ブライアン・アダムスの歌声の変遷|作り込む歌から、声とギターで聴かせる歌へ

2017年、公演で歌うブライアン・アダムス シンガー
© Luigi936 / CC BY-SA 4.0

ブライアン・アダムスは、自分の歌について最も多くを学んだ経験の一つに、アコースティックギターを持って一人で歌う公演を挙げています。
大ヒットを何曲も生んだ後にも、声と楽器一つで曲を成立させることが、大きな勉強になっていました。

1990年代の映画主題歌を知っていると、少し意外に感じるかもしれません。
ロッド・スチュワート、スティングと歌った1993年の「All For Love」は、三人の有名歌手がそろう曲です。そのブライアンが、後年には同じ曲を、もっと小さな編成で歌っています。
何を減らし、歌う人にはどんな仕事が増えたのか。声の印象が変わる理由を、録音や舞台での選択からたどります。

1980年代――勢いのある歌にも、細かな作業があった

『Cuts Like a Knife』や『Reckless』で知られるようになる前、ブライアンはクラブで歌い、スタジオで歌う仕事を経験していました。
クラブでは一晩を歌い切る力の配分を学び、録音では音程やリズムを合わせることを覚えていきます。あの荒さのある声も、ただ勢いに任せて使ってきたものではありません。

1984年の『Reckless』にも、一発の勢いと、何度も作り直す作業の両方がありました。
「Run to You」では最初に録ったバンドの演奏を生かし、歌は後から重ねています。一方、「Summer of ’69」は、曲全体を録り直すほど試行錯誤しました。
歌も楽器も全部一度で録れた曲ばかり、というわけではなかったのです。

ブライアンは当時、ライブで歌える曲を増やそうとしていました。
録音を完成させれば終わりではなく、それを舞台へ持っていく必要があります。スタジオの中で仕上げることと、人前で歌えることは、初期からつながっていました。

1991年――歌える曲を、もっとよく歌うために

『Waking Up the Neighbours』を一緒に作ったプロデューサー、マット・ラングは、その歌唱をさらに掘り下げる相手になりました。
ブライアンは、それまで音程とリズムについて分かっているつもりだったものの、ラングによって歌手として別の段階へ進めたと振り返っています。

曲を録りながら、うまくいかない部分は書き直していく制作でした。
一度考えた歌い方を守るだけでは、その作業についていけません。歌う本人にも、新しい形を試す柔軟さが必要でした。

2006年、ヴィクトリア公演のブライアン・アダムス
2006年、ヴィクトリア公演のブライアン・アダムス。写真:Gord Webster / CC BY-SA 2.0

この時期に「(Everything I Do) I Do It for You」が生まれ、その後も映画音楽の作曲家マイケル・ケイメン、ラングとの組み合わせは続きました。
「All For Love」も三人の共作です。激しいロックに加え、映画のラブソングも、ブライアンの代表的な仕事になっていきました。

こうした大編成の録音を経て、後年には伴奏を減らした舞台にも取り組みます。
楽器の人数が減る一方で、歌手が自分で決めなければならないことは、むしろ増えていました。

2010年代――伴奏を減らすと、歌の間も自分で作る

2010年の『Bare Bones』は、ブライアンの声とアコースティックギターを中心に、曲によってゲイリー・ブライトのピアノが加わるライブ盤です。
1997年の『MTV Unplugged』にもアコースティックな演奏はありましたが、大人数の伴奏を組める企画と、ほぼ一人で舞台を担う公演とでは事情が違います。

バンドと演奏していれば、自分の間違いを別の楽器が補うことがあります。一人で演奏しながら歌う場合には、その助けがありません。
ブライアンは、この経験で音程やタイミングを学び直したと説明しています。声を張るか抑えるかだけでなく、どの速さで歌を進め、どこで待つかも、より直接的に舞台を左右するようになりました。

最初にライブを録音したノルウェーの公演では、静かな箇所で熱心な観客が声を掛け、本人まで笑ってしまったそうです。
録音を別の日にも行うことになり、その結果、前の晩に速すぎると感じた曲のテンポなどを見直せました。声も伴奏も少ないからこそ、客席の反応や、一つの間の長さが目立つのです。

2009年、ピーターバラ公演のブライアン・アダムス
2009年、ピーターバラ公演のブライアン・アダムス。写真:Derek Hatfield from Peterborough, Canada / CC BY 2.0

2012年10月のロイヤル・アルバート・ホール公演では、「All For Love」もこのアコースティックな形式で歌われています。
冒頭の1993年の録音では三人が歌っていましたが、こちらはブライアン自身が歌を担う公演です。十九年という年月に加え、歌手の人数と伴奏の違いも、二つを聴き比べる際の大切な点になります。

これは、バンドで歌うのをやめたという転向ではありません。
本人はバンドのツアーとアコースティックのツアーを並行して行っていました。歌える場所を一つに絞るのではなく、同じ曲を違う条件で歌う力を増やしていたのです。

2014年――声を隠さず、昔の名曲を自分の歌にする

『Tracks of My Years』では、若い頃に親しんだ曲をカバーしました。
ビートルズ、レイ・チャールズ、ボブ・ディランなど、元の歌手の印象が強い曲ばかりです。そのまま再現しようとすれば、歌い方まで元の歌手へ近づいてしまいます。

ブライアンは「Lay Lady Lay」を歌う際、ディランより一オクターブ高く歌うことで、原曲とは違う歌にしたと話しています。
また、アルバムを通して声に残響をまとわせず、マイクが捉えた声を近く感じられる仕上げにしました。声を何重にも飾ることより、本人の声をはっきり出すことで、多様な曲を一枚の作品にまとめたのです。

アコースティック公演では伴奏の人数を減らし、このアルバムでは声の周囲の響きを減らす。
方法は違いますが、どちらもブライアン自身の歌を、聴き手の前へ出す選択でした。

2019年――慣れた録り方の外にも、歌を探す

ただし、声を近く聴かせる方法だけに落ち着いたわけではありません。
2019年の『Shine a Light』では、多くの曲でバンドと同時に歌を録音しながら、ジェニファー・ロペスとの「That’s How Strong Our Love Is」では、コンピューターを中心にした制作も試しています。

本人にとっては普段と違う歌の録り方でしたが、現代的な音を求めて挑んだものでした。
同じ曲にはバンドで演奏した版もあり、ブライアン自身が、その対照を面白がっています。同じ時期の同じ歌手でも、制作方法によって異なる歌の聴こえ方を選べるのです。

同じ声の持ち主が、歌い方を選び直す

初期には、クラブや録音の仕事で歌の基礎を身に付けました。
1990年代にはラングと細かな歌唱を詰め、後年のアコースティック公演では、声と楽器一つで曲を進めることを学び直しています。その後も、残響の少ない声、バンドと同時に録る歌、新しいポップスの制作へと試みは続きました。

昔の録音と後年のライブで声の印象が違っても、それを年齢だけで説明すると、こうした選択が抜け落ちてしまいます。
大勢で作り上げた「All For Love」と、自分の歌を前面に出した2012年の公演。同じ曲に戻るとき、ブライアンは常に同じ方法で歌っていたわけではありません。

共演者に合わせて旋律やハーモニーの役割を変える工夫は、ブライアン・アダムスの歌い方でも扱っています。
ハスキーな声は彼の目印ですが、その声をどう曲に使うかは、長い活動の中で増えてきました。昔の迫力を聴く楽しさに、歌手が何を選び直したかを知る楽しさが加わる。その二つを行き来できるのが、ブライアンの録音を年代順に聴く面白さです。

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