鮎川誠さんの歌唱変遷は、若い声が年齢とともに変わったという話だけではありません。
そもそも鮎川さんは、いつもバンドの主役として歌っていたわけではないからです。
サンハウスでは作曲者とリードギタリスト、シーナ&ロケッツではシーナさんの声を支える共同創設者でした。
ところが2015年以降は、シーナさんが歌ってきた曲まで自分で引き受けます。
歌手になったあとギターへ退いたのではなく、ギターを弾き続けた人が、必要に迫られてもう一度歌の正面へ出た。
この逆向きの歩みを追うと、鮎川さんの声がバンドの歴史そのものだったことが分かります。
1970年代前半、サンハウスでは声より曲とギターを担った
鮎川さんは1970年、福岡でサンハウスを結成しました。
バンドの中心でリードギターを弾き、作曲を担いますが、メインボーカルは柴山俊之さんです。
この出発点が、後の歌を理解する鍵です。
鮎川さんは最初から、歌手が一人で曲を所有するバンドではなく、声、ギター、リズム、言葉がそれぞれの役割を持つ場所で育ちました。
自分が書いた曲でも、最も適した声が別にいるなら、その声へ渡す。
ギターが必要な場所では、自分がそこで曲を動かす。この時期に身についた分担の感覚は、後のシーナ&ロケッツでも続きます。
サンハウスは1970年代の福岡ロックを代表する存在になりました。
鮎川さんにとってこの時代は、ボーカリストになる前史ではありません。声を含むバンド全体を、一つの楽器として考える原点でした。
1978年、シーナの一言から新しい歌の顔が生まれた
1978年、鮎川さんはシーナさんとシーナ&ロケッツを結成します。
きっかけは、シーナさんが自分もレコードを作りたいと口にしたことでした。
シーナさんはサンハウスの曲を歌えるほど音楽を共有していました。
しかし、同じ曲を歌っても柴山さんや鮎川さんの代わりにはなりません。明るさ、叫び、艶、表情が一度に飛び出す、バンドの新しい顔になりました。
1978年に「涙のハイウェイ」でデビューし、翌1979年には細野晴臣さんのプロデュースによる『真空パック』を発表します。
「ユー・メイ・ドリーム」が広く知られ、鮎川さんの曲とギターは、シーナさんの声を通してポップスの中心へ届きました。

この時期の鮎川さんは、歌わなくなったのではありません。
必要な曲では声を出しながら、誰の声が曲を最も遠くまで運ぶかを選びました。ギタリストに徹したように見える時間が、後の歌を支える長い観察期間にもなっています。
1980年代、世界へ出ても声とギターの役割は変えなかった
シーナ&ロケッツは1981年に海外盤を発表し、国外での活動も広げました。
海外へ出ることは、英語圏のバンドに似せる機会にもなります。けれど鮎川さんたちは、博多で育った感覚を消さずにロックンロールを鳴らしました。
1980年代には作品を重ね、電子音とロック、国内外の演奏家、古いブルースや新しい都市感覚を同じバンドへ入れていきます。
それでも歌の中心はシーナさん、ギターと作曲の軸は鮎川さんという組み合わせが保たれました。
鮎川さん自身が歌う場面もありましたが、ボーカルだけを切り離して主役にするのではなく、曲調に合わせて声を持ち替えます。
この柔軟さが、後年に突然歌うことになった時の下地になりました。
1990〜2000年代、長く続けること自体が歌の個性になった
流行する音楽が何度変わっても、シーナ&ロケッツは活動を止めませんでした。
結成時の新鮮さを保存するのではなく、新しい作品とライブを重ね、過去の曲をその時の身体で鳴らし直します。
この間、鮎川さんはソロ名義や他の音楽家とのセッションでも歌とギターを扱いました。
1981年のソロライブ音源では、シーナさんがコーラスへ回り、鮎川さんの声が前へ出る曲もあります。
つまり、2015年まで歌を避けていたわけではありません。
ただ、シーナ&ロケッツの物語ではシーナさんの声があまりに鮮烈だったため、鮎川さんのボーカルはギターの陰に見えやすかったのです。
長い年月の中で声の質感は変わっても、言葉を過度に磨かず、ギターと同じ速度で放つ姿勢は残りました。
新しい歌唱法へ乗り換えるより、ロックンロールを続けた時間が声へ積もっていきます。
