「As It Was」は、思わず体を動かしたくなる曲です。
明るいシンセサイザーの旋律と、軽快に進むドラム。けれども、ハリー・スタイルズの声まで陽気に弾んでいるわけではありません。
歌は穏やかで、言い切った言葉のあとに、少し寂しさが残ります。
この曲の魅力は、悲しい気持ちを大きな声で訴えないところにあります。
音楽は先へ進むのに、歌い手の気持ちは簡単には晴れない。
2022年の『Harry’s House』に収められた「As It Was」から、ハリーが声を張り上げずに感情を伝える歌い方を見ていきましょう。
軽快な伴奏の中で、声は穏やかなまま
歌い始めのハリーは、前にいる相手へ静かに話しかけるような調子です。
ドラムの勢いに合わせて、一語ずつを強くぶつけるわけではありません。
言葉を柔らかくつなぎ、語尾も大げさに飾らず、次の言葉へ進んでいきます。
サビに入っても、急に大声で気持ちを解放するような変化は起きません。
覚えやすい短い旋律が繰り返されるため、こちらも一緒に歌いたくなる。
ただ、その歌声には、何かが昔と同じではなくなったことを、落ち着いて確かめるような響きがあります。
この落ち着きがあるから、寂しさが消えずに残るのでしょう。
感情を一気に吐き出す歌とは違い、悲しさがすっきり片づいた感じがしません。
ハリーは声を抑えて歌うことで、変化をすでに知っていても、まだ気持ちが追いつかない人のように聞こえます。
悲しい出来事の説明を聞くというより、表面上は普通に話している人の声から、その気持ちに気づく感覚です。
最初は、もっとゆっくりした曲だった
「As It Was」は、最初から今のように軽快だったわけではありません。
ハリーは、イギリスの田舎にある友人宅で書き始めた頃、曲はもっと遅く、印象的な旋律もピアノで弾いていたと説明しています。
それがシンセサイザーに変わり、曲の印象も変わっていきました。
共同制作者のタイラー・ジョンソンも、ドラムをゆったり感じさせるリズムから、細かく進むリズムへ変えたと振り返っています。
悲しげな歌だから遅い伴奏をつける、という形で完成させなかったのです。
もし、今の歌をゆっくりしたピアノだけで聴いたら、寂しさがもっと直接伝わるかもしれません。
ところが完成版では、伴奏がこちらを前へ引っ張り、歌声は静かなまま残ります。
踊れるほど軽快なのに、浮かれきれない。その違和感が、何度も聴きたくなる理由の一つです。
ここで変わったのは、悲しい歌を明るい歌へ置き換えたことではありません。
同じ曲の中で、体を動かしたくなる気持ちと、寂しさを感じる気持ちを、同時に味わえるようになったのです。

制作者も、控えめすぎないか心配していた
ハリーには、「Sign of the Times」のように、大きく声を伸ばして歌える曲があります。
だから「As It Was」の穏やかさは、強く歌えないための歌い方ではありません。
歌い上げる力を持つ人が、それを前面に出さずに一曲を聴かせています。
制作中には、その控えめさが心配になったこともあったそうです。
タイラーは、この曲には派手な大きい見せ場がなく、穏やかすぎるのではないかと感じたことを話しています。
完成した大ヒット曲を知ってから読むと、少し意外な迷いです。
ここに大きな高音を足せば、聴きどころは分かりやすくなったでしょう。
けれども、その瞬間、聴く側は「これほど強く歌える人なのか」と、歌手の力量へ意識を向けるかもしれません。
「As It Was」では、静かな声のままサビまで進むため、歌の人物の気持ちから離れずに聴けます。
気持ちを伝えるために、必ずしも声を大きくする必要はない。
ハリーの穏やかな歌が、この短い曲の間、それを実際に感じさせてくれます。
終盤では、長く伸ばす代わりに言葉が増える
曲の後半には、話すような短い言葉が次々に続く部分があります。
それまでの歌が急に立ち止まって、大きな高音へ向かうのではなく、言葉の密度が上がっていくのです。
この部分は、共同制作者のキッド・ハープーンが提案し、そこから一緒に歌詞を作っていったといいます。
長い音を伸ばして気持ちを強める方法に加え、短い言葉を続けて、落ち着かなさを伝える方法が選ばれています。
歌声の基本の柔らかさは残っているのに、話したいことが増えたように感じられます。
そのあと、よく知ったサビの言葉が戻ってきます。
同じ短い旋律でも、いろいろな思いを口にしたあとでは、最初とは少し違う重みを持って聞こえるでしょう。
大きな声を出す一瞬だけに頼らず、言葉を増やし、また繰り返しへ戻ることで、気持ちの動きを作っています。
「Sign of the Times」の長く伸ばす歌から、こうした穏やかな歌、さらに2026年のダンス曲へと表現が広がる歩みは、ハリー・スタイルズの歌声の変遷でたどっています。

明るく進む音楽と、晴れきらない声を一緒に聴く
「As It Was」は、ただ明るい曲でも、ただ悲しい曲でもありません。
ハリー本人も、変化を受け入れていく気持ちを歌った曲だと話しています。
だから、踊れるリズムに寂しさが残っていても、ちぐはぐではないのです。
暮らしが変わり、以前より良くなった部分があっても、昔を懐かしく思うことはあります。
もう戻れないと分かっていても、それを毎回大げさに悲しむわけではありません。
この曲の穏やかな声は、そんな複雑な気持ちを、自分にも覚えのあるものとして感じさせます。
ハリーは、軽快な伴奏に歌声まで合わせて陽気にしませんでした。
柔らかい声で歌い、言葉を少し急がせ、また短いサビへ戻る。
その歌い方があるから、「As It Was」は体を動かしながら、寂しさも一緒に味わえる曲になっています。
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