森進一の歌声はどう変わった?「ゲテモノ」から60周年までの歌唱変遷

歌手生活55周年を迎えた森進一のアーティスト写真 シンガー

森進一さんの歌声は、別人のように作り替えられたのではありません。
変わったのは、世間がその声に与える意味と、声が背負う歌の広さです。

1966年には歌手らしくない変わった声と笑われたのに、やがて演歌の象徴になりました。
その後はフォーク、シティポップ、J-POPの作家を迎え、近年は自作曲で自分の人生を歌っています。

60年の流れは、ハスキー声が完成していく物語というより、一つの声が時代の違う歌を次々と自分の記憶へ変えていく物語です。

1966年、欠点とされた声で「女のためいき」を歌った

18歳で「女のためいき」を発表した時、森進一さんの声は歌謡界の常識から外れていました。
整った美声ではなく、息を含んだかすれ声で、しかも女性の心情を男性が歌います。

一発屋や変わり種と呼ばれ、歌手の声ではないという評価まで受けました。
本人も歌手になる前、慰安会の録音を聴いて自分の声だと分からなかったほどです。

それでもデビュー曲は35万枚を記録しました。
「命かれても」「盛り場ブルース」と続くうち、珍しさは一曲限りの仕掛けではなく、夜の孤独を語れる声として認められていきます。
1968年には紅白歌合戦へ初出場し、本人はようやく歌手として受け入れられたと感じました。

1969年から、「珍しい声」が歌謡界の中心へ移った

「港町ブルース」は120万枚の大ヒットとなり、日本レコード大賞の最優秀歌唱賞を受賞しました。
紅白歌合戦ではデビュー4年目にしてトリを務めています。

ここで起きたのは、声質の劇的な変更ではありません。
歌手らしくないと言われた声が、歌手の中心で鳴る声へ立場を変えたのです。

1971年の「おふくろさん」では、最優秀歌唱賞を再び受賞しました。
同じ頃、古賀政男さんの作品を歌う経験から、旋律を整えるだけでなく言葉を語ることを学びます。
妹を思って泣いた録音をそのまま認められた出来事は、感情を消して完成度を上げるのではなく、感情が歌を生かす瞬間もあると教えました。

1974年、「襟裳岬」が声を演歌の外へ連れ出した

最大の転機は、母を亡くした翌年に訪れました。
深い喪失の中にいた森進一さんは、岡本おさみさんと吉田拓郎さんによる「襟裳岬」の言葉に救われたと振り返っています。

当時、演歌の代表歌手へフォークの中心人物が曲を提供する組み合わせは異例でした。
作品は日本レコード大賞を受賞し、森進一さんは紅白歌合戦で初めて大トリを務めます。

この成功によって、あの声は酒場や港だけのものではなくなりました。
フォークの言葉、広い風景、個人の立ち直りまで背負える声になったのです。
ジャンルを越えることは、声を薄めることではなく、同じ声の置き場所を広げることだと証明しました。

1980年代、作曲家の個性とぶつかる歌手になった

1980年には自作曲「酒場舟」を発表し、歌を受け取るだけでなく作る側へ踏み出しました。
1982年の「冬のリヴィエラ」では、作詞の松本隆さん、作曲の大瀧詠一さんが作る都会的なポップスと出会います。

森進一さんの湿り気を帯びた声と、大瀧作品の乾いた風景は、どちらかが相手へ合わせて消えたわけではありません。
強い個性同士が並び立ったこと自体が、この曲の魅力として語り継がれています。

1984年の「北の螢」では、映画の物語を背負う劇的な歌へ進みました。
一方、当時の作家や評論家の間では、演歌歌手なのに大きなこぶしを多用せず、歌そのものは意外に演歌的ではない「不思議な歌手」とも評されています。

演歌らしさを濃くして変化したのではありません。
時代ごとに異なる作家とぶつかりながら、何を歌っても名前が分かる声を保ったのです。

1990年代から2000年代、持ち歌との関係も変化した

1990年代以降も、谷村新司さん、長渕剛さん、坂井泉水さん、小室哲哉さんらから作品を受け取りました。
本人は自分を流行歌手と捉え、部屋の窓を開けるように新しい音楽を入れたいと話しています。

