ジョージ・マイケルの歌声の変遷|「Careless Whisper」から、まだ上達したかった晩年へ

1984年の「Careless Whisper」を聴くと、ジョージ・マイケルの声は、若いころからずいぶん大人びていたと感じます。
恋を失う後悔を、なめらかで伸びのある声で歌う。
ワム!の明るいポップスターという姿と、同じ時期の歌だと思うと、その幅に驚きます。

そんな歌手が年齢を重ねたとき、何が変わるのでしょうか。
ジョージの場合は、最初に歌唱力を手に入れ、その後ずっと同じ歌を続けた、という歩みではありませんでした。
自分らしい声の録り方を探し、一言ずつ歌を作り、やがて大切な人を失った気持ちや、他人が書いた物語にじっくり向き合うようになる。
晩年にも、本人は歌手として上達したいと考えていました。

1984年の「Careless Whisper」、1996年の「Jesus to a Child」、そして『Symphonica』につながるオーケストラとの歌唱をたどると、声の良さをどう生かすかという問いが、少しずつ変わっていきます。

1984年――若くても、自分の声の違いが分かっていた

「Careless Whisper」のころ、ジョージはまだワム!の一員でした。
2023年のドキュメンタリー『WHAM!』を監督したクリス・スミスは、若いころのデモを調べ、当時から歌声や音楽の構想が驚くほど出来上がっていたと話しています。
大人びた歌声は、長いソロ活動を経て初めて手に入れたものではなかったのです。

とはいえ、思い描いた歌が、最初の録音でそのまま完成したわけではありません。
ジョージは「Careless Whisper」を、アレサ・フランクリンなどで知られる名プロデューサー、ジェリー・ウェクスラーと一度録音しています。
憧れの人物との仕事で緊張もあり、出来上がった録音は良いものでも、自分の音楽には聞こえないと感じました。
そこで、普段一緒に仕事をしているミュージシャンたちと録り直したのです。

若い歌手が、大御所の作ってくれた音に納得できないと言うのは、簡単ではありません。
それでもジョージには、うまく仕上がっていることと、自分らしく聞こえることの違いが分かっていました。
後年の細かな録音へのこだわりは、このころから始まっています。

本人は1985年、以前よりも古い時代の音楽に踏み込み、1960〜70年代の黒人音楽の影響を表せるようになったとも話しています。
若々しいポップスと、大人びたソウルの歌い方は、順番に入れ替わったわけではありません。
「Careless Whisper」の時点で、その両方が彼の音楽にありました。

1987年――声の色まで、自分で作る

ソロ・アルバム『Faith』では、歌い方と録音の作り方が、さらに細かく結びつきます。
「Faith」の歯切れのよさ、「Father Figure」の深い響き、「One More Try」の長い訴え。
一枚の中でも、声をどう聞かせるかが曲ごとに変わります。

この時期、ジョージは歌詞をマイクの前で作り、一言の響きを確かめながら録音していました。
強く出る言葉も、柔らかく残る言葉も、出来上がった歌の中で必要な形にしていく。
ポップスターとしての見た目が大きく変わった時代ですが、歌の細部を自分で決める仕事も深まっていたのです。

言葉の歌い直しや、「One More Try」の最後で気持ちが変わる仕組みは、ジョージ・マイケルの歌い方で詳しく扱っています。
このころに深めた、一言まで納得して仕上げる姿勢は、次の時代にも続きます。

1996年――失った人への愛情を、静かな歌にする

1990年の『Listen Without Prejudice Vol. 1』を経て、1996年に発表した『Older』では、歌に託す感情が大きく変わります。
その背景には、恋人アンセルモ・フェレッパとの出会いと死別がありました。
「Jesus to a Child」は、その人への愛情と、失った悲しみから生まれた曲です。

「Careless Whisper」では、自分の過ちで恋を失った後悔を歌っていました。
「Jesus to a Child」では、相手がこの世からいなくなっても、愛された記憶が自分を支えてくれる。
どちらも失った恋を歌っているようで、主人公が抱えているものは違います。
その違いを知ると、静かな曲調も、ただ落ち着いた大人の雰囲気としては聞こえなくなります。

