1963年にヒットした「Fingertips」のライブ録音で、少年時代のスティーヴィー・ワンダーは観客を沸かせました。
その数年後、モータウンでは声が変わった彼をどう扱えばよいか分からず、契約を終えることまで話題になったと本人は振り返っています。
ところが1973年の「Living for the City」では、録音した自分の声を高くも低くも変えて重ね、曲の終盤では怒りをどう声にするかをめぐり制作陣と衝突する歌手になっていました。
変声期を「乗り越えた」というだけでは、この間に何が起きたのかは見えてきません。
子どものころは目の前の観客へ呼びかけた声が、やがて自分の考えた物語を伝える声になる。
その転機を、録音と当事者の証言からたどります。
1963年のヒット|返事をくれる客席が、歌の一部だった
「Fingertips」は、少年時代のスティーヴィーがステージで演奏した録音です。
ハーモニカを吹きながら短く呼びかけ、観客が答える。
曲が進む力の一部を、客席との往復が担っています。
後年の作品を知っていると、彼の才能は最初から完成していたように思えるかもしれません。
でも、この録音の主役は一人で緻密な世界を作る作曲家ではありません。
目の前にいる人の反応を受け、次の声を返す少年です。
その少年の声が変わり始めます。
モータウンが心配したのは、才能が消えたからではなく、それまでの「リトル・スティーヴィー」という売り方を同じまま続けられなくなったことでした。
1965年|変わった声より、本人の旋律に耳を向ける
スティーヴィーは2017年の取材で、14歳半ごろ、モータウンで契約終了を考える会議があったと語りました。
本人の記憶によれば、理由の一つが変声期でした。
そこで作曲家のシルヴィア・モイが申し出ます。
彼女が探したのは、以前の声を再現する方法ではありません。
スティーヴィーがふだん弾いていた短い旋律を聴き、そこから次の曲を作ることでした。
モイ自身も後に、まだ終わりではないと思ったと振り返っています。
スティーヴィー、モイ、ヘンリー・コスビーが共作したのが「Uptight (Everything’s Alright)」です。
「Fingertips」で観客に返事を求めていた少年は、今度は貧しくても恋人に愛されている若者の立場を歌います。
声の高さだけでなく、歌の中で担う人物が変わったのです。
この録音には、もう一つ二人らしい場面があります。
歌詞を点字にする時間がなく、モイがヘッドホンへ次の一行を歌って伝えたというのです。
スティーヴィーはそれを聴きながら、手前の一行を歌いました。
彼の新しい歌を作ったのは、単なる声の成熟でも、一人だけの才能でもありません。
本人の旋律と、モイが歌を形にする仕事が結びついていました。

