山川豊さんの歌い方を「こぶしが少ない演歌」とだけ説明すると、少し物足りなく聞こえます。
ところが、その少なさは弱点ではなく、山川さんの声を見つける出発点でした。
デビュー前の山川さんは、憧れていた五木ひろしさんを細かなこぶしまで真似していました。
しかしレッスンを担当した音楽家は、それを一つずつ外していきます。
演歌らしさを足すのではなく、借り物の演歌らしさを引いた。
その結果、言葉がすっきり前へ出る「都会派演歌」の声が残りました。
五木ひろしのこぶしを取ったら、山川豊の声が残った
こぶしとは、一つの音を細かく上下させる演歌特有の飾りです。
歌の情感を深めますが、多ければ多いほど上手いわけではありません。
デビュー前の山川さんは、五木ひろしさんの歌い方を手本にしていました。
細かな節回しまで身につけたつもりでも、指導では「そこはいらない」と削られていったそうです。
これは、演歌歌手を目指す若者には怖い指導です。
演歌らしく歌うために覚えたものを取られたら、何を残せばよいのか分からなくなるからです。
残ったのは、低めで落ち着いた声と、言葉を過剰に曲げずに運ぶ歌い方でした。
誰かの特徴を上手に再現する人ではなく、端正で少し洋風にも聞こえる歌手へ変わるきっかけになりました。
兄には潮の匂いがあり、弟には街の灯りがあった
兄の鳥羽一郎さんと山川豊さんは、同じ三重県鳥羽市で育っています。
それでも二人の歌から見える景色は、驚くほど違います。
北島三郎さんは、鳥羽さんには海の匂いがあり、山川さんの声には都会的でおしゃれな、少しブルースを思わせる響きがあると捉えました。
生まれた場所が歌手のイメージを自動的に決めるわけではない、面白い例です。
鳥羽一郎さんの歌い方は、荒い海の言葉を力強く届けます。
一方の山川さんは、声を大きく揺さぶらず、フレーズの線を整えることで、橋、駅、別れの夜といった都市の風景を似合わせました。
兄より声が弱いのでも、演歌が薄いのでもありません。
海へ向かって呼びかける声と、街の中で一人へ話しかける声の違いです。

感情を込めすぎないから、聞き手の感情が入る
山川さんは、歌へ感情を入れすぎないことを大切にしてきました。
悲しい歌だからと最初から最後まで悲痛に歌うと、聞き手は歌手の感情を見るだけになり、自分の記憶を重ねにくくなります。
山川さんの考え方は反対です。
軽く聞こえる余地を残し、何度聞いても疲れない歌を目指します。
「軽く」は、投げやりという意味ではありません。
声量、こぶし、泣き声のような揺れを毎回最大にせず、肝心な言葉だけが浮かぶようにすることです。
この引き算があるため、低い声の落ち着きは重苦しさになりません。
聞き手は歌手から感情を命令されず、自分の別れや家族を歌の中へ置けます。
「アメリカ橋」は、二時間しゃべった後の一回で決まった
1998年の「アメリカ橋」は、山川豊さんの引き算が最もよく伝わる代表曲です。
演歌の形式に収まり切らない、都会の歌謡曲やニューミュージックに近い雰囲気を持っています。
録音の日、すぐには歌いませんでした。
作曲家の平尾昌晃さんと二時間ほど会話を続け、山川さんの緊張がほどけたところで録音に入ります。
歌唱は一回で認められました。
細かな指示を積み上げるより、話し声に近い自然な状態へ戻すことが、この曲には必要だったのです。
ここで注目したいのは、「一発で歌える天才」という結果ではありません。
よい歌を引き出すために、歌う前の二時間が必要だったことです。
山川さんの端正さは、体を固めて正確に歌うことではなく、余計な構えをほどいた時に現れました。
「人生苦労坂」では、こぶしではなく言葉を割った
2023年の「人生苦労坂」は、北島三郎さんが山川さんへ書いた本格的な演歌です。
こぶしが得意ではない山川さんにとって、従来の持ち味より厳しい方向の曲でした。
それでも求められたのは、演歌らしい飾りを急に増やすことではありませんでした。
旋律へ素直に従い、言葉をはっきり届けることです。
特に題名へつながる一節では、本来なら流して歌えそうな言葉を途中で切り、後半を強く置きます。
音を細かく回さなくても、言葉の区切り方で人生の重さを作れるからです。
演歌を聞き慣れていない人は、まず声の揺れより文章の形に注目すると違いが分かります。
山川さんは、すべての音を濃く塗るのではなく、聞かせたい一語の前に小さな空間を作ります。
そこで初めて、平坦に見えた声が強い意味を持ちます。
逆に、表面の低さだけを真似して口の奥へ声を押し込むと、言葉は見えにくくなります。
参考にできるのは暗い音色そのものではなく、装飾を減らしても大切な語を埋もれさせない設計です。
ここには、若い頃にこぶしを取られた経験が生きています。
山川さんは、演歌の感情を装飾の量で表すのではなく、一語をいつ出し、どこで止めるかによって表します。

「兄貴」で故郷へ戻っても、都会派の声は崩れなかった
2024年の「兄貴」は、鳥羽一郎さんを思って作られた歌です。
故郷と兄弟という題材だけを見れば、鳥羽さんの世界へ近づいたようにも見えます。
しかし山川さんは、兄の荒々しさを借りませんでした。
自分の落ち着いた声のまま、長く競い合ってきた兄へ距離を縮めています。
二人は若い頃、同じ業界にいる兄弟として意識し合い、素直に近づきにくい時期がありました。
年齢を重ね、病気からの復帰を経た後だからこそ、声を大げさに震わせず歌う「兄貴」が本当の言葉になります。
題材が変わっても、自分の歌い方を塗り替えない。
山川さんの個性が、曲調ではなく歌手の姿勢として定着していることが分かります。
山川豊の演歌は、足さなかったものに輪郭がある
山川豊さんの声は、豪快なこぶしや激しい泣き節で押し切るタイプではありません。
若い頃に身につけた五木ひろしさんの節回しを外し、感情も詰め込みすぎず、言葉をまっすぐ残しました。
その引き算が「アメリカ橋」の都会的な孤独を生み、「人生苦労坂」では一語の区切りを際立たせ、「兄貴」では照れの残る兄弟愛を自然にしました。
似せる技術を失ったのではなく、似せなくても成立する声を得た。
山川豊さんの歌い方は、演歌の個性が何を足すかだけで決まらないことを教えてくれます。
兄より先にデビューした弟が、競争と病を経て初めて兄と歌うまでの歩みは、山川豊さんの歌声の変遷で時代順にたどります。






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