友川カズキの歌声はどう変わった?1974年デビューから50周年まで

友川カズキの歌声の変遷 シンガー

友川カズキさんは、若い頃から同じ激しさで叫び続けた歌手に見えます。
代表曲の多くは20代に生まれ、現在の舞台でも歌われています。

しかし半世紀の歩みを追うと、歌声が単純に変わらなかったわけではありません。
一人で自分を奮い立たせる歌から出発し、詩人の言葉、共演者との即興、海外や若い聴き手との出会いを通して、同じ歌を更新できる声へ変わりました。

最大の変化は、絶叫が丸くなったことでも、技術的に高くなったことでもありません。
声をぶつける相手が「自分」から「詩」「演奏家」「時代」へ増えていったことです。

1970年代前半、自分を励ますために詩が歌になった

友川さんは1950年に秋田で生まれ、若い頃から詩を書いていました。
上京後は新聞配達や飲食店、土木作業などの仕事をしながら生活します。
音楽へ向かう決定的なきっかけは、飯場で働いていた時に岡林信康さんの歌を聴いたことでした。

自分が暮らす現実と歌が直接つながっていることに驚き、借りたギターでコードを覚えます。
もともと書いていた詩へ曲をつければよい。
この順番が、後の友川さんを決めました。

1974年にレコードデビューし、1975年に最初のアルバム『やっと一枚目』を発表します。
「生きてるって言ってみろ」や「家出青年」など初期の歌は、誰かを励ます余裕から書かれたものではなく、自分自身へ向けた言葉だったと本人は振り返っています。
歌は客席への完成品より、まず生き延びるための自己激励でした。

若い時期の友川カズキ

1978年、中原中也の詩と出会い直して声の相手が変わる

1978年の4作目『俺の裡で鳴り止まない詩』では、中原中也の詩を歌いました。
自分の言葉だけを歌っていた人が、別の詩人の言葉を身体へ入れ直した作品です。

ここでは、強い声が自己告白だけの道具ではなくなります。
意味を説明し切れない言葉にも音を与え、詩の手触りを聴き手へ渡す役目を持ちました。
J・A・シーザーによる編曲との衝突もあり、弾き語りの素朴さから遠い、密度の高い音楽が生まれます。

後年も西脇順三郎や石原吉郎の言葉を曲にし、分かる言葉だけを歌うという考えから離れていきました。
友川さんの歌声は、意味を代弁する声から、意味が分からないままでも詩を耳に残す声へ広がったのです。

1980年代、客が少ない舞台と沈黙が歌を選び直した

活動を続けても、大きなヒットが続いたわけではありません。
ライブの観客が10人、20人ほどだった時期もあり、自己満足ではないかと考えて約2年歌うのをやめたことがありました。

この沈黙は、声が衰えた時期というより、歌う理由を選び直した時間です。
若い頃の曲を捨てず、今の自分が歌うに耐える言葉かどうかを確かめるようになります。
後に本人は、生き方が変わらなければ言葉は簡単には古くならないと話しました。

1989年の公式ライブ映像には、すでに現在へ通じる友川さんの姿があります。
重要なのは、若い頃と同じ音を保存していることではありません。
昔の歌を、その時の身体と客席でもう一度成立させる方法を手に入れていたことです。

PANTAさんの歌唱変遷にも、古い歌が時代ごとの演奏家によって別の表情を持つ過程があります。
友川さんの場合は、声の鋭さを保ちながら、曲を壊して作り直せる共演関係が次の変化を生みました。

1990年代、絶叫だけではない間と歌の景色が深くなる

1990年代の舞台では、初期曲が繰り返し歌われます。
同じ代表曲でも、声の強さを一方向へ上げ続けるのではなく、言葉の前後へ間を置き、低く流す場所と破裂させる場所の差が広がりました。

これは、年齢によって勢いが失われたという話ではありません。
感情的にならないことを意識し、強い言葉ほど抑えて置く選択を持つようになった結果です。
一つの歌の中に、平静さと激しさが同居します。

