ジョー山中さんの歌声を年代順に並べると、一本の奇妙な道が見えてきます。
グループサウンズから始まり、フラワー・トラベリン・バンドでは声が即興演奏の一部になりました。
ソロでは映画の物語を背負い、ジャマイカではレゲエのリズムへ入り、再結成後は過去の再現ではなく現在のバンドとして歌いました。
いつも同じハイトーンを磨き続けた歴史ではありません。
同じ強い声が、時代ごとに別の仕事を与えられた歴史です。
若い頃の叫びが年齢とともに丸くなった、というだけでは、この変化を説明できません。
ジョー山中さんは、声を楽器、語り手、リズム、そして人へ届けるメッセージへ変えていきました。
1966年、491では「歌える人」になることから始まった
ジョー山中さんは、子どもの頃から歌手を目指していたわけではありません。
ボクサーを志した後、19歳になるまで人前で歌った経験がなく、声をかけられたことをきっかけにバンドの世界へ入りました。
1966年、グループサウンズの流れの中で491のボーカリストとしてデビューします。
この出発点では、後の『SATORI』のような巨大な作品像より、まずバンドの前で歌える声そのものが武器でした。
本人は、歌い始めて半年ほどたった頃、日本人には出せないような声を自分なら出せるという感覚を持ったと振り返っています。
観客の反応を受け、複雑だった自分の背景とシャウトする自分が初めて結びつき、歌を天職と考えるようになりました。
最初の変化は技法ではありません。
人前で歌ったことのない若者が、声を自分の居場所として発見したことでした。
1968年から1971年、声は日本のロックの外側へ飛び出した
内田裕也さんのもとでフラワー・トラベリン・バンドへ進むと、ジョー山中さんの声は流行歌の枠から急速に離れます。
バンドは海外のロックをなぞるだけでなく、自分たちにしか作れない重く異質な音を探しました。
1971年の『SATORI』では、歌詞で物語を固定するより、即興性の高い演奏と声が一緒に動く形が選ばれます。

この時期の声は、歌詞を届けるための透明な容器ではありません。
ギターが曲を曲げ、ドラムが速度を変えるたび、声も叫び、引き、空白を作りながら演奏へ参加します。
日本語ロックか英語ロックかという論争の外で、言葉そのものより声の響きとバンドの構造が前へ出ました。
ジョー山中さんのハイトーンは、歌手の見せ場ではなく、バンド全体が未知の方向へ進むための音になったのです。
内田裕也さんの歌唱変遷と合わせて見ると、このバンドが一人の歌手を売るためではなく、日本のロックを海外へ持ち出す構想から生まれたことが分かります。
1973年から1977年、バンドの声から一人の物語を背負う声へ
フラワー・トラベリン・バンドは1973年に活動を終え、ジョー山中さんはソロへ進みます。
1974年にはアルバム『JOE』を発表しました。
バンドでは、声が演奏の一部になることで個性を強めていました。
ソロでは、ジョー山中という人物が曲の正面に立ち、言葉と物語を引き受ける必要があります。
その転換が広く知られたのが、1977年の『人間の証明のテーマ』です。
映画に出演し、主題歌を担当したこの曲は、50万枚を超えるヒットとなりました。
『SATORI』の声が次の音を呼ぶものだったとすれば、『人間の証明』の声は過去を呼び戻すものです。
高音の鋭さは残っていますが、曲を前へ押すより、一つの問いを長く残すために使われました。
バンドの中で人間離れした楽器のように響いた声が、今度は一人の孤独を担う。
この振れ幅によって、ジョー山中さんはロックファンの外へも届く歌手になりました。
1982年、ジャマイカで声がリズムを信じるようになった
1982年、ジョー山中さんはウェイラーズと『レゲエ・バイブレーション』をジャマイカで録音しました。
翌年、翌々年にもシリーズ作品を続け、日本におけるレゲエの重要な歌手として位置づけられていきます。
ロックのハイトーンは、一瞬で演奏を切り開く力を持ちます。
しかしレゲエでは、声だけが先に走ると、曲の揺れが失われます。
この時期の変化は、強い声を手放したことではありません。
声が前へ出る瞬間と、演奏へ身を預ける瞬間の差が大きくなったことです。
海外の有名演奏家を背景にして、自分の高音を披露しただけの企画ではありませんでした。
ジャマイカのリズムへ入り、その中で自分の声がどこに立てるかを探した作品です。
『SATORI』でバンドの即興を信じた経験は、ここで別の形につながりました。
自分がすべてを支配せず、演奏の流れを信じた時に、声が最も自由になるという感覚です。
1990年代、歌は支援活動の中で「届ける行為」になった
1993年以降、ジョー山中さんは海外での支援活動を続けました。
カンボジア、イラク、ミャンマー、アフガニスタンなど多くの地域を訪れ、物資を運び、歌も届けています。

