1984年、「Careless Whisper」の発売が近づいても、ジョージ・マイケルは録音に納得できませんでした。
憧れていたプロデューサー、ジェリー・ウェクスラーとの仕事は立派に仕上がっていましたが、自分の曲なのに「自分に聞こえない」。
発売まで約4週間というところで、彼は普段の仲間と録り直すことを選びます。
それから約30年後、ジョージは別の名プロデューサー、フィル・ラモーンに仕事を任せ、オーケストラと歌っていました。
若い日のように自分の声を守ることと、人に任せて新しい歌い方を探すことは、彼の中でどうつながったのでしょうか。
声の魅力に何を託すか、その選び方の変化をたどります。
1984年――よく出来た録音でも「自分の声」には聞こえない
ワム!で歌っていたジョージにとって、ウェクスラーは憧れの相手でした。
後の本人の回想では、録音時は緊張のあまり酒を飲まなければ歌えなかったといいます。
出来た曲を悪いとは思っていません。
それでも、その歌には自分が十分にいないと感じました。
そこで曲を初めて録るつもりで、いつもの演奏者たちともう一度スタジオに入りました。
本人は、肩の力を抜いて歌えたことを、録り直した版がよくなった理由の一つに挙げています。
高い音が出るようになったからではありません。
誰と、どんな気持ちで録れば自分の歌になるのかを、若い時点で選び直したのです。
「Careless Whisper」のなめらかな声は、この選択を経て広まりました。
それは後の作品を測るための「失われた全盛期」ではなく、ジョージが声の聞こえ方に自分で責任を持ち始めた地点です。
1987年――『Faith』では、曲ごとに違う声の場所を決める
ワム!の解散後、初のソロ・アルバム『Faith』では制作の主導権を自分で握りました。
エンジニアのクリス・ポーターによると、同名曲では残響を抑えた声を望み、「Father Figure」では響きを含めた音の形を先に考えていました。
一枚の中で歌を同じ質感にそろえるのではなく、曲に合わせて声を置く空間まで変えたのです。
ポーターは、ワム!の頃には事前に歌詞が決まっていたのに対し、『Faith』ではマイクの前で言葉を作るようになったと振り返ります。
「Father Figure」でも、完成に近い響きを聴きながら歌詞を書いていました。
声にしたときの言葉の響きが合わなければ、意味を保ちながら言葉を替える。
歌い方を工夫するだけでなく、歌った感触から歌詞を決める方法へ踏み込んでいたのです。
「One More Try」の最後の一言をどう長く残すかなど、一曲の中の表情はジョージ・マイケルの歌い方で扱っています。
ここで注目したいのは、どの歌い方を選ぶかに加え、その声がどう届くかまで本人が決めていたことです。
1984年には他人が作った仕上がりから自分の歌を探し直し、ソロ作では最初からその判断を制作の中心に置きました。
1990年――『Faith』の大きな音を離れ、声と歌詞へ戻る
『Faith』を長く歌い続けた後、ジョージは同じ成功作をもう一度作る気にはなれませんでした。
本人は、10か月ほどその作品を歌った後、電子的で大きな音を減らし、アコースティックな曲を書きたくなったと話しています。
1990年の『Listen Without Prejudice Vol. 1』で、彼が最初に書いたという「Something to Save」は、その思いから生まれました。
「Praying for Time」では、自分の声にジョン・レノンを思わせる近い反復音を加えることも、本人が意図していました。
音を減らすことは、録音上の工夫を捨てることではありません。
派手な音像から距離を取り、社会への問いを含む言葉をどんな声で届けるかを、また一曲ずつ決めたのです。
当時の取材でジョージは、『Faith』の続編を作っても自分は満足できなかっただろうと語っています。
すでに人気を得た歌い手が、売れたときの声と演奏を繰り返すより、曲の問いに合う音を選んだ時期でした。
1996年――曲を書けない時間を経て「Jesus to a Child」へ
その後、恋人アンセルモ・フェレッパを失い、ジョージは約2年間、音楽を一音も書けなかったと振り返りました。
次のアルバムは悲しみと回復について書くと決め、1996年の『Older』が生まれます。
「Jesus to a Child」は、亡くなった人への愛情と、その不在を抱える歌です。
録音を担当したポール・ゴマソールは、この曲の歌声に長く豊かな残響を使ったと説明しています。
1987年の「Faith」で求めた近い声とは違い、言葉が消えた後にも響きを残す作りです。
ここで変わったのは単に声の高さや年齢ではありません。
何を歌いたいかが変わり、その言葉を残すための録音も変わりました。
『Older』では、その細部を試す手順も変えています。
歌いながら作った一言をすぐ録り直したくても、担当者がどの言葉かを確かめている間に、試したい瞬間が過ぎてしまう。
ゴマソールによれば、ジョージはマイクのそばで録音機を操作し、自分で歌を差し替えるようになりました。
作品の約半分の曲で使ったこの方法は、浮かんだ表情をその場で試すための工夫でした。
1999年――初めて、信頼するプロデューサーに任せる
『Older』まで自分の歌を細かく作ってきたジョージは、1999年のカバー・アルバム『Songs from the Last Century』でフィル・ラモーンと組みました。
長年の友人で制作を共にしたデイヴィッド・オースティンによると、ジョージが自ら進んで制作の手綱を誰かに渡したのは、この仕事が初めてでした。
ラモーンを信頼でき、その経験を本人も楽しんだといいます。
「Roxanne」は、自分が書いた言葉ではなく、ポリスの曲を歌う例です。
歌手として他人の曲に入り、その歌を自分のものとして届けるために、全工程を一人で抱える必要はありませんでした。
1984年のウェクスラーとの録音では、立派な仕上がりの中に自分を見いだせず、作り直しています。
1999年にラモーンへ任せられたのは、肩書きのあるプロデューサーに従うようになったからではなく、相手を信頼できたからでした。

