977年から1982年、日本語とスローな歌が声の表情を変えた

1977年の「きめてやる今夜」、1979年の「無礼講」、1982年の「さらば愛しき女よ」へ進むにつれ、内田さんの歌には日本語の物語が増えます。
海外曲のカバーと短い叫びだけでは見えにくかった、言葉を待つ時間が前へ出ました。

本人は、以前はスローな曲を軽く考えていたものの、日本語の歌を歌ううちに考えが変わったと振り返っています。
長く拒んできた「普通の歌」へ迎合したのではありません。
遅い曲でも自分の信念を薄めずに歌えると知ったのです。

勢いで曲を押し切る場面が減ると、少し乾いた声と言葉の間が目立ちます。
若い頃の反抗は、何を歌わないかという拒絶でした。
この時期の反抗は、どんな速度や言語でも内田裕也でいられるかという試みに変わりました。

1980年代、歌声は映画の登場人物へ姿を変えた

1980年代の内田さんは、映画へ急速に比重を移します。
映像が若者の思想を動かす時代が来るという予感を語り、出演だけでなく企画や脚本にも深く関わりました。

「コミック雑誌なんかいらない」は1973年に歌われた曲でしたが、1980年代半ばには映画へ発展します。
ニュースのただ中を歩き回る主人公を内田さん自身が演じ、歌の中にあった怒りや違和感を身体で見せました。

映画制作へ表現を広げた内田裕也

1990年、内田さんは、自分名義のオリジナルアルバムを作ったことがないから、映画をオリジナル作品として作っているのかもしれないと語っています。
歌手の変遷を追ってきた先で、本人が最大の創作物を映画に見いだしたのです。

声が衰えて別の仕事へ移った、という単純な話ではありません。
カバー曲へ自分を入れる方法を続けた人が、借り物ではない世界を作ろうとした時、音楽だけでなく映画が必要になった。
歌唱の外へ進んだことが、初期からの一貫性をかえって示しました。

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2000年代から晩年、歌と掛け声と生き方の境界が消えた

2000年代には、シャンソンを歌う企画にも挑み、カラオケで練習したことを公式年表に残しています。
かつて普通の歌を拒んだ人が、必要だと思えば未知の曲へ入るようになりました。

一方、ニューイヤーロックフェスティバルでは、内田さんの声は一曲のボーカルを越えました。
出演者を呼び込み、観客をあおり、「ロックンロール」と叫ぶ。
歌と司会と声明が一続きになり、本人の存在がフェス全体のリズムを作ります。

2012年のステージを伝えた記録では、70代になっても声が会場へ強く届いたと評されました。
2013年には杖を使いながら大学の催しに登壇し、「Power to the People」と「コミック雑誌なんかいらない」を歌っています。

晩年の声を若い頃の音域と比べるだけでは、この変化を見落とします。
歌声は一曲を完璧に再現する道具から、その場にいる人へ態度を伝える声へ変わりました。

忌野清志郎さんの歌唱変遷にも、歌と発言と社会への姿勢が離れなくなっていく過程があります。
二人は異なる歌声を持ちながら、ロックを音楽ジャンルだけに閉じ込めなかった点でつながります。

2019年以降、本人のいないフェスが声の続きを担っている

内田裕也さんは2019年に亡くなりました。
しかし、1973年に始めたニューイヤーロックフェスティバルは、その後も開催されています。

歌手がいなくなれば歌声の変遷は終わるはずです。
内田さんの場合、本人がいない舞台にも、その声が作った形式が残りました。
世代の異なる出演者が集まり、大晦日にロックを鳴らし、次の年へ渡す仕組みそのものです。

これは追悼公演が続いているというだけではありません。
若い頃に一人で歌っていた反抗が、やがて他人が声を上げる場所へ変わった結果です。

発声と歌い方の特徴は、内田裕也さんの歌い方・歌唱力で詳しく整理しています。

内田裕也の歌声は、歌手の座を離れるたびに大きくなった

1950年代には、ロックンロールだけを歌う若者でした。
フラワーズでは別の声を中心へ置き、フラワー・トラベリン・バンドでは歌手を降り、1973年には1815の点火役として戻りました。

日本語とスローな歌を受け入れると、声は物語を持ち始めます。
映画へ進むと、歌の中の人物が身体を持ちました。
晩年には掛け声と歌の境目が消え、死後はフェスという場所が声の続きを担っています。

内田裕也さんの変遷は、歌唱技術が一直線に洗練された歴史ではありません。
歌手の座を守る代わりに何度もそこを離れ、声でしかできないことと、声だけでは足りないことを確かめた歴史です。

だから最後まで、内田裕也さんは歌手に見えました。
一曲の中だけでなく、誰を前へ出し、どんな場所を残すかまで、ロックンロールの声として使い続けたからです。

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