久保田利伸の歌声はどう変わった?日本語R&Bの開拓から40周年までの歌唱変遷

久保田利伸の歌唱変遷 シンガー

久保田利伸さんの歌声は、1986年のデビューから現在まで、同じR&Bの型を守ってきたように見えます。
しかし40年をたどると、実際には逆です。

最初は日本にまだ名前の定着していなかったR&Bを日本語で鳴らし、1990年代にはニューヨークで新人として歌い直しました。
その後もヒップホップ、ネオソウル、現代のビートを取り込みながら、歌声を時代の中へ置き直しています。

変わらなかったのは、昔の音ではありません。
ブラックミュージックの現在を聴き続け、自分の声で日本語へ翻訳する姿勢です。

1986年、R&Bという棚がない日本で「失意のダウンタウン」から始まった

久保田さんは歌手デビューの前年、田原俊彦さんや鈴木雅之さんらへの楽曲提供で作曲家として先に知られました。
海外曲のカバーなどを吹き込んだ通称「すごいぞテープ」が業界で評判になり、1986年に「失意のダウンタウン」で歌手デビューします。

当時はレコード店にR&Bの棚がなく、ラップをしても「早口言葉」と受け取られたと本人は振り返っています。
つまり初期の久保田利伸は、既にある日本のR&B像へ入った歌手ではありません。

「Missing」のようなバラードでは、旋律をまっすぐ届けながら、語尾の揺れや音の間にソウルの感覚を残しました。
専門用語を知らない聴き手にも届く歌を作り、あとからその歌い方にR&Bという名前が追いついてきた時代です。

1986年、デビュー期の久保田利伸

1988年、「Dance If You Want It」で声が伴奏の一部になった

3作目のアルバム『Such A Funky Thang!』がヒットし、「Dance If You Want It」へ進むと、歌唱の見せ方はさらに大胆になります。
長いメロディーを美しく歌うだけでなく、短い声、掛け声、細かなフェイクをリズムの中へ散らす方向です。

本人は幼い頃から、聞こえてくる歌や楽器を声で真似していたと語っています。
初期のファンク色が強い作品では、その蓄積が「歌手の声」と「バンドの音」を分けにくくしました。

高音の強さだけでなく、声を短く切る場所や、拍の少し後ろへ置く場所が個性になります。
ここで生まれた立体的なリズムは、現在の久保田さんにも残る核です。

1993年からニューヨークへ移り、日本の成功を持ち込まない新人になった

1988年以降、久保田さんは海外録音を増やし、1993年にはニューヨークへ拠点を移しました。
日本では既にヒット曲を持っていましたが、1995年の米国デビューでは、その実績を前提にしない新人として活動を始めます。

この時期の面白さは、海外へ行って急にR&Bを学んだことではありません。
日本で愛してきた音楽の本場へ入り、自分の個性が現地の制作現場で本当に通じるのかを試した点にあります。

米国向け作品では、英語で歌うことだけでなく、海外のプロデューサーや歌手とのやり取りそのものが声の置き方を変えました。
日本語の言葉を前へ出す歌唱から、複数の歌声がグルーヴを共有する歌唱へ比重が移ります。

1996年、「LA・LA・LA LOVE SONG」で海外経験が日本の大ヒットへ戻ってきた

ニューヨークへ渡った後、日本で約1年ぶりに発表した「LA・LA・LA LOVE SONG」は約200万枚の大ヒットになりました。
冒頭に置いた公式映像は、この転機を最も分かりやすく示す一曲です。

海外志向を強めた歌手が、日本で分かりにくい存在になるのではなく、むしろ最も広い層へ届きました。
英語的なリズムを日本語へ無理にかぶせず、親しみやすい旋律の中へ細かな跳ねとフェイクを入れたからです。

久保田さんの海外活動と日本のポップスは、ここで別々の道ではなくなります。
本場へ近づくほど日本語から遠ざかるという思い込みを、大ヒット曲そのもので崩しました。

2000年代、米国市場の型へ合わせる葛藤から「混ぜる個性」へ進んだ

2000年の米国向け2作目『Nothing But Your Love』では、レーベルからシングル向きの曲を求められながら制作が続きました。
久保田さんは、R&Bかポップのどちらか一方へ絞る息苦しさを経験した一方、両者が交わる場所こそ自分の音楽だと整理しています。

