「How Can I Go On」の録音中、フレディ・マーキュリーと共演したソプラノ歌手モンセラート・カバリエが涙を流したといいます。
彼女が歌った言葉を、フレディが歌わずに話して返す。
そばにいたピーター・フリーストーンの回想では、心を動かしたのは、その語り声でした。
大観衆を一声で沸かせる歌手が、なぜここでは歌で重ねず、言葉で返したのでしょう。
Queenのバラードを客席と分け合った時期から、オペラ歌手との共同制作、最後のQueen録音へ。
歌う相手が変わるたびに、フレディは自分がどの言葉を引き受け、どんな声で応じるかを選んでいます。
その過程をたどると、高音の迫力と同じくらい、相手を聴くことを大切にした姿が見えてきます。
1975年|「Love of My Life」は、客席の歌ではなかった
「Love of My Life」は、1975年のQueenのアルバム『A Night at the Opera』に収められました。
ピアノやハープ、重ねた歌声を使い、失った相手へ戻ってきてほしいと願うバラードです。
大きな舞台で観客を沸かせる声だけでなく、一人へ呼びかけるバラードも、このころから歌っていました。
今では観客が一緒に歌う曲として知られますが、発表当初はシングルにもならず、すぐにライブの定番になったわけでもありません。
スタジオで作り込んだ一曲を、舞台でどう歌うか。
そこでブライアン・メイが伴奏を十二弦のアコースティックギターに組み替えたことが、曲の行き先を変えます。
1979~1985年|旋律を客席へ渡す
1979年発売のライブ盤『Live Killers』では、「Love of My Life」はフレディが観客を導く大きなデュエットになっていました。
スタジオ版を舞台でそっくり再現するのではなく、ギターと歌に絞った編成の中へ客席の声が入ります。
フレディだけが旋律を歌い切る必要はなくなりました。
1985年のロック・イン・リオでは、その関係がさらに際立ちます。
ブライアンが一緒に歌おうと呼びかけると、観客は歌で応じました。
フレディは一度声を止めて合唱を導き、また自分の歌へ戻ります。
1985年に初めて生まれた掛け合いではなく、1970年代のライブから育った曲の形でした。
大きな会場を満たすために、フレディが常に声を張り上げたわけではありません。
客席が知っている旋律を預けられるからこそ、自分が歌わない間も曲が続く。
その場で歌を一人から会場全体のものへ変えることも、彼の舞台での仕事になっていました。

