1983年、ティナ・ターナーは「Let’s Stay Together」の歌を一度の通し録音で仕上げました。制作したマーティン・ウェアは、歌い直しを求める必要がなかったと振り返ります。ところが翌年の「What’s Love Got to Do with It」では、最初の歌い方が曲に合わず、制作したテリー・ブリテンによれば、ティナ自身が最も難しかったと話すほどの録音になりました。
わずか一年の差です。1980年代の「復活」で突然、強い声を抑えられるようになったのでしょうか。1960年代の大編成の録音から、70年代に自分の名で歌った曲、そしてこの二つのスタジオでの出来事までたどると、変わったのは声の強さだけではなく、どんな曲を、誰に向けて、どんな距離で歌うかという選択だったことが見えてきます。その選択は、90年代の舞台でも続きました。
1966年――大きな音の中心に置かれた「River Deep – Mountain High」
「River Deep – Mountain High」を作ったフィル・スペクターは、演奏やコーラスを幾重にも重ねて、音の厚いレコードを目指していました。編曲に加わったジャック・ニッチェによると、ティナは伴奏の録音中にも仮の歌を歌い、その声で演奏者たちの勢いが増したそうです。後から歌や弦を重ねる前の段階で、すでに彼女は演奏を動かしていました。
完成した盤の迫力を、ティナがただ大声で歌った結果と捉えると、この現場の面白さが抜け落ちます。ニッチェの証言では、バックコーラスを何重にも録り、歌も後から仕上げています。舞台で客席を引きつける歌手の声を、スペクターは大きな音の設計図の中へ置きました。本人が1975年の取材で、スペクターと出会った1966年を大きな転機として挙げていたのも、この録音がそれまでの活動とは別の扉を開いたからでしょう。
ただし、大きな編成の中で歌ったことと、ほかの曲を小さな声で歌えなかったことは同じではありません。この後ティナは、ステージで知られた姿から離れるような選曲も、自分の名で試しています。

1974~75年――カントリーを歌い、ロックを自分で望んだ
1974年の初ソロ・アルバム『Tina Turns the Country On!』は、彼女がアイクとの活動を続けていた時期に出した作品です。ボブ・ディランやドリー・パートンらの曲を収め、公式の作品紹介も、カントリーにソウルの歌を持ち込んだ盤として位置づけています。後年のロック歌手という肩書から振り返ると、意外な入口かもしれません。
翌1975年の『Acid Queen』では、ロックの曲が前に出ます。ティナは当時の取材で、ローリング・ストーンズなど英国のバンドの歌を以前から好んでおり、そういう曲で一枚作りたかったと話しました。レッド・ツェッペリンの「Whole Lotta Love」のカバーも、その盤に入っています。カントリーを経てロックになった、という一直線の変化ではありません。彼女の歌える場所を、ひとつのジャンルに閉じなかった二枚です。
一方で、『Acid Queen』の制作が理想どおりに進んだわけでもありません。ティナは同じ取材で、急いで発売することになり、十分に曲を覚える時間もないまま夜に歌を録ったと明かしています。やりたい曲の方向を持つことと、実際の録音で自分の解釈を練り上げる時間があることは別でした。この差は、次の「Let’s Stay Together」で際立ちます。
1983年――「Let’s Stay Together」は、準備してきた歌で一度で決まった
アル・グリーンの曲「Let’s Stay Together」をティナに提案したウェアは、彼女のロックのイメージだけを見ていませんでした。ソウルの歌手としての力を、新しい編曲の中でもう一度示せると考えたのです。ティナもその曲を気に入り、録音に臨みました。
ウェアが後に強調したのは、単に「すごい歌手だから一発で歌えた」ということではありません。ティナはスタジオへ来る前に、どう歌うかを決めていた。だから録音中は力む必要がなく、一度の歌唱で曲が成立したという話です。電子的な伴奏は、かつて彼女が歌ってきたバンドの音とは違います。それでも、歌の解釈まで制作側に預けていたわけではありませんでした。
