なぎら健壱さんを、テレビでよく見る物知りなおじさんとして知った人は多いでしょう。
酒場、路地、自転車、古いカメラ。何を語っても面白い人ですが、その芸能活動の根には半世紀以上続くフォークシンガーの仕事があります。
しかも、なぎらさんの歌は単なる懐かしのフォークではありません。
アメリカの古い音楽から受け取ったリズムやギターを、英語の物まねではなく、柴又や江戸川が見える日本語へ変えてきました。
その歌唱力は、高音の高さや声量だけでは測れません。
カントリーの器へ日本の町と人を入れ、笑い話のような歌でも最後まで言葉を聞かせる力にあります。
カウボーイハットは、テレビ用の衣装ではない
なぎらさんのカウボーイハットを見ると、陽気なキャラクター作りに思えるかもしれません。
けれど音楽の出発点をたどると、あの帽子はかなり本気です。
若い頃にたどったのは、当時流行していた新しいフォークから、さらに古いオールドタイム、ブルーグラス、カントリーへさかのぼる道でした。
ギターも、歌の飾りとして抱えたのではありません。チェット・アトキンスの奏法を写し取るほど弾き込み、カーター・ファミリーやビル・クリフトンの音楽を掘り下げています。
一方で、高田渡さんや岡林信康さんたちが日本語で目の前の社会を歌う姿にも衝撃を受けました。
アメリカの音楽は好きだが、借り物の英語を格好よく発音するだけでは、自分の暮らす町まで歌にできない。この二つの憧れの間から、なぎらさん独自の歌い方が始まります。

英語を日本語へ訳すより、自分の町まで連れてくる
当時のカントリーは、英語で歌うこと自体が様式の一部でした。
なぎらさんはそこへ日本語を持ち込みます。しかも原文を一語ずつ置き換えるのではなく、歌の気分を受け取り、自分の解釈で日本語にし直しました。
この選択を、カントリー界の大先輩から認められた経験が大きな支えになっています。
泥くさい日本語でカントリーを表現できるのは君だけだ、と背中を押されたのです。
ここに、なぎらさんの歌の核心があります。
洋楽らしく聞かせるため日本語を細切れにするのではなく、日本語の話し言葉を保ったまま、伴奏の流れへ乗せるのです。
歌詞が少し長くても、地名や人名が入っても、説明をきれいな抒情へ薄めません。
そのため、歌を聞くと先にメロディーが残るというより、誰かが町角で話していた場面が残ります。
「葛飾にバッタを見た」は、場所の名前がそのまま音楽になる
代表曲「葛飾にバッタを見た」には、柴又、葛飾、江戸川といった具体的な場所が出てきます。
さらにはホンダのカブまで現れ、普通なら歌詞に入れるのをためらいそうな生活の名詞が並びます。
ところが、具体的だから歌の世界が狭くなるわけではありません。
聞き手は知らない町の説明を受けるのではなく、歌い手と一緒に道を歩いているような位置へ置かれます。
なぎらさんの日本語は、旋律へぴったり収まるよう磨き上げた言葉だけではありません。
少しはみ出し、語りへ寄り、また音楽へ戻る。その揺れが、人の話し声に近い親しさを作ります。
高田渡さんの歌い方にも、歌と会話の境目を曖昧にする魅力があります。
ただし、高田さんが言葉を削り、沈黙まで歌にする人だとすれば、なぎらさんは町の細部を次々と持ち込み、話が横道へそれる面白さまで歌にする人です。
笑える歌ほど、声を大げさにしない
なぎらさんには「悲惨な戦い」や「いっぽんでもニンジン」のように、題名だけでも記憶に残る曲があります。
笑いや意外性が先に立つため、コミックソングの人とまとめられることもありました。
けれど、笑わせる歌だからといって、すべてを大声や変顔で説明してしまうわけではありません。
出来事を落ち着いて運び、聞き手が状況を理解したところで、おかしさや苦さが立ち上がる余地を残します。

この方法では、声の演技を盛りすぎないことが重要です。
歌い手が先に「ここが面白い」と笑ってしまえば、聞き手は観客席から取り残されます。なぎらさんの飄々とした語り口は、温度が低いのではなく、聞き手が自分で笑い、自分で引っかかる場所を残しているのです。
ギターがうまいから、語りが自由に歩ける
なぎらさんの歌は話し言葉に近いため、声だけに注目すると気軽に歌っているように見えます。
しかし、その自由さを支えるのがギターです。
古いアメリカ音楽をたどって身につけたピッキングは、伴奏を単なる拍子の目印にしません。
低い音が歩き、細かな音が言葉の隙間へ入り、声が少し小節からはみ出しても曲の居場所を保ちます。
つまり、自由にしゃべってから伴奏が偶然ついてくるのではありません。
音楽の型をよく知っているからこそ、その上で日本語を寝かせたり、急がせたりできるのです。
これは、派手な最高音とは違う歌唱力です。
声と楽器を別々に披露するのではなく、一人の話を二つの音で運ぶ力と言えます。
テレビへ出ても、歌の中までテレビにはしなかった
フォークブームが終わると、なぎらさんは音楽だけで生活できない時期を経験しました。
テレビ、俳優、執筆、写真などへ仕事を広げ、歌手よりタレントとして知る人が増えていきます。
ここで興味深いのは、テレビで培った話術をそのまま歌の主役にしなかったことです。
番組では短時間で話を着地させても、歌では町を歩き、人の事情を急いで結論へ運びません。
一方で、テレビと音楽を完全に切り離したわけでもありません。
聞き手の反応を見ながら話す力、難しい背景を日常語へほどく力は、ライブの曲間や物語歌にもつながっています。
歌以外の仕事が本業を薄めたのではなく、人へ伝える入口を増やしたのです。
毎月歌うことが、飄々とした声を支えている
なぎらさんは、吉祥寺のライブハウスで月例ライブを何十年も続けてきました。
本人は、それを美しい情熱物語だけでは語りません。義務として課さなければやらなくなるから続け、続けることで訓練になり、さびずにいられると説明しています。
この現実的な考え方は、歌にも表れています。
毎回、感情が降りてくるのを待つのではなく、決まった日に人前へ立ち、声とギターで言葉を渡す。積み重ねがあるから、力んで「本気らしさ」を見せなくても歌が成立します。
歌い方を学ぶ人にとって参考になるのは、声色の物まねよりこの姿勢です。
なぎらさんらしく歌おうとして、語尾をわざと崩したり、低い声を作ったりする必要はありません。
歌詞に出てくる場所を具体的に思い浮かべ、誰へ話しているのかを決め、伴奏に急かされず日本語を最後まで置く。そこから始める方が、本質へ近づけます。
なぎら健壱の歌唱力は、借りた音楽を自分の住所へ届ける力
なぎら健壱さんの歌は、アメリカのフォークやカントリーから多くを受け取っています。
それでも、聞こえてくるのは遠い国の風景だけではありません。柴又や江戸川、酒場や路地、名もない人の暮らしです。
古い音楽の型を深く知り、英語の格好よさへ逃げず、日本語が少しはみ出す面白さを残す。
ギターと語りを一つの流れにし、笑える題材にも人の寂しさを置く。この組み合わせが、なぎらさんの歌を作っています。
テレビで何度見ても、歌を聞くと別人に驚くのではありません。
よくしゃべり、町を歩き、人の癖を面白がる同じ人物が、その観察を最も長く続けてきた場所が歌だったと分かるのです。
音楽活動の始まりから、テレビとの両立、55周年の新作までの歩みは、なぎら健壱さんの歌唱変遷で年代順に整理しています。






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