2005年には過去の代表曲をまとめてセルフカバーしました。
昔の録音を保存するだけでなく、長く歌ってきた本人が持ち歌をもう一度引き受ける企画です。

その直後、「おふくろさん」へ原曲にない語りを加えたことから、作詞者との対立が起きました。
歌唱を自粛した後、2008年に遺族との和解が成立して再び歌えるようになります。

これは声の変化とは別の出来事ですが、歌い継ぐとは歌手だけの判断で形を変えることではない、と示した転機でした。
長年の持ち歌であっても、作品には書き手との関係と原形があります。

2010年から50周年、新しい作家を迎える姿勢は止まらなかった

2010年、45周年曲では小室哲哉さんの作品を歌いました。
2016年の50周年記念シングル「私の恋」は、昭和歌謡の親しみやすさを正面に置いた一曲です。

長い経歴の後で初期の様式へ戻ることは、時間を巻き戻すことではありません。
変化を重ねた歌手が、自分の原点を現在の作品として選び直すことです。

歌手生活50周年記念シングル私の恋のジャケットに写る森進一

2015年まで紅白歌合戦へ48回連続出場し、一つの番組とともに昭和・平成を歩みました。
2020年には自ら作詞・作曲した「昭和・平成・令和を生きる」を発表します。
歌の主人公を演じてきた人が、ついに自分の歩みそのものを題材にする段階へ進みました。

令和の再録音と60周年では、「借りた歌」から自分の言葉へ

2023年のベスト盤は、歴代ヒット18曲と、自作曲12曲の令和新録音を組み合わせました。
過去の森進一を一枚に固定せず、歌手として受け取った作品と、自分で作った作品を現在の地点で並べた構成です。

2025年には60周年記念曲「無償の愛」を発表しました。
作詞と作曲の両方を本人が担当し、カップリングも自作です。

歌手生活60周年記念曲無償の愛のジャケットに写る森進一

若い頃は女心を託され、1970年代には母や故郷の物語を託され、1980年代には異なる世代の作家から都会や情念を託されました。
60周年では、誰かが作った主人公を演じるだけでなく、自分の時間から歌を差し出しています。

変わったのは声の個性ではなく、その声が語れる人生の範囲

森進一さんの年代を追う時、声の高さやかすれ具合だけで「全盛期」と「衰え」を分けると、本当の変化を見落とします。
録音技術、編曲、楽曲のキー、歌う時期が違えば、音の印象も変わるからです。

資料から確かにたどれる変化は、声の役割です。
初期には女心を歌う異端の新人、1970年代には歌謡界の中心、1980年代にはジャンルを横断する大歌手、近年には自分の人生を書く歌い手になりました。

それでも残ったのは、一声で人物と景色を作る力です。
森進一さん自身は、長く歌うほど慣れが出るため、歌を崩さず毎回心を込めることを大切にしていると話しています。
変化を求めながら、持ち歌を雑に扱わない姿勢が60年をつないでいます。

現在の声の特徴を時間軸から切り離して知りたい場合は、森進一の歌い方・発声分析で、演歌らしくないと言われた理由まで掘り下げています。

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森進一の歌唱変遷は、時代が一つの声を理解していく歴史だった

1966年に笑われた声は、磨かれて普通の声になったのではありません。
違和感を残したままヒットし、日本の歌謡界がその声を中心の一つとして受け入れました。

「襟裳岬」と「冬のリヴィエラ」は、フォークやポップスへ寄せた例ではなく、異なる作家の世界を森進一さんの声が引き受けた例です。
近年の自作曲では、他人の物語を語ってきた声が、自分の人生を語る声へ移りました。

声の個性は大きく消えず、意味だけが広がっていく。
森進一さんの60年は、歌手の変化が発声技術の変化だけではないことを教えてくれます。

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