ジョン・レノンの歌唱変遷|ロックの叫びから、告白と親密な歌へ

1960年のパスポート用セルフポートレート、ジョン・レノン(公式サイト掲載) シンガー
1960年のパスポート用セルフポートレート、ジョン・レノン(公式サイト掲載)

ジョン・レノンの声を思い浮かべるとき、真っ先に浮かぶのは、少し荒れた響きでしょうか。
それとも、自分ひとりに話しかけてくるような近さでしょうか。
その両方が、彼の歌にはあります。

ビートルズの初期から1980年の『Double Fantasy』までをたどると、変わったのは声の強さだけではありません。
声をどんな音に作り、どんな言葉を、誰に向けて歌うのか。
その選び方が変わるたびに、同じ人の歌が違った表情を見せてきました。

1963年――「Twist and Shout」に残された、声の勢い

初期を代表するのが、『Please Please Me』の最後に収められた「Twist and Shout」です。
1963年2月11日、アルバムを集中的に録音した日の終わりに、ジョンはこの曲を歌いました。
採用された歌唱は、最初のテイクです。

ここで前面にあるのは、声をきれいに整えることより、演奏を押し進める勢いです。
後年の本人も、この歌を振り返るときには「歌う」より「叫ぶ」に近いものとして語っています。
激しさは、ソロ以前からありました。

ただ、この一曲を彼の声の完成形と考えると、その後が見えにくくなります。
力を前へ出す歌手が、息を目立たせたり、自分の声を別の音に変えたりする。
ジョンの面白さは、最初に強い個性を持ちながら、その見せ方を固定しなかったことにあります。

1965〜1966年――息も、加工した声も、歌の一部になる

『Rubber Soul』の「Girl」では、歌の合間の吸い込む息までが印象を作ります。
これは偶然残った雑音ではありません。
ポール・マッカートニーは、ジョン自身がその場所に呼吸の音を入れたがっていたと振り返っています。

大きな声で迫るだけでなく、息が聞こえるほどの距離へ近づく。
声を張らない部分にも、その人の存在を残せるようになっていきます。
激しさを弱めたというより、声以外の小さな音まで表現に取り込んだ、と考えるほうが自然でしょう。

翌1966年の「Tomorrow Never Knows」では、逆に、日常の話し声から遠ざかるような音作りに踏み出します。
声には、オルガンで使われるレスリー・スピーカーによる処理が施されました。
さらに、声を重ねたようにするADTも使われています。

ここで変わった響きのすべてを、ジョンの発声の変化として説明することはできません。
歌う身体と、録音した音を変える技術が一緒に働いています。
初期の一回の歌唱が持つ勢いから、スタジオで初めて成立する声の景色へ。
彼の表現は、そうした方向にも広がりました。

1967年――複雑な音の奥に、ギター一本の声があった

「Strawberry Fields Forever」は、その関係をもう少し深く考えたくなる曲です。
完成したレコードの印象が強い一方で、ジョージ・マーティンが最初に聞いたのは、ジョンがアコースティック・ギターを弾きながら歌う姿でした。

マーティンは、その声と簡素な伴奏の組み合わせをとても気に入り、そのままの形でも録音できればよかったと振り返っています。
豪華な音作りの前に、すでに歌そのものの魅力があったのです。

この時期を、声が加工に隠れてしまった時代とだけ捉えるのは惜しい気がします。
加工に向かうジョンと、弾き語りで人を引きつけるジョンが、同時にいた。
その二つを行き来する性格は、後のソロ作品を考えるうえでも大切です。
音を足すことも、少ない音で歌うことも、彼にとっては別々の人格ではありませんでした。

1970年――叫びの向かう先が、自分自身になる

『John Lennon/Plastic Ono Band』、日本では『ジョンの魂』として知られるアルバムで、歌は強く個人の内側へ向かいます。
冒頭の「Mother」は、両親との関係を直接的に扱った曲です。
ピアノ、ベース、ドラムを中心とする編成の中で、歌が背負うものが大きくなっています。

初期の「Twist and Shout」が持っていた激しさを思い出すと、ここで新しいのは、叫べるようになったことではないとわかります。
同じ激しさが、聴き手を沸かせるだけでなく、自分の痛みを差し出すものになった。
その違いが、歌の受け止められ方を変えています。