写真:Carl Lender / CC BY-SA 3.0
1986年|派手な伴奏の下に残っていた一人の歌
リオ公演の年、フレディはミュージカル『Time』のために「In My Defence」を録音し、翌1986年には主題歌「Time」も歌いました。
完成した「Time」はコーラスや伴奏を幾重にも重ねた作品です。
その録音に立ち会ったデイヴ・クラークは、スタジオで聴いたフレディの歌とピアノだけの姿を忘れられませんでした。
この仕事は、初めから二曲を一緒に録る計画で進んだわけではありません。
1985年10月に「In My Defence」を録ったあと、フレディのほうから、ほかにも曲がないかと尋ねます。
クラークが差し出したのが「Time」で、翌年1月に再び録音へ集まりました。
この仕事で知り合ったピアニストのマイク・モランは、のちの『Barcelona』でも制作を共にする相手になります。
クラークによると、二人は気に入らないことも互いに率直に伝え、特別な作品にするという目的を共有していました。
完成版では、フレディにジョン・クリスティーとピーター・ストレイカーも加わり、バックコーラスだけで48トラックを重ねています。
そうして作り込んだ音の大きさとは別に、クラークには最初の簡素な演奏が強く残っていたのです。
のちに元の歌声を探し出し、当時ピアノを弾いたモランに新たな伴奏を録ってもらいます。
2019年発表の「Time Waits for No One」は、1986年のフレディの歌声に、後年録り直したピアノを合わせた版です。
2019年の新たな歌唱ではありません。
クラークが忘れられなかったのは、フレディが一語ずつを大切に歌う姿でした。
客席に旋律を預けた時期にも、言葉そのものに耳を向けさせる歌があったのです。
Queenの華やかな舞台と並行して、別の制作者と一曲を詰めていく録音でも、歌の表情を広げていました。
1987~1988年|高い裏声で準備し、語る声で応える
フレディはカバリエの声に憧れ、1987年に初めて会ったとき、自分とモランで作った「Exercises in Free Love」を持参しました。
フレディが歌ったデモ録音です。
カバリエはその曲を気に入り、自分でも歌いたいと言いました。
一曲の共演から始まった話は、彼女の提案でアルバム『Barcelona』へ広がります。
初対面から気軽に歌えたわけではありません。
フリーストーンの回想では、二人が席に着くとしばらく沈黙が続き、フレディが曲を聴いてもらおうと切り出したことで場が動きました。
カバリエも互いの手が冷たかったことを覚えており、相手も緊張していると感じたそうです。
憧れの歌手を前にして、まず自分の作った音楽を差し出したのです。
制作が決まると、フレディは自分のパートだけを準備したわけではありません。
録音技師デイヴィッド・リチャーズによれば、カバリエが歌う予定の旋律まで高い裏声で仮歌していました。
相手が歌う旋律も自分で試し、録音を準備していたのです。
フレディ自身も、この仕事にはロックの曲とは違う規律が必要だったと振り返っています。
その準備は、相手の旋律を一度なぞるだけでは終わりませんでした。
リチャーズの回想では、フレディは弦楽器の細かな音まで確かめ、カバリエが歌いに来る前に伴奏を整える作業を重ねていました。
自分の歌を完成させて相手を待つのでなく、相手が歌う曲全体を準備する。
大きな声を競う共演とは違う仕事が、録音に入る前から始まっていました。
その共作の中で、「How Can I Go On」には意外な応答が残りました。
カバリエが旋律に乗せた言葉を、フレディは同じ言葉で、今度は話して返します。
フリーストーンによると、コントロールルームでそれを聴いたカバリエは涙を流しました。
制作の仮歌ではカバリエの旋律を高い裏声で試し、本番の「How Can I Go On」では、相手の歌を受けて語る声も使いました。
大観衆を前に歌を預けた人が、今度は一人の共演者の旋律に、自分の言葉を返したのです。

写真:Michael Pfeiffer / Gordito1869 / CC BY 3.0
1990~1991年|強い高音も、内側へ向かう声も残った
カバリエとの共作を経ても、フレディが強い高音を手放したわけではありません。
Queenの「The Show Must Go On」では、ブライアンが高い箇所を含む仮歌を作り、フレディに歌えるだろうかと気にかけました。
ブライアン自身は、その高い部分を裏声で歌っていました。
だからこそ、完成版ではもっと強い声で歌えたらと思いながらも、その要求が無理にならないかを本人に伝えたのです。
ブライアンの回想では、フレディは録音を始めるよう促し、その難しい箇所を歌いました。
この曲は1991年の『Innuendo』に収められています。
一方、1991年に録音した「Mother Love」には、ブライアンが「内側へ向かう」歌い方を生かしたかったという思いがありました。
安心できる場所を求める曲の途中で、フレディはさらに高く、強く歌う箇所にも挑んだといいます。
内側へ向かう表現と、強く歌う箇所は、最後まで一方が他方に置き換わりませんでした。
最後のヴァースは次の機会に録る予定でしたが、フレディが歌う録音は残らず、完成版ではブライアンが歌っています。
曲の発表はフレディの死後、1995年でした。
この声の交代は、彼が意図して譲った演出ではありません。
それでも、残された彼の歌をどう結ぶか、仲間が考えて仕上げた録音です。
声の大きさより、誰とどう歌うか
1975年のバラードには、すでに近くへ語りかける歌がありました。
それを客席と分け合える曲にし、カバリエとの共作では、相手の旋律へ話す声で応じた。
最後のQueen録音では、強い高音と内面へ向かう歌の両方を残しています。
カバリエとの制作では、相手の旋律まで仮歌して準備した人が、完成した歌の中では話す声も選んでいました。
相手が歌った言葉に、同じように音を伸ばして返すとは限らない。
その選択を知ると、フリーストーンが記憶していた語り声は、華やかな高音の合間の小さな挿話ではなく、共演者と歌を作るフレディの姿として響いてきます。
1976年の「Somebody to Love」で独唱と重ねた合唱を一曲の中でどう組み合わせたかは、フレディ・マーキュリーの歌い方で扱っています。

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