遠藤賢司の歌声はどう変わった?弾き語りから東京ワッショイ、晩年の純音楽まで

ステージでエレキギターを弾きながら歌う遠藤賢司 シンガー

遠藤賢司さんの歌声は、1969年の静かな弾き語りから、パンクとテクノをのみ込んだ「東京ワッショイ」、一人で巨大なアンプに挑む長編ロック、そして晩年の歌へと大きく姿を変えました。
ただし、昔の歌い方を捨てて新しい技術へ乗り換えた歴史ではありません。

変化の中心にあったのは、歌える声の種類を増やし続けたことです。
囁き、話し声、裏声、絶叫を、その時に作りたい音楽へ遠慮なく持ち込んだ結果、遠藤さんの歌は年代ごとに別の景色を見せました。

それでも、自分のことばと音を一致させるという出発点は最後まで残ります。
この「外見は変わり続け、芯は変わらない」という矛盾こそ、約半世紀の歌唱変遷を面白くしています。

1969〜1971年|部屋の空気まで歌にした静かな出発点

1969年、遠藤賢司さんは「ほんとだよ」でレコードデビューしました。
初期の声は、後年の轟音ロックから想像するよりずっと柔らかく、ギターのそばで話しているような距離にあります。

1970年の『niyago』、1971年の『満足できるかな』では、その近さが作品の個性になりました。
「カレーライス」の録音では、作曲時の感覚へ戻るため畳に座り、腹の音や歌詞の言い違いまで残したと本人が語っています。
完成品を磨くより、その瞬間の自然な流れを壊さないことが優先されました。

若い頃から完成された美声だった、という説明では足りません。
むしろ、きれいに整える前の声を作品として成立させる判断が、すでにありました。
静かな歌唱は技術不足の段階ではなく、その時のことばに必要な大きさとして選ばれていたのです。

1972〜1975年|ウクレレ、オーケストラ、エレキが声の居場所を広げた

三作目『嘆きのウクレレ』では、タイニー・ティムからベートーベンまでを一枚の中へ持ち込みました。
フルオーケストラを背に歌い、自身のエレキギターも初めて作品へ収めています。

ここで歌声は、部屋の中の独白だけではなくなります。
大きな編成の中でことばを立たせたり、奇妙な音色と並んだりする役割を持ち始めました。
1975年には、自らの音楽を「HARD FOLK」と掲げるアルバムへ進みます。

フォークからロックへ転向した、と一言で片づけると、この時期の面白さが薄れます。
遠藤さんはもともと、流行歌、神楽、映画音楽、プレスリー、クラシックまでを聴いて育ちました。
一つの型から飛び出したのではなく、最初から内側にあった音が、作品ごとに声の前へ出てきた時期です。

1970年代に弾き語りをする遠藤賢司

1978〜1980年|東京ワッショイで声が街の騒音になった

大きな転機は、セックス・ピストルズやクラフトワークから刺激を受けて制作した『東京ワッショイ』です。
フォーク、ロック、パンク、テクノ、歌謡曲が一つの祭りのように交差し、声も静かな語り手の位置には収まらなくなりました。

「東京ワッショイ」では、ことばを説明する声より、街の熱へ参加する掛け声が前へ出ます。
続く『宇宙防衛軍』では、さらに大きな音像の中で、声そのものが登場人物のように振る舞います。

ただし本人は、時代の新しい音を意識的に採用したというより、好きだったハードロックもポップスも自分の中に初めからあった、と振り返っています。
新しい衣装を着るための変化ではなく、自分の内側にある別の音量を解放した変化でした。

1983年|裏声を主役にして、激しさとは別の極端へ進んだ

『オムライス』では、カウンターテナー歌手のアルフレッド・デラーや、クラウス・ノミの影響から、裏声を大胆に使いました。
『東京ワッショイ』の次に、さらに激しい声へ進むのではなく、軽く高い声を作品の中心へ置いたのです。

遠藤賢司さんの変遷が一本道に見えないのは、このような寄り道があるからです。
静かな地声がロックの絶叫へ成長した、という成功物語なら、裏声の環境音楽は脇道になってしまいます。
実際には、どの声なら今の音楽がいちばん面白くなるかを試すこと自体が本流でした。

高い声を太く強くすることだけを進歩と考えず、声の重さを捨てる方向にも進んだ。
この経験があるため、後年の歌でも、柔らかさと轟音が同じ人物の表現として共存します。

1980年代後半〜1996年|一人の轟音と「夢よ叫べ」が帰還を告げた

1980年代後半には、エレキギターとマーシャルアンプだけで長大な曲を演奏するようになります。
「輪島の瞳」は一時間近くになることもあり、弾き語りという言葉から連想する規模を大きく超えました。
1988年には遠藤賢司バンドも結成されます。

