1993年の「All For Love」では、ブライアン・アダムスはロッド・スチュワート、スティングと歌いました。
三人の声が交代し、重なることが曲の魅力です。
ところが2012年、ブライアンは同じ歌をロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで、自分の声を中心に歌っています。
三人で完成させた曲を一人で歌うなら、誰かのパートをただ省くだけでは足りません。
ブライアンはその間に、録音で歌を磨く方法と、少人数の舞台で曲を保つ方法の両方を学んでいました。
個性的なハスキーな声だけでは説明できない、歌の担い方の変化をたどります。
1984年――勢いのある歌を、舞台で続けられる曲にする
ブライアンはクラブで歌い、スタジオで歌う仕事を経て、『Reckless』へたどり着きました。
本人は初期の仕事を振り返り、クラブでは一晩歌うことを、録音ではマイクに向かう技術を学んだと話しています。
あの荒い声は、思いつくまま叫ぶだけで作られたわけではありません。
1984年の「Run to You」では、バンドの演奏を先に録り、歌を後から重ねました。
同じアルバムの「Summer of ’69」は、曲全体を録り直すほど試行錯誤しています。
どちらも力のあるロック曲ですが、完成までの手順は同じではありません。
「Run to You」で残したのは、ベース、ドラム、リズムギターが最初に一緒に演奏したテイクでした。
その勢いを使いながら、本人の歌とギターは後から仕上げる。
バンドの演奏を生かすことと、歌まで一度で録ることを、ブライアンは分けて考えていました。
完成した曲の豪快な印象の裏には、どこを残し、どこを詰めるかという選択があります。
ブライアンは当時、ライブで歌える曲を増やしたいと考えていました。
録音を作り込むことと、その曲を舞台で何度も歌えることは、初めから切り離せなかったのです。
1991年――プロデューサーと、歌の細部を詰める
『Waking Up the Neighbours』で組んだプロデューサーのマット・ラングは、ブライアンの歌にも深く関わりました。
ブライアンは後年、ラングとの制作によって、音程やリズムを合わせる先の、よりよい歌唱を探る段階へ進んだと語っています。
曲が上手く働かない箇所は、歌い方だけでなく曲自体も書き直しました。
最初から白紙で始めた制作ではありません。
ブライアンはジム・ヴァランスと一作分を用意していましたが、ラングと組むと、その断片を使って曲を組み直すことになりました。
すでに時間をかけた案にも固執せず、歌ってみて働かない部分を変える。
ラングから学んだのは、完成した伴奏へ声を上手く乗せる技術に加え、歌をよくするためなら作品そのものへ戻る姿勢でした。
「(Everything I Do) I Do It for You」では、映画『ロビン・フッド』のための旋律を、作曲家マイケル・ケイメン、ラング、ブライアンが歌にしていきます。
1984年のロック曲で発揮した勢いをそのまま押し通すのではなく、長い旋律と言葉を支える歌が必要でした。
歌手としての技術を深めた先に、1993年の「All For Love」があります。
この曲もブライアン、ラング、ケイメンの共作です。
ただし録音では、三人の歌手が役割を分けるため、ブライアンの声だけで曲を背負う必要はありませんでした。
1993年――三人だからできた歌を、一人でも歌えるのか
「All For Love」の録音では、ブライアン、スチュワート、スティングがそれぞれの声で同じ思いを歌います。
音の高さや声の質が違う人たちが、一つの曲を共有しました。
歌う相手に合わせて旋律やハーモニーの役割をどう変えるかは、ブライアン・アダムスの歌い方で詳しく扱っています。