写真:Jack de Nijs for Anefo / CC0
1971~72年|声を囲む音も、自分で選ぶ
21歳になったスティーヴィーは、契約の節目を迎えます。
本人によれば、蓄えていた資金を、自分が作りたい音楽のために使うと決めました。
そこで出会ったのが、シンセサイザー「TONTO」を扱うマルコム・セシルとロバート・マーゴレフです。
スティーヴィーが二人へ伝えたのは、頭の中にある低音や管楽器のような音でした。
二人は機材を使ってその音色を作り、彼は曲へ取り入れます。
人から渡された曲を歌うだけだったわけではありませんが、1972年の『Music of My Mind』では、歌の周りの音まで本人の意図を通して組み立てる範囲が広がりました。
本人が欲しかったのは、珍しい電子音というだけではありません。
頭の中にある音を曲げたり動かしたりして、表情を持たせる楽器でした。
歌を完成した伴奏の上へ載せる前に、その歌が生きる音の世界から考えられるようになったのです。
契約の節目で得た自由は、こうして日々の録音で何を試すかという選択につながりました。
「Love Having You Around」の作曲者にはスティーヴィーとシリータ・ライト、プロデューサーにはスティーヴィー、エンジニアにはセシルとマーゴレフの名があります。
あくまで共同作業です。
それでも、1965年にモイから旋律を拾い上げてもらった歌手が、ここでは自分から音色の希望を出し、制作の中心に立っています。
この変化は、声が低くなった、高くなったという測定では捉えられません。
どんな音に囲まれて、何を声で伝えるかを決める立場が変わったのです。
1973年|一人の声を何人分にもして、怒りの表情を探す
制作を自分で決める範囲が広がっても、歌う瞬間に人の助けを借りる方法は残っていました。
セシルは『Innervisions』の録音でも、歌詞を半行ほど先に読み、スティーヴィーへ伝えたと回想しています。
「Uptight」でモイがしていたことに通じる仕事です。
周囲が言葉を渡し、本人が歌の流れを保って声にする協力は、少年時代を過ぎても続いていました。
『Innervisions』の「Living for the City」は、地方からニューヨークへ来た若者が直面する不当な扱いを描きます。
途中に街の音と会話を挟み、曲の後半へ進む構成です。
かつて客席の返事を音楽に取り込んだ少年が、今度は録音の中に街と登場人物を作りました。
制作に携わったセシルは、スティーヴィー自身のバックコーラスを複数回録り、テープの速度を変えて高い声や低い声に聞こえるようにしたと説明しています。
声を機械的に加工した結果を、そのまま本人の地声の広さとみなすことはできません。
注目したいのは、一人の声を曲の場面に合わせて複数の役割へ広げたことです。
終盤の歌については、現場で意見もぶつかりました。
セシルは後年、もっと怒りを感じさせる声がほしくて、ふだんはしないような録音の止め方をしたと振り返っています。
スティーヴィーはそれに腹を立てた、とセシルは認めました。
これはセシル側から見た制作の証言であり、曲の怒りがすべてその出来事で生まれたと決めつける話ではありません。
スティーヴィー自身も、セシルたちとは意見を交わし、ときには一致しなかったと回想しています。
1965年には大人たちが彼の変わった声に合う曲を探した。
1973年には、自分が作った物語の声をどう仕上げるか、制作陣と対等にぶつかるところまで来たのです。
1976年|子どものころへ戻っても、少年の声へは戻らない
『Songs in the Key of Life』の「I Wish」で、スティーヴィーは自分の子ども時代を歌います。
モータウンの記録によれば、1976年の夏のピクニックが曲を作るきっかけでした。
バンドのベーシスト、ネイザン・ワッツも、夜遅くに呼び戻されて曲作りに参加したと振り返っています。
ワッツによれば、帰宅したあとに電話が来て、スタジオへ戻ると、スティーヴィーの鍵盤を聴きながらベースの動きを作っていきました。
その後に管楽器やバックコーラスが加わり、数日で曲がまとまったといいます。
子ども時代の記憶を歌う声の周りには、こうして大人になった仲間との演奏が積み重なっています。
このアルバムの制作では、ツアー中に試した曲の録音を本人が聴き、バンドで演奏するか、自分で楽器を重ねるかも判断していたとワッツは話しました。
多くの楽器を弾けることが、毎回すべてを一人で済ませることにはつながっていません。
曲ごとに必要な相手と演奏を選ぶことも、歌声を中心とした世界を作る仕事になっていたのです。
同じアルバムには、社会へ向けた歌、愛を語る歌、娘の誕生を喜ぶ歌も並びます。
本人は後年、曲を時や場所、感情の断片として捉え、アルバムの流れを聴き手として厳しく判断したと話しました。
何をどの順で聴かせるかまで、歌う人の仕事になっていたのです。

写真:Kåre Eide / CC0
1974年の「Boogie On Reggae Woman」では、本人があえて言葉を少し崩したような声を望みました。
曲ごとの声の選択や録音の距離については、スティーヴィー・ワンダーの歌い方で掘り下げています。
「Fingertips」で売り出された少年の声は、変声期を経て同じままには残りませんでした。
しかし、そこから声の出番が減ったわけでもありません。
「Uptight」では新しい人物の言葉を歌い、「Living for the City」では街の物語と怒りを担い、「I Wish」では大人の自分から子どものころを振り返る。
危うくなったのは「少年スター」としての売り方であって、歌で人へ話しかける力ではなかったのです。

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