ここでの大声は、初期の繊細さを失った印ではありません。
たった一人で巨大な音と向き合い、長い物語を最後まで運ぶために、声の持続力と振れ幅が必要になりました。

1996年、16年ぶりのオリジナル・フルアルバム『夢よ叫べ』が発表されます。
タイトル曲は、ライブで長く育てられてきた歌でした。
録音を巡っては演奏者と激しく意見を交わし、最終的には相手が涙するテイクへたどり着いたという証言も残っています。

「夢よ叫べ」は、遠藤さんの復活を示す曲であると同時に、歌を自分自身へ返す曲でもあります。
叫びは観客へ力を誇示するためではなく、歌っている本人を動かす声になりました。

1999〜2009年|生ギターへ戻り、若い世代と声を混ぜた

1999年の『エンケンの四畳半ロック』は、生ギターとハーモニカだけで過去の曲を一発録りしたセルフカバー盤です。
轟音を知り尽くした後に、初期と同じ小さな編成へ戻りました。
ただし、単なる懐古ではありません。

声量の両端を経験した後だからこそ、生ギター一台の中にもロックの大きさを持ち込めます。
同じ頃には若い演奏家との「エンケン&カレーライス」も始動し、2000年代にはサンボマスター、フジファブリック、銀杏BOYZ、くるり周辺の世代とも共演しました。

若い音楽に合わせて声を若作りしたのではなく、相手の音へ正面からぶつかります。
世代の違いが薄まるのは、遠藤さんが過去の名手として安全な場所へ下がらなかったからです。

今入れる? 近くで入りやすい飲食店がわかる混雑予報マップ

2012〜2017年|年齢に合わせて小さくするより、まだ大きな音を望んだ

2012年の『ちゃんとやれ!えんけん!』を発表した頃、遠藤さんは六十代半ばでも、もっと大きな音を出したいと語っていました。
年齢を理由に声を穏やかな型へまとめる発想とは逆です。

その一方、2014年の『恋の歌』は全編アコースティックで制作されました。
大声だけに固執したのでもありません。
必要なら囁きへ戻り、必要なら再び轟音へ向かうという選択肢を、晩年まで持ち続けました。

2016年にがんを公表した後も録音と公演を続け、2017年には七十歳の記念公演、ピアノ弾き語りアルバム、最後のソロ公演へ進みました。
同年九月にも録音を行い、十月に亡くなっています。

晩年の声を若い頃と同じ条件で比べ、音域や滑らかさだけで衰えを判定することはできません。
編成も曲の役割も異なります。
確かに声の手触りは変化しましたが、最後まで新しい録音を作ろうとした事実の方が、遠藤さんの変遷を正確に表しています。

晩年のステージで演奏する遠藤賢司

変わったのは声の種類、変わらなかったのは音への責任

遠藤賢司さんの歌声は、静かな弾き語りから掛け声、裏声、轟音の絶叫まで広がりました。
年を重ねるほど一つの完成形へ絞られたのではなく、使える色が増えています。

一方で、録音の小さな失敗を残した若い頃と、七十歳まで新しい音を求めた晩年には共通点があります。
他人が期待する正解より、自分のことばと音に責任を持つことです。

現在の声の特徴を技術ではなく、この考え方から詳しく知りたい方は、遠藤賢司さんの歌い方・歌唱力の分析もあわせて読んでみてください。
年代ごとの変化が、単なるジャンル変更ではなかったことが見えてきます。

まとめ|遠藤賢司は、変わり続けることで同じ歌を守った

遠藤賢司さんの歌唱変遷は、フォーク歌手がロック歌手へ変わった、という一本線では説明できません。
静かな声を残したまま轟音を加え、地声だけでなく裏声へ進み、巨大なバンドの後に生ギター一台へ戻りました。

変化を重ねても一貫していたのは、歌を誰かの型へ預けなかったことです。
声を上手に見せるために曲を選ぶのではなく、作りたい曲のために使う声を増やしていきました。

だから初期と晩年は、音だけを比べれば大きく違っても、遠藤賢司の歌として迷いません。
変わらないために同じ歌い方を守ったのではなく、変わり続けることで、自分の歌を守った人でした。

こちらの記事もおすすめ

コメント

タイトルとURLをコピーしました