写真:Popperipopp / Public domain
2011年――「いい声」をそのまま残す以外の選択
ジョージは2011年にニュー・オーダーの「True Faith」をカバーしました。
共同制作者のジェームズ・ジャックマンによると、声には電子的な加工を使い、サビだけは自然な声に戻してはどうかという提案も退けています。
曲を通してその音色で歌いたかったのです。
歌の巧みさを知る聴き手からは、加工する必要はないという反応もありました。
しかしジャックマンが伝える本人の意図は、歌唱力の不足を隠すことではなく、これまでとは違う音を作ることです。
かつては他人の録音に「自分がいない」と感じた歌手が、今度は自分で選んで、よく知られた声の形を崩しました。
2011~2014年――オーケストラの前で、歌手として上達したい
同じ頃に始めた〈Symphonica〉ツアーでは、オーケストラと共演します。
2014年に発売されたライブ・アルバム『Symphonica』は、2011~12年の公演を記録した作品です。
ここでもプロデューサーはラモーンでした。
自作曲のほか、テレンス・トレント・ダービーの「Let Her Down Easy」なども歌っています。
ジョージはこの企画を「声」に向き合う時期だと周囲に伝えていました。
後の取材でも、オーケストラと歌うのは歌手として上達するための挑戦だと話しています。
1999年から続く信頼が、大きな編成の前でも歌を試せる土台になったのです。
ツアーの録音を作品にする仕事には、各地で異なるオーケストラと歌った演奏をまとめる難しさもありました。
オースティンの説明では、ラモーンは一つ一つの歌い回しを指図するより、全体の方向を理解して歌手に余地を与えています。
任せるようになっても、自分の歌を選ぶ自由が減ったわけではありません。
その自由を支える仕事を、相手と分担できるようになったのです。

写真:David Jones from Isle of Wight, United Kingdom / CC BY 2.0(掲載用に縮小)
「Careless Whisper」の若い歌手は、名プロデューサーの仕事に納得できず、声を録り直しました。
その後は自分で声の置き方を決め、音を減らし、喪失を歌い、信頼する人には制作を任せます。
晩年には声を加工する曲と、オーケストラの前で歌を磨く企画の両方を選びました。
1984年にこだわった「自分の声」は、固定した音色ではありませんでした。
自分の声に聞こえるかを確かめるところから、その声でまだ何ができるかを試すところへ、問いが広がりました。

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