ここで歌声は、作品を売るためのものでも、歌唱力を競うためのものでもなくなります。
言葉や国籍が違う場所で、敵味方に分かれた双方へ会いに行き、同じ声で平和を呼びかけました。
若い頃、ジョー山中さんは自分の複雑な生い立ちと強い声を結びつけ、歌を居場所にしました。
1990年代には、その声がほかの誰かのいる場所へ出向く手段になります。
歌い方が静かになったという話ではありません。
シャウトの向きが、自分を証明するためだけでなく、人へ呼びかける方向へ広がったのです。
この時期を抜きにして晩年の声を聞くと、単に年齢を重ねたロック歌手に見えるかもしれません。
実際には、ステージの外で声の目的が大きく変わっていました。
2008年、再結成は『SATORI』の保存ではなく続きを作るためだった
2008年、フラワー・トラベリン・バンドは約30年ぶりに再始動しました。
昔の名盤をそのまま再現するだけなら、再結成は懐古企画になります。
しかし新作『We Are Here』では、かつての東洋的で異様な響きを残しながら、それをより開かれた曲の形へ置き直しました。
ジョー山中さん自身も、長い空白を埋めるというより、休止がなかったように再び始めたという趣旨で語っています。
若い頃と同じ声を出せるかどうかだけが問題ではありません。
1970年代には世界のどこにもない音を作るために歌詞を引き、2008年にはその実験を現在の聴き手へ開くために歌いました。
再結成後の声には、過去を証明し直そうとする焦りより、再びバンドの中へ入れる喜びがあります。
長いソロ活動とレゲエを経たことで、ジョー山中さんの声は『SATORI』だけの人ではなくなっていました。
柳ジョージさんの歌唱変遷にも、海外音楽への憧れが日本で独自の声へ変わる過程があります。
ジョー山中さんの場合、その往復はロックからレゲエ、そして再結成まで国境を越えて続きました。
2010年から2011年、最後まで声を社会へ向けた
2010年、ジョー山中さんは肺がんを公表しました。
治療を続けながら活動し、2011年5月には東日本大震災の支援イベントで歌っています。
同年8月に亡くなるまで、最後の声も自分の伝説を閉じるためではなく、被災した人へ向けられました。
病気と歌を安易な美談にするべきではありません。
無理をして歌い続けることを、ほかの人がまねてよいわけでもありません。
それでも、支援の場が最後のステージになったことは、1990年代から続けた行動とつながっています。
声を持つことは、遠くへ届く責任を持つことでもある。
ジョー山中さんは晩年まで、その考えを行動から外しませんでした。
発声と歌い方の特徴は、ジョー山中さんの歌い方・歌唱力で詳しく整理しています。
ジョー山中の歌声は、強さを保ちながら役割を変え続けた
491では、声は自分の居場所を見つける武器でした。
フラワー・トラベリン・バンドでは、即興演奏を動かす楽器になりました。
ソロになると、声は『人間の証明』の物語を背負います。
レゲエではリズムを信じ、支援活動では国境を越えて人へ届くメッセージになりました。
再結成後は、過去を保存するのではなく、その続きを現在形で作りました。
年齢とともに声が変化するのは、どの歌手にも起こります。
ジョー山中さんの変遷が特別なのは、声質の変化より先に、声の役割を何度も変えたことです。
叫び、語り、揺れ、呼びかける。
そのすべてを一人の声が担ったから、3オクターブという数字より大きな物語が残りました。






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