友川さんの歌い方と発声を扱った記事では、この「絶叫に見える冷静な配置」を中心に解説しています。
年代をまたいでも残ったのは叫び方そのものではなく、言葉の予想を裏切る考え方でした。

2000年代、海外からの再発見で「日本のフォーク」から解放される

2000年代には欧州ツアーが行われ、フランスの映像作家ヴィンセント・ムーンが友川さんを追ったドキュメンタリー『花々の過失』も制作されました。
日本語の意味をすぐ理解できない聴き手にも、声、ギター、身体のリズムが先に届きます。

海外での評価は、友川さんが海外向けの歌い方へ変えた結果ではありません。
むしろ国内のフォーク史だけでは整理しきれなかった音楽が、パンク、即興音楽、実験的な表現を好む聴き手に別の入口から見つかった出来事でした。

この時期から、歌の相手は日本語を共有する観客だけではなくなります。
意味が分からなくても音として引っかかる言葉、急な強弱、演奏の緊張が、国境を越える手掛かりになりました。
浅川マキさんがジャズと即興演奏へ接近した変遷と同じく、ジャンル名より舞台上の一回性が強くなっていきます。

2010年代、共演者が古い歌に変化する余地を作った

2010年代の友川さんは、石塚俊明さん、永畑雅人さん、坂本弘道さん、ギャスパー・クラウスさんら多彩な演奏家と作品を作ります。
2014年の『復讐バーボン』や2016年の『光るクレヨン』では、自作詩だけでなく俳句や他の詩人の言葉も取り込みました。

本人は、共演者が元の歌を知ったうえで壊すことを望んでいます。
長く歌った曲でも、リハーサルや初めての共演者によって変わる余地がある。
この考えが、初期曲を懐メロにしませんでした。

声そのものには年齢の変化があります。
ただ、若い頃の高さや荒さを複製する代わりに、低い一言、沈黙、周囲の音とのずれまで作品にできるようになります。
歌唱の密度は、声だけで埋めるものから、共演者と空間を分け合うものへ変わりました。

共演者と舞台に立つ友川カズキ
今入れる? 近くで入りやすい飲食店がわかる混雑予報マップ

2020年代、舞台が止まっても歌を現在形へ戻した

2020年には観客を入れにくい状況の中で、APIA40からの配信や映像公開が行われました。
過去映像だけに頼らず、その時点の編成と身体で歌う姿が公式チャンネルを通じて残ります。

ここで興味深いのは、インターネットが友川さんを丸く紹介し直したわけではないことです。
客席が少なかった時代の歌が、動画を通じて若い世代や海外の聴き手へ届きました。
歌い手が流行へ寄せるのではなく、受け取る側が時代を越えて近づいてきたのです。

2024年にはデビュー50周年を迎え、ライブ発掘音源と新作『イカを買いに行く』を発表しました。
新作には日常的な題名の曲、競輪を題材にした曲、過去から歌ってきた曲が同居します。

怒りだけで50年を説明せず、暮らしの可笑しさや孤独まで歌にする幅が見えます。
2025年にも75歳で公演を続け、半世紀を記念碑として閉じるのではなく、生存を確かめる現在の舞台に変えました。

友川カズキの歌声は、変わらない核の周囲を広げてきた

友川カズキさんの歌唱変遷は、若い頃の絶叫が年齢とともに穏やかになった、という単純な物語ではありません。
初期の激しさは今も残り、20代の歌も現在形で歌われています。

変わったのは、声が向き合う相手です。
自分を励ますための歌から、他者の詩を鳴らす歌へ。
一人の弾き語りから、共演者に壊されて更新される歌へ。
小さな客席から、映像を通じて海外や若い世代にも発見される歌へ。

それでも、生き方と言葉をごまかさない核は変わりませんでした。
だから古い歌を保存するのではなく、歌うたびに今の友川カズキへ戻すことができる。
50周年は完成の印ではなく、同じ言葉がまだ古びていないかを確かめる新しい一夜だったのです。

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