写真:Gord Webster / CC BY-SA 2.0
ここでの問いは、ほかの二人がいない舞台でも、この曲を成立させられるかです。
大きな録音を作る能力とは別に、伴奏や共演者を減らした場所で、自分の歌と演奏だけで曲を進める力が要ります。
ブライアンがそれを学んだ場所は、後年のアコースティック公演でした。
2010年――ほぼ一人の舞台で、曲の速さと間を決める
2010年のライブ盤『Bare Bones』では、声とアコースティックギターを中心に、曲によってゲイリー・ブライトのピアノが加わります。
1997年の『MTV Unplugged』にもアコースティック楽器はありましたが、あちらは大人数の伴奏を組める公演でした。
『Bare Bones』は、楽器を減らしたぶん、歌手本人の判断がむき出しになります。
ブライアンは、バンドなら自分の演奏の失敗をほかの音が補えるが、一人ではそうはいかないと話しました。
ステージの直前までギターを練習し、観客が知らない曲にも反応するかを試しています。
この公演によって、曲作りやツアーへの考え方まで変わったというのです。
ギターを強く弾けば十分だったわけでもありません。
本人によれば、ツアーを始めた頃は力を入れて弾きすぎて弦を切り、続けるうちに強弱の扱いをつかんでいきました。
伴奏を一人で引き受ける以上、声だけを調整しても歌は整いません。
弾く強さまで自分で決める経験が、曲を保つ力につながっていきました。

写真:Derek Hatfield from Peterborough, Canada / CC BY 2.0
ライブ盤の最初の録音では、静かなところで客席から声が上がり、本人も笑ってしまいました。
別の夜にも録ることになり、その際には、前夜に速すぎたと感じた曲のテンポを見直しています。
歌い切る力だけでなく、待つ長さや進める速さを自分で決め直せることが、少人数の舞台では大切でした。
2012年――三人の曲を、自分の歌として引き受ける
ロイヤル・アルバート・ホールのアコースティック公演で、ブライアンは「All For Love」を歌いました。
1993年の録音で交代していたスチュワートとスティングの声は、2012年の舞台にはありません。
ギターを手にした本人が、客席との距離を感じながら歌を進めます。
二つの版を比べる際は、十九年の加齢だけで差を説明できません。
歌手の人数、伴奏、スタジオと舞台という条件が違います。
しかもブライアンはバンドの公演をやめたわけではなく、アコースティックの公演と並行していました。
大きな編成か小さな編成かを、その曲を歌う場に合わせて選べるようになったのです。
2014年――カバー曲でも、自分の声を前に置く
『Tracks of My Years』では、若い頃に親しんだ歌を取り上げました。
元の歌手の印象が強い曲ばかりです。
ブライアンはディランの「Lay Lady Lay」を、原曲より一オクターブ高く歌うことで、自分の歌として聞こえるようにしたと話しています。
この高さの変更には、具体的な理由がありました。
本人はディランの曲を歌うと、わずかなフレーズでディランに似てしまうと感じていたのです。
憧れの歌を知っているからこそ、元の歌い手の癖へ引かれてしまう。
高さを変えることは、高音を誇るためというより、よく知る曲を自分の声へ引き寄せる方法でした。
「Never My Love」などでは、声を深い残響や厚いハーモニーで覆わず、マイクが捉えた歌を近く感じさせる仕上げを選びました。
2012年の舞台では伴奏を減らし、2014年の録音では声の周囲を飾る響きを減らす。
方法は違っても、ほかの音に隠れずに自分の歌を届けるという目的が共通しています。
2019年――小さな編成だけが答えではない
『Shine a Light』でブライアンは、多くの曲の歌をバンドと同時に録りました。
一方、ジェニファー・ロペスとの「That’s How Strong Our Love Is」では、コンピューターを中心に進める、本人には普段と違う制作を試しています。
現代的な音を求めた選択でした。
同じ曲にはバンドで演奏した別の版もあり、ブライアンはその対照を面白がっています。
アコースティックの舞台で覚えた方法だけに落ち着いたのではありません。
1980年代に録音とライブの両方を意識し、ラングと歌を詰め、少人数の舞台で曲の間を覚えた後も、別の作り方を試せる歌手であり続けています。
1993年の「All For Love」と2012年の同曲は、どちらかを完成形として選ぶ比較ではありません。
三人の声を組み合わせた録音と、一人で曲を担う公演。
ブライアンは同じ歌を、異なる人数と場所に合わせて歌い直しました。
荒い声という目印はあっても、その声に任せる仕事は、活動を重ねる中で変わってきたのです。

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