2015年、シーナを失い、歌声の役割が反転した
2015年2月、シーナさんが亡くなりました。
バンドにとって、歌手を一人失っただけではありません。名前そのものにいる人、鮎川さんの妻、曲の表情を決めてきた声を同時に失いました。
鮎川さんは残った三人で活動を続け、歌える曲は自分が歌うようになります。
驚くのは、シーナさんが歌っていた高いキーの曲も、安易に下げなかったことです。
「レイジー・クレイジー・ブルース」も「ユー・メイ・ドリーム」も、男性の鮎川さんに合わせて安全な高さへ作り替えたのではありません。
難しさを抱えたまま、その曲が生きてきた位置へ自分の声を運びました。

歌いながらギターを弾くには、声と右手で異なるリズムを動かさなければなりません。
この時期の歌は、若い頃の声を再現する挑戦ではなく、二人で分けていた役割を一人で抱える挑戦でした。
発声の特徴を詳しく知りたい人は、鮎川誠さんの歌い方・発声分析も参考にしてください。
女性キーを下げなかった判断を、単なる高音自慢ではなく曲への責任から読み解いています。
2017年、47都道府県ツアーが不在を前へ進む力に変えた
シーナさん亡き後、鮎川さんたちは47都道府県ツアーを行いました。
「47」はシーナさんの名前にも重なります。
鮎川さんはこのツアーを巡礼のように捉えました。
一つの会場で追悼するだけでなく、各地へ曲を運び、待っている人の前で鳴らす。悲しみを説明する歌ではなく、バンドを動かす日程へ変えたのです。
この頃から、ステージはシーナさんの不在を確認する場所であると同時に、曲を通して会える場所になりました。
鮎川さんの声が前へ出るほど、元の歌声が消えるのではありません。違う声が歌うことで、誰がその曲を最初に生かしたのかがかえって浮かびます。
宇崎竜童さんの歌唱変遷にも、作曲者、演奏者、歌い手という複数の役割が重なる歴史があります。
鮎川さんの歩みでは、それが家族とバンドの記憶によって、さらに切り離せないものになりました。
2020〜2022年、過去を閉じず次の世代へ渡した
2020年には『LIVE FOR TODAY!』が発表され、バンドは「今日のために演奏する」という姿勢を作品にしました。
過去の名曲を保存するだけでなく、今のメンバーと今の声でステージを続けます。
2022年には結成45周年へ入り、三女のLUCYさんもボーカルとして加わりました。
さらにサンハウスの曲を取り上げる公演では、若い頃に鮎川さんが作り、別の声へ渡した曲を、長い時間の先で再び自分の声とギターへ戻します。
ここで歴史は円を描きます。
サンハウスでは曲とギターを担ぎ、シーナ&ロケッツではシーナさんへ歌を渡し、シーナさん亡き後はその歌を受け取り、最後にはサンハウスの曲まで現在へ運びました。
2023年1月、鮎川さんは74歳で亡くなりました。
しかし、最後の時期までロックンロールを昔話にせず、娘や仲間、観客と鳴らす現在形として扱いました。
同じ時代を別の形で歩んだ人としては、Charさんの歌唱変遷や桑名正博さんの歌唱変遷も比較できます。
三人ともギターや曲作りと歌が結びついていますが、声を前へ出すことになった理由はまったく異なります。
鮎川誠の歌唱変遷は、歌を渡し、受け取り直した歴史だった
1970年代のサンハウスで、鮎川誠さんは作曲とリードギターを担いました。
1978年にシーナ&ロケッツを結成すると、自分の曲をシーナさんの声へ渡し、その歌をギターで遠くへ運びます。
1990年代以降も活動を続け、歌う機会は持ちながら、バンドの顔はシーナさんであり続けました。
その役割が2015年に反転します。
シーナさんの曲を元のキーで歌い、ギターと歌を同時に抱え、47都道府県を回る。
さらにLUCYさんと活動し、サンハウスの曲を現在へ戻しました。
鮎川さんの声は、若い頃から一直線に上達した声ではありません。
誰かへ歌を渡せる強さと、必要な時に受け取り直す強さを持った声です。その往復が、シーナ&ロケッツを最後まで現在形のバンドにしました。
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