声の余韻が長く残る録音も、この曲の表情を作っています。
『Older』のエンジニア、ポール・ゴマソールも、「Jesus to a Child」の声に使った、豊かで長い残響について説明しています。
歌声だけが切実に飛び出すのではなく、響きの中に言葉が残っていく録音です。

この曲のように静かに歌う場面でも、言葉をどう残すかという細かな工夫は続いていました。
『Older』で変わったのは、声を美しく作る熱心さ以上に、その声で受け止めようとする経験の重さだったのでしょう。

2005年、ベルリン国際映画祭でのジョージ・マイケル
2005年、ベルリン国際映画祭でのジョージ・マイケル。写真:Popperipopp / Public domain

1999年――人の曲を歌うために、人に任せる

ここまで自分の歌を細かく作ってきた人が、別のプロデューサーに仕事を任せる。
1999年のカバー・アルバム『Songs from the Last Century』では、その変化が起きます。
相手は、フランク・シナトラやビリー・ジョエルとも仕事をしてきたフィル・ラモーンでした。

後にジョージは、この作品で初めて、ほかのプロデューサーに主導権を渡せたと振り返っています。
自分の考えを分かってくれている、という信頼があったからです。

それまでのジョージは、歌う言葉も、その響きも、自分で作ってきました。
カバーでは、すでにある旋律と言葉を、自分がどう歌うかが問われます。
任せられる相手がいれば、録音のすべてを指示し続けることから離れ、歌い手として曲に向かえる。
その関係は、後の『Symphonica』にも続いていきます。

2011〜2012年――名歌手になっても、歌は上達したかった

2011年に始まった「Symphonica」ツアーで、ジョージはオーケストラと共演しました。
自作曲に加え、ほかの歌手の曲も歌い、その公演の録音から2014年のアルバム『Symphonica』が生まれています。
「Let Her Down Easy」は、テレンス・トレント・ダービーが発表した曲を、ジョージがこのツアーで歌ったものです。

本人がこの時期に望んでいたのは、自分の声をもっと探り、歌手として上達することでした。
オーケストラと歌うことは、そのための挑戦になると語っています。
大きなヒット曲を何曲も持ち、歌のうまさを広く認められた後でも、もう完成した歌手として過ごすつもりはなかったのです。

歌が中心になる公演には、音を大きくするだけでは得られない緊張感があります。
声を伸ばした先で、楽器がどう応えるか。
言葉を歌い終えたあと、次の旋律へどう進むか。
オーケストラとの共演では、そうした歌と演奏の関係も、楽しみの一つになります。

1999年にも、後のツアーにも参加したベーシストのデイヴィッド・フィンクは、ジョージの音程の確かさとリズム感を高く評価していました。
本人が上達を望んでいたのは、歌う力が足りなかったからではありません。
すでに持っている力で、まだ出来ることがあると考えていたのでしょう。

ジョージ・マイケルが出演した2012年ロンドン五輪閉会式の会場
ジョージ・マイケルが出演した2012年ロンドン五輪閉会式の会場。写真:David Jones from Isle of Wight, United Kingdom / CC BY 2.0

晩年にも、自分の声を変えてみたかった

オーケストラと歌う姿だけを見ると、晩年は落ち着いたバラードに専念していたようにも思えます。
しかし、同じ2010年代のジョージは、声を電子的に加工することにも積極的でした。
共同制作者のジェームズ・ジャックマンが、その試みを振り返っています。
ニュー・オーダーの「True Faith」をカバーした際にも、一曲を通して加工した声を使うことを望みました。

あれほど良い声なのに、なぜ加工するのか。
そんな反応があることも、本人は知っていました。
ジャックマンが、サビでは自然な声を使ってはどうかと提案しても、ジョージは曲全体で試したかったのです。

聴き手が好きな声を、そのまま残してほしいと思うのは自然なことです。
一方、歌う本人にとっては、その声でまだ違う音楽を作れるかもしれない。
ジョージは晩年にも、その可能性を確かめようとしていました。

「Careless Whisper」の若い声は、すでに魅力的でした。
そこから一言ずつ表情を作る『Faith』、喪失を歌う『Older』、他人の曲やオーケストラに向き合う時代へと進みます。
ジョージの変遷は、声が完成するまでの物語というより、良い声を持った人が、その使い方を考え続けた物語です。
曲を選び、言葉を選び、響きを選び直したからこそ、同じ歌手の声に、違う時代の感情が残りました。

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