「Breaking Through」の時期には、ヒップホップの手触り、ソウルの生音、ポップの届きやすさを別々に見せるのではなく、一つの曲へ混ぜる方向が明確になりました。
声も、滑らかな主旋律だけでなく、乾いた短音や複数のコーラスを使い、音像全体を動かします。

2004年には米国向け3作目を発表し、Angie Stoneとの全米35都市ツアーや「SOUL TRAIN」出演も実現しました。
海外挑戦は一度きりの肩書ではなく、歌い方を更新し続ける生活になったのです。

2010年代、流行を追うのではなく新旧を同じ声に住まわせた

2010年の「LOVE RAIN ~恋の雨~」では、軽快なビートと高いサビを使いながら、1980年代の久保田さんをそのまま再現してはいません。
細かな音の動きは残しつつ、声を密集させすぎず、ポップスとして一度で覚えられる余白があります。

2011年の25周年では、本人がR&Bとソウルの流儀を変えずに進んできたと語りました。
ただし、ここでいう「変えない」は、同じサウンドを反復する意味ではありません。

2019年の『Beautiful People』では、現在のR&Bを意識した音と、古いソウルの感触を同居させました。
本人も、ブラックミュージックへの愛は変わらない一方、やさしくもファンキーにも歌いたいので、さまざまな色が必要だと説明しています。

2010年代、古いソウルと現在の音を往復する久保田利伸
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2024年、「the Beat of Life」で日本語をビートへ従わせるだけではなくなった

約3年8か月ぶりの新曲「the Beat of Life」では、人生そのものをビートに重ねました。
制作では、日本語の意味を大切にすると母音が思いどおりのライムへ収まらない問題があり、歌い方で両方を折り合わせたと本人が明かしています。

若い頃は、まだ知られていないR&Bの格好よさを日本語へ持ち込むことが大きな挑戦でした。
この時期には、ビートへ言葉を合わせるだけでなく、伝えたい日本語を守るために声の方でリズムを調整しています。

技術が増えた結果、歌が複雑になったのではありません。
言葉とグルーヴのどちらも捨てないため、見えない部分の選択が細かくなりました。

2025年から40周年へ、強さを誇る声より「やわらかさで立ち向かう声」へ

2025年の「諸行は無常」で、久保田さんは競争や急変の多い世界に、やわらかさとやさしさで向き合いたいと語りました。
ファンクやR&Bの強いビートを、勝ち抜くための音ではなく、聴き手をほぐすための音として使っています。

デビュー初期には、誰も名前を知らない音楽を力強く提示する必要がありました。
40周年を迎える現在は、長いキャリアを証明するより、声の温度をどこへ届けるかが中心です。

それでもリズムの細かさやフェイクが消えたわけではありません。
技巧を前へ押し出さず、言葉のやさしさを支える位置へ下げられるようになりました。

40年で変わったのはR&Bへの愛ではなく、その愛の使い方だった

久保田利伸さんの歌唱変遷は、若い頃の声量が落ち着き、表現力が増したという一直線の成長物語ではありません。
日本でR&Bを紹介する人、ニューヨークの新人、日本の大ヒット歌手、米国市場でジャンルの境界に悩む人という役割を何度も通りました。

時代が変わるたび、新しいビートや制作方法を取り込みながら、自分のルーツまで古くしなかったことが最大の進化です。
昔のソウルと今のR&Bを対立させず、同じ身体から出せる音として結び直してきました。

久保田利伸さんの歌い方・発声分析では、声で楽器を再現してきた経験と、フェイクやリズムの仕組みを詳しく整理しています。

初期の驚きは、日本語でもR&Bが成立することでした。
現在の驚きは、40年歌っても「久保田利伸らしいR&B」の答えを固定していないことです。

変わらず残ったのは音の形ではなく、聴いた音楽をそのまま保存せず、自分の一拍へ変えて返す姿勢でした。
久保田利伸の40年は、R&Bを守った歴史ではなく、R&Bと一緒に変わり続けた歴史です。

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