今井美樹は長く、自分の声を好きになれなかったという。
新しい音楽に挑むたびに、思い描いた曲の色が、自分の声で変わってしまう。
それでも2026年には、この声こそ自分を支えてきた相棒だと語った。
その間に彼女は、曲の選び方、作り手への伝え方、昔の歌との向き合い方を何度も考え直している。
制作を任せていた歌手が、自分の望みを伝え始める
1986年の『femme』、翌年の『elfin』は、フォーライフのプロデューサー、松田直らが中心になって制作した作品だった。
今井自身が、好きな音楽や、歌ってみたい声の調子を伝え始めたのは、1988年の三作目『Bewith』からだという。
歌を渡される立場から、録音で何をしたいかを相談する立場へ。
初期の変化には、制作に参加する意識の深まりがあった。
佐藤準らと作った音楽は、「瞳がほほえむから」や「PIECE OF MY WISH」といった代表曲にもつながる。
透明感のある声は、多くの聴き手に親しまれるようになった。
しかし、新しいジャンルを歌っても自分の色になってしまうことを、本人は長く悩んでいたと後年明かしている。
聴き手が覚えた個性と、歌い手が挑戦したい音楽との間には、必ずしも同じ手応えがなかった。
こうした曲が親しまれる一方で、今井は、同じ作り手との仕事を続けるだけでは満たせない思いも抱くようになる。
1991年の「PIECE OF MY WISH」は、制作陣を変えた後の1993年のツアーでも歌った。
1992年、新しい作り手に自分の声を預ける
本人が転機に挙げるのは、1991年の『Lluvia』を作った後だ。
それまでの仲間と続ければ、豊かな音楽を生み出せることは分かっていた。
それでも、いったん外へ出て新しいことを試したい気持ちが強くなったという。
1992年の『flow into space』には、久石譲をプロデューサーに迎えた。
布袋寅泰も初めて参加し、「The Days I Spent With You」などを提供している。
今井は、布袋の音楽の一部が自分の感覚とつながると思い、曲を依頼したと話す。
それまでのイメージからすれば意外な組み合わせでも、彼女には声を置いてみたい音楽だった。

