adieuの歌を「優しい声」の一言で片づけると、大切な作業が見えなくなります。
彼女は提供された曲をただ静かに歌っているのではありません。
作家のデモをいったん自分に取り込み、何通りも録って聴き直し、言葉をどこまで自分の感情で満たすかを選んでいます。
「よるのあと」の余白とは、何もしないことではなく、歌い手が意味を決めすぎないための選択です。
歌の主人公、作家の言葉、聴き手との距離をどう調整するのか。
曲ごとの録音や解釈の手順から、adieuが声に託すものを見ていきます。
作品を通じて表現がどう広がったかは、adieuの歌唱変遷でたどっています。
曲の主人公になりきる前に、自分の言葉を探す
上白石萌歌は俳優でもあります。
役を演じるときは自分とは違う人物に近づく一方、adieuとして歌うことは、むしろ自分に近い場所だと語っています。
歌の主人公を想像する作業は演技と似ていても、その人と自分を完全に重ねる必要はありません。
歌詞の中に自分の感覚とつながる言葉を探す。
その距離の取り方が、歌を一つの人物像に閉じ込めないのです。
2026年の「Wanna me」では、アニメ作品の世界を手がかりにしながら、主人公を作品の登場人物と同一にしすぎず、自分の日常に近い感覚も織り込んだと話しています。
柴田聡子が書いた言葉が窮屈にならない軽やかなリズムも意識したそうです。
歌詞の意味を伝えることと、一語一語を説明するように歌うことは同じではありません。
「よるのあと」の作り手である塩入冬湖との対談でも、一つの歌詞がさまざまに受け取られることが話題になりました。
塩入が個人的な願いを込めた一節を、聴き手は自分の経験に引き寄せて聴くことができます。
歌い手まで一つの解釈を強く押し出せば、その広がりは狭まるかもしれません。
adieuの歌い方を考えるとき、声量より先に、言葉の意味をどこまで固定するかを見る理由がここにあります。
作家のデモをまねてから、自分の歌い方へ動かす
adieuは、自宅でデモを録る際、作家が歌った見本の特徴を一度まねてみると明かしています。
そのまま完成形にするためではありません。
いったん作家の発想を身体に入れ、複数の歌い方を録って聴き比べ、自分に合う位置を探すためです。
提供曲が多い歌手にとって、作家の個性を消すことと、作家の歌い方をそのままなぞることの間には広い選択肢があります。
「シンクロナイズ」では、塩入のデモの歌い方と自分の声の方向が対照的だと感じ、自宅でも何度も録って流れを考えたと述べています。
違いを欠点として埋めるのではなく、その曲を自分の声へ移すための手がかりにしたわけです。
聴く際は、作家の意図が伝わる言葉と、歌手が自分で選び取った間合いを、別々の働きとして考えると分かりやすくなります。

出典:音楽ナタリー
「愛って」で、一回の録音に正解を決めない
「愛って」では、作曲した古舘佑太郎と歌詞の受け止め方を話し、いくつもの角度から歌って録音したと本人が振り返っています。
歌う前の気持ちを声に写すだけではなく、歌ってみたことで新しい感情に気づく場合もあるというのです。
だから、最初のテイクが曲の正解になるとは限りません。
この方法は「感情を込める」という曖昧な助言より具体的です。
同じ一節を、誰に向けているのか、言葉を言い切るのか、まだ迷いを残すのかという異なる前提で録ってみる。
あとで聴き比べ、曲全体とつながるものを選ぶ。
これは本人の録音談を、自分で歌うときにも応用する考え方です。
「よるのあと」を歌い直すとき、何を削ったのか
2019年の「よるのあと」は長く歌われ、聴き手にもそれぞれの曲になりました。
2026年の再録「よるのあと -another night in chamber-」について、adieuは、新しい解釈では俯瞰して、まっさらな状態で音に乗り、削ぎ落とす感覚を意識したと語っています。
自分の中へ歌を取り込みすぎず、聴き手が想像できる余白を残したいとも話しました。
ここで削ろうとしているのは、言葉へ先回りして乗せてしまう自分の解釈です。
曲が誰かの思い出に結びついたと知ったあと、歌い手が再び歌う際に自分の気持ちだけで埋めない。
その判断が、同じ歌を新しい歌として成立させます。
2019年の公式映像と、2021年に披露した『THE FIRST TAKE』では、同じ曲が異なる編成と場所で歌われています。
下の映像は2021年の歌唱です。
長く歌ってきた曲を改めてどう受け止めるか、という2026年の本人の言葉と併せて考えると、曲への向き合い方にも目を向けられます。
「植物園」では、自分の記憶に近づきすぎることもある
余白を残すという姿勢は、どの曲にも感情を入れないという意味ではありません。
澤部渡が手がけた「植物園」では、本人が録音中に感極まり、声がかすれるほどだったと明かしています。
この曲を初めて聴いたときに思い浮かんだのは、13歳まで暮らした鹿児島の街でした。
歌詞を通じて、子どもの頃の自分と、大人になるために変わってきた自分を見つめたのです。
この録音談は、かすれた声を意図的に作る技法の説明ではありません。
他人が書いた言葉でも、自分の経験へ深く触れることがあり、その反応が実際の声に出たという話です。
自分に近すぎる曲では感情があふれ、長く聴き手と共有してきた曲では、少し距離を取って歌いたくなる。
「植物園」と「よるのあと」を並べると、adieuがいつも同じ静けさを守っているわけではないことが分かります。
同じ『adieu 5』の「ブルーアワー」では、悲しさと晴れやかさのように、割り切れない感情が混ざる状態を大切にしたと話しています。
曲が進むにつれて空が明るくなるような感覚も、歌う際の手がかりでした。
一行を「悲しい声」「嬉しい声」のどちらかへ決めてしまう前に、その二つが同居することを許す。
声の余白を考えるには、こうした感情の選び方も欠かせません。
「元気?」では意味より先に、声を音として置く
柴田聡子が書いた「元気?」を歌う際、adieuは、歌詞の意味を解き切るよりも、まず声を音として出し、そこから生まれる気持ちを大切にしたと説明しています。
これは言葉を雑に扱うということではありません。
言葉の意味を一つに確定してから歌うと、まだ名前のない感情を置く場所がなくなる。
声にしてみて初めて、その言葉と自分との距離が見える場合があります。

出典:音楽ナタリー
adieuの歌い方は、静かさや透明感という形容だけでは説明しきれません。
作家のデモを取り込み、録音で試し、歌の主人公と自分の間に適切な距離を探す。
そして最後に、聴き手が自分の物語を重ねられる場所を残す。
「よるのあと」の余白は、声を引くという単純な操作ではなく、誰の解釈を曲の中に残すかという歌い手の判断から生まれています。

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