「誰より好きなのに」は気持ちの強い歌だ。
それなのに、この曲を声の大きさだけで説明するのは難しい。
古内東子が歌うための言葉は、まず自分が言えるかどうかで選ばれ、自分の声に合うように曲へ収められる。
切ない気持ちを大げさな結論に変えず、言い切れないまま歌にする。
その作り方から、彼女の歌い方を考えたい。
「私の実話」と決めつけると、歌の余白が消える
1996年発表の「誰より好きなのに」は、古内自身が作詞・作曲し、ドラマの挿入歌として書き下ろした。
近しい相手を強く思っているのに、恋人としては届かない。
そのもどかしさが曲の中心にある。
歌い手がこの感情を説明し切ってしまえば、聴く人が自分を重ねる場所は狭くなる。
古内は後年、自分の気持ちにないことは書けず、自分なら言わない、しないことは歌にしないと語った。
一方で、曲になれば聴く人のそれぞれが主人公になるとも言う。
これを「すべて実体験を告白している」と受け取るのは違う。
書き手にとって嘘のない言葉が、歌として独り歩きできるようになる。
その二段階が彼女のラブソングの強さだ。
2022年のMikikiの取材では、自分の声の特性や癖を知ったうえで、最初から自分が歌うことを想定して曲を書くとも話している。
声は完成したメロディを後から飾る道具ではない。
歌詞と旋律を作る段階に、もう古内の声が入っている。
だから「誰より好きなのに」を、別の歌手の大きな声や高音だけに置き換えて比べても、彼女の歌い方の設計は見えにくい。

写真出典:THE FIRST TIMES取材
恋の答えを示さず、揺れている言葉を置く
古内自身、20代で「恋愛の神様」と呼ばれたことには戸惑いがあったという。
自分の曲は、頑張れば恋がかなうと励ますものでも、答えを教えるものでもない。
相手の気持ちを完全には分からず、あれこれ思い巡らせる。
その堂々巡りを歌にするから、同じ悩みを持つ人がそこに自分を見つけるのだと話した。
この前提で「誰より好きなのに」を考えると、声を張って結論を宣言することだけが表現ではないと分かる。
恋の状況がほどけないまま、言葉が次の言葉を呼ぶ。
曲の意味が最後まで聴いて初めて通るという指摘に、古内も同意している。
途中で迷う時間そのものを、歌の中から取り除いていないのである。
日常の小さな場面に気持ちを託す例として、2022年の「動く歩道」も分かりやすい。
本人がTHE FIRST TIMESで語ったのは、好きな人ともう少し一緒にいたいのに、歩道が駅へ運んでいくというイメージだ。
一人なら歩いて先へ進む場所でも、そのときだけは遅さがありがたくなる。
気持ちを説明する形容詞を増やさず、同じ速さがどう感じられるかで恋を描いている。
こうした歌を、悲しそうな声色だけでなぞると、人物が置かれた状況を取りこぼしてしまう。
「誰より好きなのに」でも、相手を思う強さと、その思いをうまく届けられない距離の両方が大事になる。
歌の言葉を会話として捉えると、切なさが声の飾りではなく、言おうとして言い切れない気持ちから生まれることが見えてくる。
1997年には同曲のピアノ版も発表している。
1996年のシングルとは異なる編曲の中で、同じ詞が別の輪郭を持つ。
伴奏が変わると、どの言葉が近く感じられるか。
二つの録音を聴くなら、声の大きさとともに、その距離の感じ方を楽しみたい。
自分の声だけを主役にしない伴奏の選び方
古内はピアノで曲を書くが、必ず自分のピアノだけで歌うわけではない。
「誰より好きなのに」の録音には鍵盤奏者の中西康晴も関わった。
本人は中西の演奏を非常に信頼していたと振り返る。
声に合う曲を自分で作ることと、伴奏の仕事を人に託すことは両立している。
この曲の1997年ピアノ版でも、鍵盤を中心に据える発想は続いた。
1996年のシングルと同じ詞でも、伴奏に与える役割は固定されない。
歌い方を見るときも、声を単独で持ち上げるのではなく、どの音の上に言葉を置くかという関係を忘れたくない。
2020年の公式映像では、「誰より好きなのに」をギターと鍵盤とともに歌っている。
1996年の編曲そのままではない。
別の伴奏でも古内自身の声でこの曲を歌えることと、言葉の主人公が聴き手へ移るという本人の考えは、同じ曲の二つの側面だ。
その関係を演奏者に伝える方法も具体的だ。
2023年の『果てしないこと』では、古内は歌詞と歌を入れたデモをバンドに渡した。
歌の世界を口頭で説明する代わりに、どの旋律へどの言葉が乗るのかを、音そのもので受け取ってほしかったという。
演奏者全員が歌の主人公を演じる必要はなくても、歌詞と旋律が一緒に存在することは感じてほしい。
声の表現を最後に付け足すのではなく、伴奏を考える時点から共有しているのである。

写真出典:THE FIRST TIMES取材
「素肌」では、言葉を詰めずに置いていく
『果てしないこと』の「素肌」について、古内は言葉数で押すより、一つずつ置くような曲だと説明した。
思い描いた甘い世界と、バンドのクールな演奏が釣り合うように作ったという。
熱い感情を歌うときでも、歌と楽器が同じ濃さで感情を強調する必要はない。
ここでは、言葉を歌っていない時間も聴きどころになる。
一つの言葉のあとに楽器が残るとき、そこまでを含めて歌の表情として受け取ってみたい。
声だけを追い続ける聴き方から少し離れると、古内が曲作りの段階で考えていたバンドとのバランスに近づける。
静かに聞こえる歌にも、何もしていないのではなく、声で埋める範囲を選ぶ面白さがある。
感情を盛るより、その曲の言葉を信じる
古内が他の歌手の録音を支えた場面にも、表現の考え方が表れる。
2021年、石原詢子へ提供した「ただそばにいてくれて」の録音で、石原は古内から、飾らず率直な気持ちで歌うよう助言されたと話した。
歌詞を情緒過多に塗り重ねるより、歌う人の気持ちを真っすぐ置くという選択の一例だ。
ただし、素直に歌うことと、準備をせずに歌うことは別だった。
石原はこの曲のリズムや音程、アクセントに細かく注意し、いつも以上に練習したという。
一番と二番で旋律が異なるため、歌詞とともに体へ馴染ませる時間も必要だった。
これは提供曲を受け取った石原の経験だが、古内の書く歌が、自然な言葉の奥に細やかな音楽上の動きを持つことを教えてくれる。
表面の気負わなさは、歌の中身を曖昧にすることで生まれるわけではない。
古内の歌い方を「切なく歌う」とだけ呼ぶと、なぜその切なさが聴く側のものにもなるかが抜け落ちる。
自分の声を想定して曲を書き、自分なら口にできる言葉を選び、恋の決着を歌の外へ急がない。
強い気持ちを無理に叫ぶのではなく、聴く人が続きを受け取れる形で残す。
「誰より好きなのに」が歌われ続ける理由を、そこから考えられる。
1990年代の録音から弾き語り公演、30周年のデビュー曲再録へと、歌と客席の関係がどう変わったかは古内東子の歌唱変遷で扱っている。

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