五木ひろしさんは、約60年の歌手人生で二度声を変え、三つの声を通ってきたと振り返っています。
最初は、松山まさるとして歌った自然できれいな声。
次は、売れるために求められた、自分ではないようなつぶした声でした。
そして三つ目が、クラブ歌手の仕事から見つけた、ささやくようで言葉は明瞭な声です。
この声も一度で完成せず、1975年の「千曲川」で地声とリズムを見直し、1980年代には裏声を意識的に磨きました。
五木ひろしさんの歌唱変遷は、若い美声が年齢とともに変わったという単純な話ではありません。
他人に作られた声を通り過ぎ、自分で選んだ声を何十年も更新してきた歴史です。
- 1965年の松山まさるは、飾らない「一つ目の声」で始まった
- 1967年の一条英一では、売れるための「二つ目の声」を与えられた
- 1969年からクラブで育った声が、三谷謙を五木ひろしへ運んだ
- 1971年、「よこはま・たそがれ」は未完成のまま代表曲になった
- 1975年の「千曲川」で、三つ目の声を自分の意思で作り直した
- 1983年から1984年、裏声が偶然の癖から意識的な技術へ変わった
- 独立後は、演歌の外へ広がることで五木節の輪郭が濃くなった
- 2010年代、若い歌を学ぶことが過去の名唱を保存する方法になった
- 2023年から60周年、作曲する歌手として現在の時間を刻む
- 同じキーを守ることと、同じ歌を繰り返すことは違う
- 五木ひろしの歌唱変遷は、自分の声を二度選び直した歴史だった
- こちらの記事もおすすめ
1965年の松山まさるは、飾らない「一つ目の声」で始まった
1964年、コロムビア全国歌謡コンクールで優勝し、翌1965年に松山まさるとしてデビューしました。
当時の本人は、ありのままのきれいな発声で歌っていたと説明しています。
しかし、歌唱力への自信と、レコードが売れることは別でした。
デビューしてもヒットには恵まれず、歌手名と所属先を変えながら機会を探す時代が続きます。
後年の「五木節」を先に知っていると、最初から同じ歌い方をしていたように考えがちです。
本人の記憶ではそうではありません。
最初にあったのは、癖を強く付けた声ではなく、自然な美声でした。
この時代の歌唱を確認できる権利関係の明確な公式動画は、現在ほとんど公開されていません。
後年の声から初期を推測せず、本人が語った「飾らない声」を出発点として扱うのが妥当です。
1967年の一条英一では、売れるための「二つ目の声」を与えられた
レコード会社を移り、一条英一を名乗った時期には、声をつぶして歌うよう指示されました。
個性を強く見せるための変更でしたが、本人には自分本来の声と思えませんでした。
誰かをまねているような感覚があり、納得できない。
それでも結果はヒットへ結びつきませんでした。
声を目立たせれば歌手の個性になる、という発想がうまくいかなかった時代です。
後の五木ひろしさんも、地声、裏声、ビブラートという分かりやすい特徴を持っています。
ただし、それらは外から足された記号ではありません。
自分の仕事と経験の中で必要になったため、長く使える表現になりました。
二つ目の声の失敗は、完成形とは正反対に見えます。
しかし、自分ではない声では歌えないと知ったことが、三つ目の声を探す準備になりました。
1969年からクラブで育った声が、三谷謙を五木ひろしへ運んだ
三谷謙を名乗る頃、生活のために銀座や新宿のクラブで歌いました。
客が会話をする店では、歌手が大声で主役になってはいけません。
声を張らず、ささやくように歌う。
一方で、何を歌っているか分からないBGMにもならないよう、言葉は明瞭にする。
この難しい両立を工夫するうち、自分にしかない歌い方が育ったと本人は語っています。
クラブで身につけたのは、単なる小声ではありません。
ギターの音に声を合わせ、言葉を「語る」方法でした。
後の大舞台でも、声量だけで押さず、一語を近くへ届ける基礎になります。
1970年には「全日本歌謡選手権」へ挑戦し、10週を勝ち抜いてグランドチャンピオンになりました。
何度も歌手名を変えた人が、ようやく自分らしい声を得た時、五木ひろしという名前への道が開いたのです。
1971年、「よこはま・たそがれ」は未完成のまま代表曲になった
五木ひろしとしての再出発曲「よこはま・たそがれ」は、一躍ミリオンセラーとなりました。
ところが本人は、録音された歌唱を未熟だと感じ、長く満足していませんでした。
収録はわずか3テイクで終わりました。
本人はリハーサルのつもりで歌い、これから自分の味を出そうとしたところでOKが出たといいます。
この出来事は、五木ひろしさんの変遷を考えるうえで重要です。
現在まで残る代表曲が、完成した型を披露した録音ではなかったからです。
余計な味を付けず、無理な高さに追い込まなかった歌は、のちに同じキーで長く歌える作品になりました。
聴き手が「これぞ五木節」と感じるものと、本人がまだ先にあると考えたものには、最初から距離があったのです。
1975年の「千曲川」で、三つ目の声を自分の意思で作り直した
「よこはま・たそがれ」の成功後も、声探しは終わりませんでした。
1975年の「千曲川」で、今度は本人の明確な意思により、地声を生かしてリズムを強く意識する歌唱へ切り替えます。
転機になった一つが、ラスベガス公演でした。
抑揚を大切にする日本の歌と、拍の輪郭が明確なアメリカの歌を行き来し、リズムの感覚を自分の歌へ持ち帰りました。
センターマイクからハンドマイクへ、舞台の環境が変わったことも大きな要素です。
マイクとの距離を自分で動かし、地声の明瞭さ、ビブラート、消えていく余韻まで歌手自身が調整するようになりました。
この時期を、単に声が太くなった時代と捉えると変化を小さく見積もってしまいます。
声を出す身体だけでなく、リズムとマイクを含む舞台全体を、自分の楽器として扱うようになった時代です。

