三波春夫の歌唱変遷|歌手になるための学び直しから、長編歌謡浪曲へ

歌手デビュー当時の三波春夫 シンガー
歌手デビュー当時の三波春夫

三波春夫は、浪曲よりも短い時間で人の心に届く「歌」の力を知り、歌謡曲の世界へ踏み出しました。
ところが歌手として成功すると、今度は歌の中で長い物語を描き始めます。
歌と語り、セリフを組み合わせる長編歌謡浪曲です。

短い歌を選んだ人が、なぜ長い物語を歌おうとしたのか。
その間には、声の学び直しだけでなく、浪曲を新しい音楽として作り直す工夫がありました。

「元禄名槍譜 俵星玄蕃」(1976年10月・荒川区民会館)

短い歌にも、人を動かす力がある

三波は16歳で浪曲の初舞台を踏み、戦後も浪曲家として活動していました。
転向を考える前から、短い歌が持つ力を感じる経験があります。
戦後のシベリア抑留中、浪曲や芝居を仲間に披露する一方、日本の流行歌を歌って喜ばれたことです。
公式の年譜には、長い浪曲よりも短い時間で心をつかむ歌を、この時期に強く意識したと記されています。

帰国後の舞台で余興の民謡を歌うと、もっと歌を聴かせてほしいという声が客席から上がり、周囲も拍手で応じたといいます。
自分が得意としてきた芸の外にも、聴く人が待っているものがある。
客席の反応は、歌手へ進む決心を後押ししました。

浪曲家時代の三波春夫
浪曲家時代の三波春夫。
画像出典:写真掲載元

浪曲の経験があっても、声を学び直す

歌手への転向にあたって、三波は作曲家の佐々木章に師事します。
十代の若者に交じって毎日通い、歌謡曲のための発声を学びました。
公式年譜が記す修業期間は四か月。
熱心さのあまり、教える佐々木が休む暇もないほどだったと伝えられています。

浪曲で人を惹きつけることと、歌謡曲の旋律を自分の声で届けること。
長く舞台に立った経験者だからこそ、その間に学び直すべきものを見ていたのでしょう。
1957年6月、33歳の三波は「チャンチキおけさ」「船方さんよ」で歌謡界にデビューしました。
民謡や浪曲を土台にしながら、歌手としての声を育て直しての出発でした。

「チャンチキおけさ」(1957年発表曲/公式音源)

声を学び直す一方、浪曲で得たものを生かす選択もします。
当初はスーツで歌っていましたが、その年の12月、浅草国際劇場では和服姿で舞台へ上がりました。
娘の三波美夕紀によれば、自分の芸を際立たせるには、浪曲時代に磨いた和服の所作が必要だと考えたからです。
新しい歌の世界で、自分ならではの表現を探す。
歌う姿にも、同じ試行錯誤がありました。

自分の声から、オーケストラで歌う物語を作る

歌謡曲で成功しても、三分ほどの歌では、浪曲のような長い物語を語りきれません。
三波は二つの世界を結びつけていきます。

自分で台本を書き、節をつけ、妻の三味線で語ったものを録音する。
その録音を作曲家へ渡し、旋律を楽譜にしてもらい、オーケストラ用に編曲してもらう。
三波の声で始まった物語が、演奏家たちと共有できる音楽になるのです。

客席に合わせて節や長さが変わる浪曲を譜面にも残し、後の歌い手へ渡す。
長編歌謡浪曲には、歌い継げる形を作る試みも含まれていました。

1964年に発表した「元禄名槍譜 俵星玄蕃」では、三波自身が北村桃児の筆名で作詞と構成を担当しています。
一人の歌手が旋律を歌い、出来事を説明し、登場人物の言葉を演じる。
歌手への転向で身につけた声と、浪曲で育った語りの表現を、一つの作品の中で働かせるようになったのです。

「元禄名槍譜 俵星玄蕃」(1964年発表曲/公式音源)

歌う人物を演じながら、舞台の音楽も広げる

娘の美夕紀は、長編歌謡浪曲では何人もの人物になりきるため、常に集中しなければならないと話しています。
三波が客を神様と見るという言葉も、祈るときのように雑念を払い、歌に向き合う心持ちを表したものでした。
歌の中で、語り手から人物へと役割を渡し続ける。
長い物語を歌うには、声を出し続ける力とともに、その場面を演じ続ける意識が必要でした。

1976年10月、荒川区民会館で開いた「歌謡生活20周年記念リサイタル」では、宮川泰がオーケストラの音を厚く作ったと、美夕紀は振り返っています。
演奏家が並び、三波が動ける場所はごくわずかになったという舞台でした。
浪曲を語る一人の声が、演奏家たちと作る大きな音楽の中でも物語を担う。

自宅書斎で机に向かい書き物をする三波春夫
自宅書斎の三波春夫(撮影時期不明)。
画像出典:ユーキャン

晩年の『平家物語』でも、聴く人の時間を考える

長編歌謡浪曲を作る挑戦は、晩年まで続きます。
1994年7月に発表した『平家物語』では、歌と「説教ぶし」を組み合わせ、三波が語り部を演じながら大きな物語を進めています。
「須磨の浦悲曲」もその一曲で、敦盛と熊谷の出会いを題材に、三波が作詞・作曲を手掛けました。

「須磨の浦悲曲」(『平家物語』収録、1994年発表作品/2007年再発盤の公式配信音源)

構想に十年、執筆に六年をかけた作品ですが、最初の原稿のまま発表したわけではありません。
公式サイトに寄せた美夕紀の文章によれば、当初は四時間半を超える分量がありました。
聴く側には長すぎるのでは、というスタッフの声を受け、三波は二時間二十五分へ磨き直しています。
長く語りたい思いがあるからこそ、どう聴いてもらうかを考え、構成を練り直したのです。

制作には、1990年代初めのハウスミュージックやポップスの仕事で出会った、若いミュージシャンたちも加わりました。
それまでの活動で得た新しい仲間と、長年育てた語りの芸を結びつける。
美夕紀は、そうした時期の活動が『平家物語』に結実したと記しています。

同年8月の歌舞伎座リサイタルでは、この作品をダイジェストでも披露しました。
美夕紀が伝える舞台には、太鼓、三味線、鼓、琴の奏者が並んでいます。
曲を作り、歌い、語る三波の芸が、舞台全体の音楽として広がっていました。

短い歌の力を知って転向し、その歌の中へ長い物語を取り戻す。
三波春夫は、浪曲で身につけたものを守りながら、聴き手に届く形を作り続けた歌手でした。
高音や語りの使い分け、人物を演じる声の特徴は、三波春夫の歌い方で掘り下げています。

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