昔ほど声は出ない。
それでも、昔の曲は当時と同じような気持ちで歌いたい。
南野陽子は、声の変化を自分でも感じながら、歌い方や振り付け、曲の響きを大切に残してきました。
聴き手が、自分の青春時代へ戻れるようにするためです。
1988年8月30日、新宿厚生年金会館で歌った『吐息でネット』から、2026年のNHKホールで客席の大合唱を受け止めるまで。
同じ曲を歌う本人の声は変わり、歌うことへの気持ちも変わっていきました。
デビュー前には、人前で歌うことをためらっていた人が、今は自分から次の公演を望む。
その道のりを知ると、昔の歌い方を残すという選択も、懐かしさだけではないものに見えてきます。
自分の声に戸惑っていた『恥ずかしすぎて』の頃
1985年のデビュー曲『恥ずかしすぎて』は、当初『天使のハンカチーフ』という題名になるはずでした。
曲名が変わった理由について、南野は2026年に、自分が恥ずかしがって歌わなかったからだと振り返っています。
歌詞も一部変えてもらったそうです。
準備の録音では、キーを探るために歌ってみるよう求められました。
ところが、ヘッドホンから返ってきた自分の声が、思っていた声と違っていた。
その戸惑いから泣き出してしまった、というのが本人の回想です。
当時のディレクターだった吉田格も、デモを録るときには恥ずかしがり、歌う場所のカーテンを閉めて録音したと話しています。
自分の声を好きになることも、人に聴いてもらうことも、最初から簡単だったわけではありません。
今では多くの人に覚えられている歌声も、本人にとっては、聞き慣れない自分の声を受け止めるところから始まっていました。
活動が忙しくなると、録音に十分な時間を取ることも難しくなります。
吉田によると、深夜にスタジオへ入り、撮影やテレビ収録の合間に何度も歌い、録ったテイクから選んで一曲を仕上げていました。
限られた時間でも懸命に歌っていたという記憶が、制作を担った人に残っています。
初期の歌は、照れながら一度歌って終わりだったのではなく、そうした作業を重ねて形になったものでした。
歌から距離を置いた時期を経て、持ち歌の意味が変わった

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その後、南野は俳優の仕事に比重を置く時期を迎えます。
2024年の本人の説明では、アイドルは歌手とも俳優とも呼ばれにくく、自分の立場がはっきりしないという思いがありました。
お芝居に傾いた背景には、そうした気持ちもあったのです。
多くの作品に出演したあとも、声をかけてくれる人が覚えていたのは、芝居だけではありませんでした。
『はいからさんが通る』を聴いていた、と音楽のことで話しかけられる。
それなら、持ち歌があることを自分の特色にしていけばいい。
以前は迷いにもなっていた歌手と俳優という二つの仕事を、違う形で受け止めるようになりました。
2016年には、デビュー30周年を記念し、約25年ぶりのコンサートも開いています。
ファンとの再会はうれしくても、この先またコンサートを開く機会はないだろう、と思っていたそうです。
翌年にその公演の映像作品が発売された際にも、アイドルとしてのコンサートは最後になると思う、と本人はコメントしていました。
「NANNO 30th&31st Anniversary」――2016年公演のダイジェスト
後年、再び歌を続けようと思えたのは、若い頃の声へ戻ったと感じたからではありません。
2024年には、昔より声が出ず、上手にも歌えないと、今の自分の歌を率直に話しています。
それでも、自分も好きな音楽を、応援してくれる人と一緒に楽しむ時間を持ちたい。
間違えたり声が裏返ったりしても、楽しい時間なら受け止めてくれる人たちがいる。
本人が語ったのは、声の変化を認めたうえで、歌う時間をもう一度選ぶという考えでした。
思い通りに歌えるかどうかだけでは決められない、持ち歌の意味が見えてきます。
近い客席で歌う楽しさから、次の一回が生まれた
2021年から始まった『To Love Again』も、最初から長く続ける予定の公演ではありませんでした。
コロナ禍に、ファンはどう過ごしているのだろう、何か歌いたいと思っていたところへ、作曲家の友人から歌の誘いが来たといいます。
編曲家や演奏家に相談すると、参加できるという返事が重なり、公演へつながりました。
一度だけのつもりが、楽しかったからもう一度。
そうして、2024年には三度目を迎えています。
南野が新鮮に感じていたのは、生の楽器の音に加え、ビルボードライブならではの客席の近さでした。
以前のホール公演と違い、一緒に歌っている人や、楽しそうにしている人の顔がよく見え、その反応から元気をもらえると話しています。
選曲も、かつてのヒット曲を順に並べるだけではありません。
持ち歌や若い頃から歌っていた曲と洋楽のカバーを、およそ半分ずつ選ぶ構成です。
『Fly Me to the Moon』のような親しみやすい曲に加え、幼い頃から聴いてきた曲も選び、新たな日本語詞で歌うものもありました。
本人の中には、これまで歌ったことのない曲も出し惜しみせず歌ってみたい、という気持ちが芽生えていたそうです。
昔より声が出にくいという実感があっても、歌う曲まで狭めてはいません。
好きな音楽を選び、目の前の反応を受け取り、また歌いたくなる。
初期の録音で自分の声に戸惑っていた頃とは、聴いてくれる人との関わり方も変わってきました。
昔の歌い方を残すのは、聴き手の記憶に届くため

画像出典:写真掲載元
新しい曲にも手を伸ばす一方で、自分の昔の曲には、変えすぎたくないものがあります。
2025年の取材で南野は、声が出やすくなったり出にくくなったりする変化はあると話しながら、若い頃の歌は当時と同じような気持ちで歌いたいと説明しました。
歌い方だけでなく、振り付けやアレンジ、音も大きく変えず、聴き手がその頃の記憶へ戻れるようにしているのです。
その年の40周年ツアーには、ずっと応援してきた人だけでなく、久しぶりに戻ってきた人や、当時はまだ生まれていなかった人も来ていました。
南野が選んだのは、シングルをすべて歌うという、初めて来る人にも分かりやすい内容です。
衣装も当時を思わせるものにし、編曲にもあの頃の雰囲気を残しました。
今の歌を聴いてもらうときに、聴き手が知っている曲の姿を大切にしたのです。
翌2026年6月18日のNHKホール公演でも、キーと振り付けを当時のままにして歌ったと報じられています。
『吐息でネット』では、サビに観客の大きな合唱が重なり、その声に南野が後ずさりするほどでした。
昔の録音を聴き直すのとは違い、今の本人の歌へ、同じ年月を過ごした人たちの声が返ってきていました。
この公演は、前年の追加公演で満足していた南野が、40周年のうちにもう一度できないかとスタッフに頼んで実現したものでした。
30周年の頃とは違い、この日は、もうコンサートはしないとは言わないようにすると話しています。
また歌いたいと思える時間を、本人も客席も、一緒に作っていたのです。
デビュー前にカーテンを閉めて歌った人が、今は聴き手の顔を見ながら歌い、次の公演も望んでいる。
その間に声は変わりましたが、昔の曲の歌い方を残したいという意志は、今の南野自身のものです。
過去の歌声をそのまま再現することだけが目的ではなく、曲を覚えてくれている人と、現在の声で再会する。
南野陽子の歌の変遷には、歌う本人と聴き手の距離が変わってきた道のりも重なっています。
声の響きや息遣いについては、南野陽子の歌い方で扱っています。







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