1983年から1984年、裏声が偶然の癖から意識的な技術へ変わった
「細雪」と「長良川艶歌」の頃、五木ひろしさんは裏声をより意識して使うようになりました。
女性主人公のやさしさや哀愁を表すため、地声だけで押し切らない歌唱を選びます。
本人の中には、幼い頃から聴き込んだ美空ひばりさんの歌がありました。
地声と裏声を行き来しながら、言葉をやわらかく、切なく届ける歌唱です。
都はるみさんから裏声の魅力を指摘された時、本人には、それを特別な技術として使っている自覚がまだ薄かったといいます。
そこで初めて、自分の持ち味として意識的に磨くようになりました。
地声で進めるところまで進み、最後に裏声へ抜く。
この動きが、三つ目の声を現在につながる形へ近づけました。
外から声をつぶされた1960年代とは反対に、自分の中にすでにあったものを発見し、選び直した変化です。
独立後は、演歌の外へ広がることで五木節の輪郭が濃くなった
30歳前後で独立した背景には、より広い音楽を歌いたいという思いがありました。
五木ひろしさん自身は、歌謡曲を大きな器として捉え、演歌はその中の一部だと考えています。
その後は艶歌だけでなく、ポップス、フォーク、海外曲、若い世代の作品まで取り込みました。
カバーでもジャンルごとに別人の声へ変えるのではなく、自分の語り方で曲へ入ります。
一見すると、幅広い選曲は個性を薄めそうです。
実際には逆でした。
違う作風の中でも、小さく語る声、地声から裏声へ抜く動き、マイクで作る遠近感が残るため、何を歌っても五木ひろしだと分かります。
長年の聴き手が、1970年代後半以降の歌に「押すだけでなく引く」魅力を感じてきたのも、この時期の広がりと重なります。
五木節は演歌の型を濃くしたものではなく、型の外へ出ても失われない部分だったのです。
2010年代、若い歌を学ぶことが過去の名唱を保存する方法になった
五木ひろしさんは、長い経歴を理由に現在の音楽から離れませんでした。
山下達郎さん、コブクロ、平原綾香さんの曲を歌い、EXILEやAKB48を含む新しい流行も知ろうとしてきました。
本人にとって、最近の歌は言葉と旋律の関係が慣れ親しんだ歌謡曲と異なり、難しく感じることもありました。
それでも、流行する作品には人へ届く理由があると考え、学ぶ対象にしています。
同時に、公演やテレビ収録で歌った自分の音源を保存し続けました。
2023年の時点で、その数は8000曲分以上に達していたとされています。
比べる相手は他の歌手ではなく、30代から40代の自分です。
声が最も出ていた時期を認めたうえで、現在の自分がどこまで近づけるかを毎回確かめる。
過去を神格化せず、現在を甘やかさない比較が、長い歌手人生を支えています。
2023年から60周年、作曲する歌手として現在の時間を刻む
2023年には通算175枚目のシングル「時は流れて…」を発表しました。
長い時間そのものを題材にしながら、作曲は五木ひろしさん自身が手がけています。
2024年には歌手生活60周年を迎え、「こしの都」など新しい作品を世に送りました。
過去のヒット曲を歌い続けるだけでなく、現在の声のための新曲を持ち続けています。
2025年の特別公演では、長く第一線にいる歌手同士で舞台を作りました。
劇場公演とコンサートを重ねてきた五木ひろしさんにとって、歌は録音された声だけでなく、その日の観客へ渡すものです。

2026年の「千年の懸想文」でも自ら作曲を担当しています。
冒頭に置いた公式音源は、三つの声を通った後の現在地を確認できる作品です。
若い頃の声を複製するのではなく、現在の声で歌える新しい情景を作っています。
同じキーを守ることと、同じ歌を繰り返すことは違う
「よこはま・たそがれ」は、長い年月を経ても同じキーで歌われてきました。
これは、声がまったく変化していないという意味ではありません。
本人は身体的な声のピークを30代から40代と認めています。
録音環境、編曲、舞台、体調も時代によって異なるため、若い頃と現在の一曲を音の高さだけで優劣に分けることはできません。
変わったのは、声を使う判断の蓄積です。
若い頃には無意識だった裏声を意識して使い、マイクとの距離を操作し、新しい曲のリズムと言葉を学び続けました。
変わらず残ったのは、声を張り続けず、言葉を語り、最後の余韻まで自分で扱う姿勢です。
同じキーは過去への固執ではなく、その姿勢を毎年確認する物差しになっています。
現在の歌い方を時間軸から切り離して知りたい場合は、五木ひろしの歌い方・発声分析で、クラブのBGMから五木節が育った過程を掘り下げています。
五木ひろしの歌唱変遷は、自分の声を二度選び直した歴史だった
松山まさるの自然な声は、ヒットを得られませんでした。
一条英一のつぶした声は、自分のものと思えませんでした。
それでもクラブで歌うことをやめず、三谷謙の時代に、声を張らずに言葉を届ける三つ目の声が生まれます。
五木ひろしとして成功した後も、その声は止まりませんでした。
「千曲川」で地声とリズムを選び直し、「細雪」「長良川艶歌」の時代には裏声を意識的な表現へ変えました。
60周年を越えた現在も、過去の自分の録音を聴き、新曲を作り、同じ歌を現在の舞台へ戻しています。
変化の中心にあるのは、若い声を守り切ることではありません。
他人に決められた声を脱ぎ、自分で選んだ声を何度でも更新することです。






コメント