丸山圭子の歌唱変遷|舞台の緊張から、自然な自分で歌うまで

丸山圭子のステージ写真(女性自身掲載) シンガー
丸山圭子のステージ写真(女性自身掲載)

丸山圭子は、自分で歌を作ることに夢中になりながら、人前で歌って表現することには長く苦手意識を持っていました。
「どうぞこのまま」が大ヒットしても、舞台の上で気持ちよく歌えるようになったわけではなかったのです。
録音で曲に合う声をつかむこと、客の前で自分を出すこと、歌の人物像と日常の自分を近づけること。
それぞれの難しさに向き合った歩みをたどります。

1972年のデビュー後、歌う場に追いつこうとした

高校時代に女友達とのグループで歌った文化祭では、楽しさよりも緊張が勝っていたと振り返っています。
その後オーディションを経て、1972年にアルバム『そっと私は』でデビュー。
曲を作る楽しさを知り、アルバムを完成させた一方、舞台には戸惑いが残っていました。

ケメこと佐藤公彦の前座としてホールを回った頃は、手足も声も震え、思うように歌えなかったそうです。
ギターを持って歌い、ピアノの伴奏もつく。
形はプロの公演になっていても、本人には、その場で歌える実力が追いついていないという感覚がありました。
レコードを出せたことと、目の前の客へ歌を届けられることは、同じ手応えではなかったのです。

デビュー後はボイストレーニングに通い、ピピ&コットのコーラスにも取り組みました。
2005年5月のmomentの取材では、自分なりに歌えるという手応えを得て、次のアルバムへ向かったと話しています。
テレビの司会やラジオの仕事も重ねながら、歌の基礎を身につけようとした時期でした。
初めから余裕をもって柔らかく歌えていた、という出発点ではありません。

1976年、思い描いた曲と、実際の歌が重なるまで

『黄昏めもりい』に収められた「どうぞこのまま」は、フォーク調の曲とは違う、ボサノバのリズムを持つ歌でした。
2025年の取材で本人が語ったのは、フランス映画に登場するような、もの憂い女性のイメージです。
音楽の方向と、歌で表したい人物像を、自分から選んだ曲でした。

もともと、フォークだけでは自分の好みを言い表せないと感じていた丸山は、ジャズの雰囲気を持つポップスにもひかれていました。
新しい音楽の流れに、自分がやりたかった方向を見つけたのです。
ボサノバのリズムや、古い映画音楽を思わせる弦の響きも、本人から編曲家へ提案していました。

ところが、曲を作れることと、その曲を歌いこなせることは別でした。
録音では苦戦し、本人の記憶では30テイクほどを重ねます。
その日はもう諦めようと思い、あと一度だけ歌ったとき、力が抜けた声にスタッフが反応しました。
その歌が採用されたのです。

訓練で歌えるようになったという実感の先に、曲に合う表情を探す難しさがありました。
この曲は、本人が思い描く大人の女性像と、無理なく出た声が重なった一つの到達点といえます。
この曲を歌うときの力加減と、録音で生まれた歌については、丸山圭子の歌い方で詳しく扱っています。

どうぞこのまま 正規配信音源(1976年『黄昏めもりい』)

ヒット後も、歌の見せ方を舞台袖で学んだ

レコードの成功も、人前での緊張を一気に解いてはくれませんでした。
演出がついても、それをこなすことに精いっぱいで、歌い終えるまで必死だったと振り返っています。
曲が世の中に受け入れられた喜びと、自分の表現を舞台で出し切れるかという不安は、並んで残っていたのです。

当時テレビ番組でよく顔を合わせた山口百恵について、丸山は、その手ぶりや体の角度を舞台袖で見て学んだと話しています。
自分は緊張から表情を変えずに歌うことしかできなかった一方、百恵はさりげない動きで歌を見せていたのです。
曲の中の人物を思い描くことに加えて、それを人前で表す方法も、身近な歌手から学ぼうとしていました。

後に百恵へ曲を提供するときは、彼女に感じた陰のある魅力をもとに「水鏡」を書きます。
相手がどんな人で、何を歌いたいかを知ってから曲を書くという姿勢を、丸山は大切にしていました。
自分の舞台に悩む一方で、別の歌手が持つ表情を見つめ、それに合う歌を考える経験も重ねていたのです。

出産後の復帰から、歌う自分と普段の自分が近づいた

1979年に第一子を出産し、休みを挟んで活動へ戻りました。
2005年12月のmomentの対談で、舞台を楽しいと感じられるようになった時期として挙げたのが、出産後の復帰です。
休む間に歌いたい気持ちがたまり、度胸もついたのではないかと、本人は振り返っています。

