さユりの歌声を「切ない声」とだけ呼ぶと、大事な部分が抜け落ちます。
本人は、もともと自分の声の特徴を強く意識していたわけではありません。
人の書いた曲を歌って初めて、声の出し方や表現を考えるようになったと話しています。
同じ声でも、自分で書いた歌、提供された歌、路上の弾き語り、編曲のある作品では、聴き手との距離の取り方が違いました。
ここでは年代を順に追うのではなく、さユりが言葉を誰に、どの距離で渡そうとしたかを、本人の発言と曲ごとに考えます。
作品を通じて何が変わったかはさユりの歌唱変遷に譲り、声を使うときの判断へ焦点を絞ります。
揺れる声を、直すべき欠点として扱わない
公式サイトのライナーノーツを書いた取材者は、さユりの声に自然な細かい揺れを感じたと記しています。
音の揺れは、気持ちを言葉にしようとする人の迷いや切実さとも重なります。
彼女の歌を「音をまっすぐ当てるか」で採点するだけでは、その表情を取りこぼしてしまいます。
「ミカヅキ」は、欠けた自分のままで進む歌です。
言葉の意味と、その言葉を言い切ろうとする声が離れていません。
欠けていることを消してから歌うのではないから、歌の中の小さな希望も、急に与えられた答えにならない。
2020年の『THE FIRST TAKE』では、デビュー曲をギター一本で歌い直しました。
2015年の曲をそのまま過去の記念品にせず、現在の声で再び向き合った場面です。
この歌では、歌詞が示す未完成さを声が置き去りにしないことが大切です。
不安と前へ進もうとする意志が同じ人の中にあるから、弱さを歌う言葉も、最後に残る希望もつながって聞こえるのです。

撮影:北村勇祐。
出典:rockin'on.com
提供された物語では、声が登場人物を引き受ける
「フラレガイガール」は野田洋次郎による提供曲です。
さユりは録音前に歌詞の終わり方について希望を伝えましたが、歌い回しを細かく指定されて形だけを真似たわけではありません。
本人の説明では、歌詞とメロディが持つ濃い物語に導かれるように歌った感覚だったそうです。
その違いを、さユりは歌詞の中の「あなた」との距離で説明しています。
自作曲では、相手や二人の関係を少し離れた場所から見ている感覚があった。
ところが「フラレガイガール」では、相手と面と向かっているように感じたそうです。
同じ二人称でも、遠くから思い返すのか、目の前の人へ呼びかけるのかで、歌う側の立ち位置が変わります。
さユりにとっては、その近さで歌ってよいのだと知る経験でもありました。
録音に入る前には、すでにライブでこの曲を歌っていました。
野田からは、そのまま歌ってよいと言われたと振り返っています。
完成した歌い方を外から教え込まれたというより、自分で歌ってきた感触を持ち込み、その歌を受け止めてもらった録音だったのです。
この説明は、さユりの歌い方を考えるうえで重要です。
曲ごとに無関係な声色を作って別人になるのでなく、言葉の人物がどこからどこへ進むかを受け取り、そこに自分の声を置く。
自作曲では意識しなかった声の使い道を、提供曲が見せてくれたのです。
梶浦由記が書いた「それは小さな光のような」では、誰かを守るとまっすぐ言うことに、さユりは強い意志が必要だと感じました。
単にきれいな旋律をなぞるだけでは言葉に負けてしまう。
そう考えて何度も歌った、と本人は当時の取材で説明しています。
二つの提供曲を経験した後、「この声だから歌える言葉やメロディがあるかもしれない」と考え始めました。
声に特徴があるという周囲の評価を、何もしなくてよい長所として受け取るのではなく、曲との組み合わせを探す方向へ進めたのです。
弾き語りの近さと、編曲が作る余白を使い分ける
路上で歌うことについて、さユりは、客と自分の境界をなくしたいと話しています。
ギターと声だけの弾き語りでは、言葉がまっすぐ届く感覚がある。
一方、編曲や映像が加わると、曲に余白が生まれ、聴く人が入り込みやすくなるとも説明しました。
伴奏が少ないほうがいつも優れている、という主張ではありません。
例えば「平行線」の中心には、交わらない人間同士が、それでも近づこうとする気持ちがあります。
さユりは、曲を作るとき、自分が思う意味と聴く人の解釈が一つとは限らないことを知っていました。
歌を全部説明して閉じるのでなく、声をまっすぐ届ける場と、映像やアレンジに解釈の余地を渡す場を行き来したのです。
2020年の弾き語りアルバム『め』では、それまでに発表した曲を声とギターで新しく録り直しています。
「レイメイ」はMY FIRST STORYとの共演曲ですが、この盤では一人で歌いました。
同じ曲でも、相手の声があるときと一人で担うときでは、言葉の受け渡しの条件が変わります。
その差を本人の歌唱力の上下として片づけず、曲と声の関係を考えると、このアルバムの意味が見えてきます。

中央でギターを弾くさユり。
撮影:北村勇祐。
出典:rockin'on.com
言葉と旋律が重なる場所へ、歌を進める
「月と花束」でさユりが大切にしていたのは、曲の途中で自分に問いかけるDメロでした。
公式サイトのインタビューでは、その部分に言葉とメロディがぴったりはまり、そこへたどり着くために、それまでのメロディがあると説明しています。
歌の要所は、声を最も大きくする場所と同じとは限りません。
この曲では、走ってきた言葉が問いの形を取り、本人の思いが旋律と重なる場所に重心があります。
「ミカヅキ」が自分の弱さを認めながら進もうとする歌なら、「月と花束」には、これから誰かと関わって傷つくことも引き受ける覚悟がある。
本人は、二つの曲にある決意の違いも語っています。
そうした意味の違いを踏まえると、切実な声をどちらにも当てはめるだけでなく、何を受け入れようとしている声なのかを聴き分けられます。
強い言葉を、強く押すだけで終わらせない
「航海の唄」でさユりは、信じることを歌っています。
ただ本人が描きたかったのは、力で勝ち取るような強さではなく、揺れたまま心に残る静かな信頼でした。
曲の転調も、目立つ技巧を見せるために決めたのではなく、その言葉に最も気持ちを乗せられる高さがそこにあったと語っています。
つまり、高い音を出せるかどうかだけを聴いても、この歌の狙いはつかめません。
言葉の力と、声に乗る気持ちがどこで合うかを探した選択です。
作品の主人公に何を感じ、自分の言葉としてどこを信じたかが、旋律の高さを選ぶところまでつながっています。
「花の塔」でも、明るい出会いの喜びだけに寄せませんでした。
本人は、出会いの光と影、喜びと切なさを一緒に描いたと説明しています。
歌う側が一色の感情に決めないから、アニメを見た人の余韻にも、それぞれの経験にも接続できます。
さユりの歌い方を一つにまとめるなら、「揺れを消して完成形の声にする」ことではなく、揺れる自分を出発点に、曲の人物や聴き手との距離を選ぶことです。
弾き語りでは近くへ、提供曲ではその物語の中へ、アニメの歌では作品と聴き手のあいだへ。
同じ声が置かれる場所を変えるから、声の特徴が一つの型で終わらなかったのです。

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