1966年の「River Deep – Mountain High」では、演奏を勢いづけた声が、大きな編曲と重ね録りの中で形になった。1975年には、歌いたいロックの曲があっても、録音を急がされました。1983年には、曲を引き受けるための準備が、そのまま一度のテイクに結びつきます。同じティナの声でも、制作の場で彼女が持てた時間と役割は違いました。
1984年――「大勢へ届く声」では届かなかった曲
「What’s Love Got to Do with It」を最初からティナが気に入っていたわけではありません。ブリテンは1986年の取材で、彼女が曲を軽いポップ・ソングだと思い、当初は冒頭から全力で歌おうとしたと話しています。ブリテンが望んだのは反対でした。初めは声を抑え、感情を内側に残して、曲が進むにつれて力を出す歌です。
録音エンジニアのジョン・ハドソンも、ティナが初めは大きな会場の観客に向けるように歌い、ブリテンからマイクの近くで一人だけに歌うつもりで、と促されたと回想しています。声量の目盛りを下げれば済む話ではありません。誰に話している歌なのかを変える必要があったのです。
ブリテン自身は、彼女が後にこの録音を「これまでで最も難しかった」と語ったと証言します。前年に一度で仕上げた歌手が、新しい曲では苦労した。そこに衰えや未熟さを読み込むより、曲ごとに別の歌い手になろうとした難しさを見るほうが、二つの録音の違いをよく説明できます。
1986年――静かな歌だけに収まらなかった
『Private Dancer』の後、ブリテンとの仕事は『Break Every Rule』へ続きました。先行曲「Typical Male」を含む1986年のアルバムです。ブリテンは、ティナの歌が中心になるよう、伴奏を先に詰め込みすぎないと説明しています。録音する曲も、穏やかなバラードからリズムの異なる曲へ広がりました。
「What’s Love Got to Do with It」で抑えた歌が成功したからといって、その後のティナが静かな声だけへ進んだわけではありません。制作陣は曲に合わせて音を作り、ティナはそれぞれの歌の人物や距離を探す。1984年に得たのは新しい固定の歌い方ではなく、声を使う選択肢でした。
1993~97年――同じ歌の意味と、舞台の距離を変えた
その選択は、録音が完成した後にも残ります。ティナは1993年の取材で、「What’s Love Got to Do with It」の歌い方が、車から声をかけてきた女性ファンをきっかけに変わったと話しています。ファンの言葉から受け取ったのは、恋に縛られない女性の歌という意味でした。舞台ではそれを客席に向けて歌うようになり、曲が少し楽しいものになったといいます。1984年の録音で、一人に近づくような声を探した歌です。同じ曲でも、後のステージでは客席との関係から別の表情を見つけたのでした。
1995年には映画『ゴールデンアイ』の主題歌を歌います。本人は後の取材で、ただ新しいアルバムを出すより、この曲から戻るほうがよかったと話しました。新しい歌を選ぶことと、すでに知られた歌を舞台でどう見せ直すか。その両方が、90年代の仕事になります。
1997年のツアーでは、大がかりな演出の中に、椅子に座って歌う小編成の場面を入れました。本人は座る必要を感じていたわけではありません。それでも同じ見せ方ばかりでは観客が飽きるから、「別のティナ」を見せたいと取材で説明しています。当時の公演評には、そこで「Let’s Stay Together」を歌った記録があります。1983年にはスタジオで一度のテイクを決めた曲を、今度は大きなショーの流れを変える位置に置いたのです。声を弱めるためではなく、聴く側との距離を変えるための場面でした。
同じ一曲の中で、観客の期待をどう動かしたかもティナの魅力です。「Proud Mary」の静かな導入と激しい後半、「The Best」の構成への本人の注文は、ティナ・ターナーの歌い方の記事で扱っています。ここで見たのは、曲と録音現場が変わるたびに、その選択をどう作り直してきたかです。
1983年の一度のテイクと、1984年の苦心したテイク。どちらか一方だけが「本来のティナ」なのではありません。歌う前に答えを用意できた曲も、録音の対話で答えを見つけた曲も、後に舞台で意味を変えた曲もあります。力強い声を持ちながら、その力をいつ、誰に向けて使うかを曲ごと、場所ごとに決め直してきたことが、彼女の歌声の変遷です。

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