この変化は、当時受けていた心理療法と結びつけて語られがちです。
しかしジョン自身は、叫ぶ歌はそれ以前にもあったと指摘しています。
また、ソロ録音では周囲に受け入れられていると感じ、以前よりくつろいで歌えたとも話していました。
歌う環境も、声に関わっています。

ギターを弾くジョン・レノン、1970年(撮影:Yoko Ono)
ギターを弾くジョン・レノン、1970年(撮影:Yoko Ono)。
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1971年――自分の弱さを、相手へ認める歌

『Imagine』の「Jealous Guy」では、個人的な感情が、別の形で歌になります。
もともとはインド滞在時の体験から生まれた別の歌詞を持つ曲でした。
その旋律に、自分の嫉妬や不安を認める言葉を与えたことで、歌の中心が変わりました。

「Mother」の切迫した訴えに対して、こちらは、自分の弱さを相手へ認める歌です。
同じ強さで押す必要はありません。
ソロ初期のジョンは、むき出しの感情を歌にする方法を、一つに決めてはいませんでした。

1973年――「One Day (At A Time)」では、裏声を選ぶ

1973年の『Mind Games』には、声の選択がはっきり表れた曲があります。
「One Day (At A Time)」です。
ジョンには比較的珍しい、ファルセットを中心に据えたリード・ボーカルが使われています。

本人によれば、全体を裏声で歌うのはヨーコの提案でした。
初期の録音には裏声を使わないガイド・ボーカルも残され、後に『John Lennon Anthology』で公開されています。
つまり、いつもの声が出なくなったためにこうなったのではなく、別の歌い方がある中で選ばれた表現です。

1975年――深い意味を背負わず、歌うことを楽しみたい

その一方で、ジョンには、個人的な主題を歌い続けることから離れたい気持ちもありました。
1975年の『Rock ’n’ Roll』について、本人は、深刻な自作曲の合間にスタジオで歌っていたロックンロールを、アルバムにしたかったと話しています。

当初はフィル・スペクターに制作を任せ、自分は歌うことに専念したいと考えていました。
実際の完成までには紆余曲折がありましたが、出発点にあったのは、もっと歌うことを楽しみたいという思いです。

自分を告白する曲を書けるようになった後も、歌う楽しさはそこだけにあるわけではない。
好きだった歌を自分の声で歌う喜びが、再び作品の中心に置かれます。
初期のロックンロールへの愛情は、後の表現に置き換えられず、ずっと残っていたのです。

1980年――昔の歌手を思い出しながら、今の生活を歌う

約5年ぶりのアルバムとなった『Double Fantasy』では、ジョンとヨーコの曲が交互に置かれ、二人の対話のような構成になりました。
家庭ではデモも作っていましたが、本格的な録音への復帰には緊張もありました。

制作を担当したジャック・ダグラスは、ジョンが当初、自分の歌声に不安を持っていたと振り返っています。
「Watching the Wheels」では複数の歌唱からマスターを組み、その仕上がりをきっかけに本人の自信が戻ってきたといいます。
復帰の声は、長い休みを経たから自然に完成していたのではなく、スタジオで確かめながら形になりました。

一方、「(Just Like) Starting Over」では、エルヴィス・プレスリーやロイ・オービソンを思わせる歌い方を、遊び心とともに取り入れています。
昔の声を再現するためではなく、今を歌うために、昔の歌手の感触を借りているのです。

父親として息子へ向けた「Beautiful Boy」も、このアルバムにあります。
「Mother」で親に呼びかけた人が、今度は親の立場から子どもへ歌う。
十年の隔たりは、単純な声量の増減より、声の向かう相手の違いに表れています。

1977年夏、日本でフリスビーをするジョン・レノンと息子ショーン(撮影:Nishi F. Saimaru)
1977年夏、日本でフリスビーをするジョン・レノンと息子ショーン(撮影:Nishi F. Saimaru)。
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ジョン・レノンの歌は、叫びを捨てて穏やかになった、という一本道ではありません。
息、加工した響き、少ない伴奏、裏声、昔のロックンロールの感触。
その都度、歌に必要な声との付き合い方を探しています。
強烈な個性がありながら、自分の声を一つの使い方に閉じ込めなかったこと。
そこに、この歌手を時期をまたいで追いかける面白さがあります。

息遣いや裏声、マイクとの距離から見る表現は、ジョン・レノンの歌い方でも掘り下げています。

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