藤圭子は、喉の手術で歌いやすくなっても、自分の声から大切な個性が失われたと感じていました。
一方、その後の歌唱にも強く惹かれ、高く評価する人がいます。
周囲には微妙に思える声の違いが、本人には歌う意味に関わるほど大きかった。
1970年のリサイタルから1979年の引退公演までをたどると、上達だけでは説明できない歌手の思いが見えてきます。
「夢は夜ひらくPart1」―1970年の映画『ずべ公番長 夢は夜ひらく』用録音(権利者提供音源)
曲のヒットとともに、「藤圭子の声」を知ってもらう
「新宿の女」でデビューしたのは、1969年9月25日。
ソニーミュージックが初期の藤圭子の特徴として挙げるのは、ハスキーな声と、低音で力強く揺れるビブラートです。
切なさと力強さが共存する歌唱として評価されています。
担当ディレクターの榎本襄は、デビュー曲を決める段階から、曲だけでなく藤圭子自身をスターにしたいと考えていました。
その時点で「女のブルース」や「圭子の夢は夜ひらく」も用意されていましたが、先に選んだのは、聴くほどに味が出ると感じた「新宿の女」でした。
強烈な一曲の印象だけが先行せず、歌い手そのものを知ってもらうための順番だったのです。
その後、「女のブルース」「圭子の夢は夜ひらく」も大きなヒットになります。
どんな曲で、どんな声を持つ歌手として聴き手に出会うかを、制作側が考えて送り出した作品でした。

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1970年のリサイタルは、ヒット曲の先を聴かせる場だった
翌1970年10月23日、渋谷公会堂でデビュー一周年のリサイタルが開かれます。
榎本は、この公演を、声が荒れておらず、発声の状態も非常によかった時期の歌唱として振り返っています。
『藤圭子劇場』の最初のディスクに残る「圭子の夢は夜ひらく」は、その時期の実況録音です。
この公演には、「リンゴの唄」「港が見える丘」「カスバの女」など、時代や表情の異なる歌も並びます。
話題の新人が自分のヒット曲を歌うだけでなく、それ以前から親しまれてきた歌を、藤圭子の声で届ける舞台でもありました。
翌1971年7月のリサイタルには、「朝日のあたる家」や「この胸のときめきを」も入っています。
早い時期から、聴き手が彼女の声を知る機会は、代表的な演歌の数曲だけに限られていなかったのです。
後年の本人が惜しんだ初期の声を考える際も、このように異なる曲を担っていたことが手がかりになります。
1974年、「京都ブルース」の録音後に変わった声
大きな転機は、1974年の喉の手術でした。
公式年表には同年5月の手術が記録され、『藤圭子劇場』を制作した尾形靖博は、「京都ブルース」のレコーディングの後だったと説明しています。
この曲のスタジオ録音も、同じボックスの「ディレクターズ・セレクション」に収録されています。
尾形が感じた変化は、声が透き通るようになり、独特の引っ掛かる感じが薄れたことでした。
ただし、普通に聴いても気づく人は少ないだろう、というほどの微妙な違いだったとも語っています。
誰もが一度で分かるほど別の声になった、という説明ではありません。
一方、本人にとっては、その引っ掛かりが切実な問題でした。
声が出なくなる不安から手術を受け、歌いやすくなったものの、聴き手を立ち止まらせる個性を失ったと感じたのです。
声を出せることと、その声を自分らしいと感じることは、必ずしも重なりません。
尾形が語るのは、聴き手として感じた質感の差です。
本人が惜しんでいたのは、その質感を含めて聴き手に届いていた、自分の歌の力でした。
二つの話を分けて読むと、微妙な違いという評価と、本人の大きな喪失感が両立していたことが分かります。
「面影平野」で悩んだ、言葉と自分の気持ちの距離
手術のあとも、藤は新曲を発表し、舞台に立ち続けています。
1976年のデビュー七周年リサイタルでは、「聞いて下さい私の人生」を軸に、「浜辺の歌」や「雪が降る」「マイ・ウェイ」なども歌いました。
代表曲を保ちながら、叙情歌や洋楽のカバーも含む、幅のある舞台を作っていたことが収録曲から分かります。
その後、1977年に発表したのが、阿木燿子作詞・宇崎竜童作曲の「面影平野」です。
1979年秋の沢木耕太郎との対話では、阿木の表現に感心しながらも、自分の気持ちが熱くなるようには受け止められなかったと語っています。
優れた歌詞だと分かることと、自信を持って人の心へ届けられることには、距離がありました。
この対話を収めた『流星ひとつ』で、藤は以前の自分の歌を基準にしています。
他の歌手との比較より、自分が知っている昔の藤圭子と比べてしまう。
「面影平野」への戸惑いも、歌詞の好みだけで片づけず、変わった自分の声への思いと結びつけて話していました。
歌をこなすことができても、本人が求める歌になったとは限らない。
この時期の苦しさは、歌唱を上手い・下手だけで捉えると見えにくくなります。

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1979年の引退公演にも、評価される歌は残っている
声への思いだけで引退の理由をすべて説明することはできません。
榎本は、本人が事務所の仕事の組み方にも不満を抱いていたと振り返っています。
声への違和感と、歌手としてどのように働くかという問題が、同じ時期にあったのです。
同年12月26日、新宿コマ劇場で引退記念リサイタルが行われました。
この公演の「圭子の夢は夜ひらく」も『藤圭子劇場』に収録され、1970年の実況録音と、同じ曲の別の時期の歌唱をたどれます。
1976年の公演にも同曲があるため、初期と引退時をいきなり二つに分けず、その間に歌っていた時期を挟んで聴くこともできます。
尾形は、ボックスのなかで特に聴いてほしい公演を尋ねられ、新宿コマ劇場での引退公演を挙げています。
声の引っ掛かりが薄れたと感じていた人が、それでも最後の舞台を勧めているのです。
本人が以前の声を取り戻せないと感じていたことと、その後の歌に価値がないことは同じではありません。
尾形は、1998年に別の歌手との共演で生歌を聴いた際にも、あらためてすごい歌手だと感じたと振り返っています。
1979年の引退を、歌声の魅力がすべて消えた結末にしてしまうと、こうした聴き手の実感を取りこぼします。
本人にとっての喪失と、周囲が受け取った歌の力を、どちらも残して捉える必要があります。
初期の声は、藤圭子自身にとって、後の歌を判断する基準になっていました。
歌いやすさが増しても埋められない違いが、本人にはあったのです。
その思いを知ったうえで時期の違う録音へ戻ると、声の質感だけでなく、歌う人が何を大切にしていたかにも耳を向けられます。
低音の揺れや曲のリズムがどのように個性になっていたかは、藤圭子の歌い方で扱っています。







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