ここでいう復帰は、出産後に一年ほど休んだ後のことです。
1984年の「片想い」発表後には、子育てや音楽を取り巻く環境への思いから、再び表立った活動を長く休みます。
その間も曲作りは続け、1996年に本格的な活動再開へ進みました。
一度の休みで、歌との関係がすべて変わったわけではありません。

一方、母親となって恋の歌を歌うことには、当時の周囲からの戸惑いもありました。
歌では格好のよい女性を表したかった本人にとって、家庭での暮らしと曲の人物像は、最初から同じだったわけではありません。
アルバムの紹介に出かけても、音楽より子育てのことを聞かれる。
本人が話したこうした経験には、歌の中で表したいものと、周囲から求められる人物像の隔たりも表れています。

2005年には、普段の自分と歌っている自分が近づいて楽になったと話しています。
舞台で何も演じなくなったという意味ではなく、表現している自分と、日常の自分の距離が小さくなったという実感でした。
若い頃に憧れた女性像を歌うことも、自分の暮らしも、その人の中にあるものとして受け止められるようになったのです。

石黒ケイと対談する丸山圭子(右)
2005年12月掲載、石黒ケイとの対談時の丸山圭子(右)。
画像出典:写真掲載元

「詩語り」で、言葉の世界をじっくり届ける

活動を再開した後、丸山は自作曲の言葉へも、あらためて目を向けていました。
1998年には「詩語り」のワンマンライブを開いています。
公式の活動記録にも、2005年5月と8月の「詩語りライブ」が残っています。
一度だけの試みではなく、時間をかけて続けた歌の場でした。

2005年の取材で本人が話したのは、旋律がつくことで生きる言葉を、文字として読んでも一つの世界が見えるものにしたいという思いです。
そのため、自分の曲から語るように伝えられる歌を選び、客にじっくり言葉を聴いてもらうライブを考えていました。
舞台で緊張せずに歌い終えることから、どんな言葉の世界を持ち帰ってもらうかへ、関心が広がっています。

同年の対談で紹介した「雨上がり」も、一途な恋の気持ちを歌ってきた流れの中に置かれた曲でした。
新しい曲を書くことは、代表曲で扱った感情から離れることとは限らない。
長く歌ってきた思いを、別の人物や場面で伝え直すことでもあったのです。

丸山圭子『彩色兼美』(2025年発売)
丸山圭子『彩色兼美』(2025年発売)。
画像出典:写真掲載元

2025年の『彩色兼美』で語った、強がらずに歌う姿勢

2025年10月発売の『彩色兼美』では、「どうぞこのまま2025」も収録しました。
アルバムについての本人の文章には、年齢を重ねて肩の力が抜け、自分を素直に見られるようになったという思いが記されています。
同年の取材でも、強がることがなくなったと語りました。

どうぞこのまま2025 正規配信音源(2025年『彩色兼美』)

この作品には、息子のサトウレイと、教え子の穴水佑輔も参加しています。
丸山は、世代の違う三人がそれぞれ異なる発想を持ち寄ることを楽しんでいました。
2025年のライブ告知でも、穴水とデュオで歌うことや、客席と「どうぞこのまま」を一緒に歌う企画を掲げています。
自分の歌を見せる場に、共演者や聴き手が声を重ねる楽しさも取り込もうとしていたのです。

同年5月の公演では、穴水のピアノを伴奏に、新曲「月影」も歌っています。
代表曲を歌い直すだけでなく、新しい歌を若い演奏者と届ける時間も続いていました。

月影 ライブ抜粋(2025年5月11日・まほろ座MACHIDA)

強がることがなくなったという話は、普段の自分と歌う自分が近づいたという2005年の実感にも通じます。
代表曲の新録も含むこの作品を、本人は長く自分の背中を押してくれるアルバムになってほしいと願っています。

同じ2025年の取材では、生活や環境が変わると、そのときの自分が歌い方に出るとも話しました。
ライブで歌う「どうぞこのまま」を、その日だけの歌として紹介していたそうです。
初めて録音でつかんだ歌を、毎回同じ形で再現することだけが、長く歌い続ける意味ではありません。

丸山圭子の変遷には、歌えるようになるための練習も、舞台袖で学んだ見せ方もあります。
その先で近づいていったのは、歌で表す自分と、日々を生きている自分でした。
同じ代表曲にも、その日の暮らしや気持ちが表れるという本人の言葉に、長く歌うことの豊かさが感じられます。

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