遠藤賢司さんの歌声は、静かな弾き語りと、身体ごと突っ込むような絶叫の落差がとても大きいです。
それでも別人が歌っているようには聞こえません。
理由は、声をきれいに整えることより、自分のことばと音が同じ方向を向くことを優先していたからです。
小さな声は弱さを隠さず、大きな声は強さを飾りません。
両方とも、その瞬間の歌をいちばん正直な形で外へ出すための声でした。
遠藤さん自身が掲げた「純音楽」は、特定のジャンルや発声法の名前ではありません。
この記事ではその考えを軸に、囁き、話し声、裏声、絶叫までが、なぜ一人の歌としてつながるのかを分かりやすく見ていきます。
小さな声に、録音の「正解」より大事なものがあった
初期の代表曲「カレーライス」には、遠藤賢司さんの歌い方を理解する鍵があります。
この曲は、派手な高音や大声で人を圧倒する作品ではありません。
日常の出来事を思い出しながら、すぐそばで話すように歌が進みます。
録音では、曲を作った時の環境に近づけるため、畳に座って歌ったと本人が語っています。
腹の鳴る音や歌詞の言い間違いまで残されました。
普通なら録り直す箇所ですが、整えすぎるとその時に生まれた自然な流れが消えてしまう、と考えたからです。
ここで大切なのは、「素朴に歌えば遠藤賢司らしくなる」という話ではありません。
声の小ささ、部屋の気配、ことばの揺れまで一つの出来事として録音したことです。
上手に聞かせるための処理より、歌が生まれた温度を残すことを選んでいます。

この姿勢があるため、柔らかな歌声にも妙な緊張感があります。
囁きに近くても、背景へ引っ込んでしまわないのです。
音量ではなく、「いまこのことばを言う」という意志が、声の輪郭になっています。
絶叫は、静かな歌を捨てた結果ではない
一方の遠藤さんは、エレキギターと巨大なアンプを相手に、一人で轟音を鳴らす歌手でもありました。
喉が裂けるのではと思うほど叫ぶ場面もあります。
初期の静かなフォークだけを知る人には、極端な方向転換に見えるかもしれません。
しかし本人は、アコースティックならフォーク、エレキならロックという分け方そのものに違和感を持っていました。
「ハードフォーク」や「純音楽」という言葉を使ったのも、楽器や音量で自分の歌を仕分けされたくなかったからです。
静かな声と絶叫の共通点は、声を美しく均一に保とうとしないことです。
必要なら息の近い声になり、歌が膨らめば声も荒れます。
大きな声は見せ場として後付けされた装飾ではなく、ことばと演奏がそこまで大きくなった結果として現れます。
したがって、遠藤さんの歌唱力を声域や声量だけで測ると、肝心な部分を取りこぼします。
本当の強みは、音楽の大きさが変わっても、自分のことばを手放さないことにあります。
「です・ます」でさえ、歌の勢いを止めない
「夜汽車のブルース」は、です・ます調で歌われた初期の日本語ロックとして語られてきました。
丁寧語は説明的になりやすく、ロックの勢いとは相性が悪そうに見えます。
ところが遠藤さんの歌では、整った歌詞を拍子に収めるより、しゃべりたいことばが先へ先へと音を連れていきます。
発音を均一にそろえず、一語だけ前へ飛び出したり、文の終わりが演奏へ食い込んだりします。
これは滑舌を雑にする方法ではありません。
文章の意味と感情の動きに合わせて、音符の長さを伸び縮みさせる考え方です。
話し声の癖を消さないため、遠藤さんの歌詞は紙の上の文章よりも、誰かが目の前で話している出来事として届きます。
音程を正しく取ることと同時に、ことばが生きている時間を守る。
この二つを一緒に行えることも、遠藤賢司さんの歌唱力です。
「自分のために歌う」は、聴き手を無視する言葉ではない
遠藤さんは、自分のためにしか歌っていない、という趣旨の発言を残しています。
字面だけなら、独りよがりに見える言葉です。
しかしその説明をたどると、反対の意味が見えてきます。
自分が使う一つ一つのことばと音に、まず自分で責任を持つ。
流行している歌い方や、観客が期待する遠藤賢司像に合わせて、納得できない音を出さない。
その厳しさを「自分のため」と表現していました。

だから、かわいらしい猫の歌も、長大な轟音ロックも、裏声を多用した作品も同じ場所から始まります。
ジャンルを変えるたびに器用な別人を演じたのではなく、いま自分が面白いと思う音へ、その都度まっすぐ進みました。
この一貫性は、遠藤賢司さんの歌声の変遷を年代順に見ると、さらに分かりやすくなります。
音楽の外見は大きく変わっても、声とことばを他人任せにしない姿勢はほとんど変わりません。
三曲を比べると、声より先に歌の大きさが変わっている
遠藤賢司さんの歌い方を知るなら、「カレーライス」「東京ワッショイ」「夢よ叫べ」の三曲を比べると輪郭が見えます。
三曲は音量も編成も、ことばの置き方も大きく異なります。
「カレーライス」では、身近な出来事を壊さないために声を近づけます。
「東京ワッショイ」では、街の騒がしさや祝祭性を受け止めるように、声もリズムも外へ開きます。
「夢よ叫べ」では、題名の通り声を張る場面があっても、単に高く大きく歌う曲にはなりません。
違うのは、発声の型を曲ごとに取り替えたことより、曲が必要とする距離です。
部屋の中の独り言、街を巻き込む掛け声、自分自身へ返す呼びかけ。
誰に、どの距離からことばを渡すかが変わり、結果として声の大きさと手触りが変わっています。
こうして聴くと、囁きと絶叫は対立しません。
どちらも、曲の大きさへ自分の声を合わせたものです。
表面の「叫び方」だけは真似しない方がいい
遠藤賢司さんから参考にできるのは、喉を限界まで鳴らすことではありません。
荒れた声や絶叫だけを切り取ると、首や顎を固めて大声を出すだけになりやすく、本人の音楽からも遠ざかります。
むしろ注目したいのは、小さな声を選ぶ時にも、大きな声を選ぶ時にも理由があることです。
歌詞の場面、相手との距離、演奏の密度を考え、声を先に決めない。
それなら、遠藤さんと同じ声質でなくても考え方を取り入れられます。
痛みや強いかすれを我慢して絶叫を再現する必要はありません。
不調が続く時は歌唱を休み、必要に応じて耳鼻咽喉科などへ相談してください。
純音楽とは、苦しさに耐える発声法ではなく、自分が本当に出すべき音を引き受ける態度だからです。
まとめ|遠藤賢司の声は、音量ではなく正直さでつながっている
遠藤賢司さんの歌い方は、囁きから絶叫まで振れ幅が大きい一方、その中心は一つです。
ことばと音を切り離さず、その時に生まれた歌を整えすぎずに差し出すことでした。
録音の小さな物音を残した初期も、エレキギターと轟音で向き合った時期も、「夢よ叫べ」を歌い続けた晩年も、声の役割は変わっていません。
上手さを隠すために素朴だったのでも、迫力を見せるために叫んだのでもなく、曲の大きさに声を合わせていたのです。
遠藤賢司さんを聴く時は、声がきれいか、地声か裏声かだけでなく、なぜその瞬間だけ声が小さくなり、なぜ次の瞬間に爆発するのかに注目してみてください。
落差の中から、同じ一人のことばが聞こえてきます。






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