画像:公式掲載元。
レーベルはこのアルバムを、サウンドを一新しながらも、今井らしい透明感のある声が残る作品と評している。
変わった編曲の中で、自分の声がどう生きるかを探る仕事だったと捉えられる。
先行シングル「Blue Moon Blue」も、新たなミックスでアルバムに収められた。
「PRIDE」で知った、歌い込む手前の声の意味
1996年の「PRIDE」では、一曲の中で言葉をどう終えるかを選び直すことになった。
布袋が書いたデモに深く感動した今井は、それを超えなければという思いで録音に臨んだという。
ところが歌詞カードには、言葉の区切りを示す斜線が引かれていた。
布袋が求めたのは、語尾を切って歌うことだった。
今井には初めての方法で、何度も歌い直した。
それでも本人には、まだ歌を自分のものにしていないと感じる段階でOKが出た。
歌手としての達成感と、制作者が残したい歌は、その場では一致しなかったのである。
後に布袋が説明したのは、自分の心へ誓いを立てるような距離感だった。
今井が頑張って歌い込もうとする前のテイクに、その曲にふさわしいものを感じていたという。
別の作り手と仕事をすることは、自分だけでは選ばなかった歌を、録音に残すことでもあった。
布袋との制作を通じて表現の幅が広がった後、今井は武部聡志ら、ほかの作り手とも仕事を重ねる。
子育てで以前のように制作に深く関われない時期を経て、2006年の『Milestone』では、武部を中心に久しぶりに制作へ没頭できたと話している。
曲を受け取る経験と、自分から音楽を作る経験の両方が、次の仕事に持ち込まれていった。
ロンドンで、憧れの歌の魅力を伝え直す
2012年のロンドン移住後、2013年には松任谷由実の曲を歌う『Dialogue』を制作した。
実は、レコード会社から提案されたこの企画を、一度は断っていたという。
あまりに大切な音楽なので簡単には触れられない、取り組むなら自分から始めたいという思いがあった。
新生活と50歳という節目が、挑戦へ踏み出すきっかけになった。
ロンドンで組んだサイモン・ヘイルらは、ユーミンの作品に親しんだ音楽家ではなかった。
そこで必要になったのは、原曲への思い入れを共有しているつもりで進めず、何が魅力なのかを言葉で伝えることだった。
上京後によく聴いていた「中央フリーウェイ」も、自分の原点に関わる曲として選んだ一曲である。
2015年の『Colour』では、憧れていた英国の音楽の作り手たちと、今度は新しい曲を作った。
ディレクターの「Dance」という提案を、今井は心が躍る音楽と受け止めたという。
「Anniversary」も、その年のツアーで歌われた新作の一曲だった。
ただ、外国語で細かなイメージを伝える作業には苦心した。
説明を重ねるほど表面だけが伝わるのではないかと感じ、途中からは相手に委ねるようにしたと話している。
ミックスの段階まで不安は残ったが、完成へ向かう中で、仲間が自分の思いを受け止めていたことに気づいた。
歌の背景にある感覚を伝え、相手の返答を受け取ることも、ロンドンでの制作で学んだ仕事だった。
2020年、昔の曲を今の暮らしに合う歌へ
2020年の『Classic Ivory』では、持ち歌をオーケストラと録音し直した。
選曲で考えたのは、今だから歌いたい言葉であることと、新しい編曲によって曲の良さが引き出せること。
昔の録音を基準にし続ける苦しさを感じながらも、その時の自分を基準に歌いたいと、本人は話している。
例えば「幸せになりたい」は、1990年に発表し、ライブでも長く歌ってきた曲だった。
歌手と聴き手がそれぞれの人生を歩んだ後も、時々近況を伝え合う友人のようにそばにある。
だからこそ今井は、同世代の人の今の暮らしに合う形で届けたいと考えた。
1990年の『retour』収録曲(2025年リマスター)。
挾間美帆に編曲を依頼したのは、原曲のジャズの要素がオーケストラでどう変わるのかを聴いてみたかったからだという。
今井自身も、新しくなった伴奏にふさわしい歌を歌おうとした。
思い出の曲を守ることが、昔の録音をそのまま再現することだけではなくなっていた。
2020年の『Classic Ivory』での再録。
2023年のツアーで、過去の自分との比較から離れる
それでも、歌い続ける気持ちは常に前向きだったわけではない。
体の変化やコロナ禍の閉塞感が重なり、何を歌えばいいか分からず、舞台に立つ自分さえ思い描けなくなった時期があった。
2023年のホールツアー『Our Songs!!』は、待っていてくれた人へ感謝を伝え、これで最後になってもよいという思いで始まったという。
その時に選んだのは、80〜90年代の楽しかった気持ちを、今の声で歌うことだった。
以前から編曲を変えるなど工夫しても、当時の自分の歌と比べて苦しんでいた。
しかし客席は、それぞれの思い出に戻るように楽しんでくれたという。
今井はそこで力を得て、翌2024年もツアーを続け、新しい「私たちの歌」を作りたいと思うようになった。
『smile』に残した、声を探している自分
そこから生まれた2026年の『smile』にも、録音中の迷いが残されている。
本人の説明では、2025年、録音を始める前に声帯炎で声が出なくなり、回復を待ちながら歌うことに戻った。
マイクの前で、自分が欲しい声の質や温度を探す作業が続いたという。
「青空とオスカー・ピーターソン」を先に歌っていたころは、歌も自分自身もまだ安定していないと感じていた。
思い描く声の温度になるまで、何度も試したという。
完成した録音の背景には、今の自分の声で、この曲をどう成立させるかを探る時間がある。

画像:公式掲載元。
終曲「Life is a journey」は、ツアーでの今井を見ていた川江美奈子が、その旅の姿を曲にしたいと考えて書いたものだった。
今井は、迷いながら声を探した時期の自分も含めて、歩みの途中にいることを残せたと受け止めている。
本人が録音を肯定した理由は、歌の完成度だけでなく、今の自分の姿がそこにあることにもあった。
一曲目の「Because of you」には、会いに行って感謝を伝えたいという思いが込められた。
新しい歌を探す試行錯誤の先で、今井は、その声が自分を支えてきたことを認めるようになる。
昔の音色への思いも、今の声を探す難しさも、彼女の歌から消えたわけではない。
それでも、今の自分に歌える言葉を選び、聴き手の暮らしへ届けようとしている。
「PRIDE」で語尾を切り、歌い込む前のテイクを選んだ理由は、今井美樹の歌い方で詳しく掘り下げる。







コメント