1977年、エルトン・ジョンは録音スタジオでピアノを弾きませんでした。
すでに自分の弾き語りで知られていた彼が、トム・ベルの制作する曲では歌だけを任されたのです。
そこで言われたのは、まだ使い切っていない低い音域と、呼吸のことでした。
「エルトンの声は1987年の喉の手術で低くなった」という説明は、本人の証言にも沿っています。
ただ、低い声に目を向けたのは手術より前。
後年は声の響きや歌手としての役割についても、新しい考えを持つようになりました。
一度の手術で昔の声を失った、というだけでは語れない歩みを、録音と本人の言葉から追います。
1970年代|ピアノを弾きながら歌う、若い日の声
1971年のテレビ番組『Top of the Pops』で、エルトンは「Your Song」を歌っています。
2004年の取材では、1973年の『Goodbye Yellow Brick Road』の頃と比べて声色が低くなり、裏声も以前ほど使えなくなったと話しました。
ここにあるのは、その変化より前の本人の歌です。
当時から彼の仕事は、曲を作り、ピアノを弾き、自分で歌うことでした。
ただ、歌手としての学びがそこで終わったわけではありません。
世界的な成功を収めたあと、鍵盤から離れて声だけに集中する機会が訪れます。

写真:more19562003 (Flickr) / CC BY 2.0
1977年|トム・ベルに、使っていない低音を指摘される
1977年10月、エルトンはソウル音楽のプロデューサー、トム・ベルとシアトルで6曲を録音しました。
エルトンはベルが手がけたスピナーズやスタイリスティックスの音楽を好んでいました。
自分の作品で初めて、ピアノもほかの楽器も弾かず、歌に専念します。
普段なら曲を作るところから関わるエルトンが、このとき共作したのは6曲のうち2曲だけでした。
制作をいつも以上にベルへ委ねるという約束に、ベルのほうが、本当にそれでよいのかと念を押したほどです。
エルトンは途中で自分のやり方へ戻そうとせず、その約束を守りました。
よく知る鍵盤と制作の主導権を手放したことが、自分の声を別の人の耳で捉え直す機会になったのです。
ベルが勧めたのは、低い音域をもっと使うことと、呼吸を見直すことでした。
エルトンはのちに、ベルを自分の声について初めて教えてくれた人だと振り返っています。
高い音を失ったから低音へ移ったのではありません。
手術の約10年前に、今まで十分に使っていなかった音域を教わっていたのです。
ベルは、声を自分の思い通りに動かすより、その声や言葉の区切り方を聴いて、どんな旋律が合うかを考えると説明しています。
エルトンの英国的な言葉の発音も、その手がかりでした。
低い声への助言は、単に音を下へ伸ばす課題ではなく、この歌手の声で何を歌わせるかという制作の中で生まれています。
この録音の「Mama Can’t Buy You Love」など3曲は1979年に先に出ました。
全6曲を収めた『The Complete Thom Bell Sessions』は1989年の発売です。
次の音源も1989年の新録ではなく、1977年の歌。
発売年だけを追うと、声を教わった時期を取り違えてしまいます。
1986〜1987年|公演中の不調と、喉の手術
1986年末のオーストラリア公演では、声の不調を抱えていました。
最後のシドニー公演では、バンドにメルボルン交響楽団も加わり、「Don’t Let the Sun Go Down on Me」を歌っています。
大編成の記録であると同時に、喉に問題を抱えた特定の日の歌でもあります。
この一曲を、その年代のいつもの声と決めつけることはできません。
公演から約3週間後の1987年1月、エルトンはオーストラリアで喉の手術を受けました。
2004年の本人の説明では、その頃から声色が変わり、以前より低くなりました。
しかし彼が後に語ったのは、変化した声をどう使うかという話でもあります。
2000〜2004年|同じ曲を歌い続け、自分の声を評価し直す
2000年、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンでも「Don’t Let the Sun Go Down on Me」を歌いました。
1986年のシドニー公演から14年後、手術を経たあとの記録です。
二つの映像は同じ曲ですが、一方は喉の不調があった日のオーケストラとの共演、もう一方はバンドとの公演。
演奏の厚みや当日の条件も違うことを踏まえると、単純に声の優劣を決める比較にはなりません。
2004年、エルトンは「以前ほど裏声を使えなくなった」という評を、ある程度その通りだと受け止めていました。
その一方で、すべての曲を低いキーへ移したわけではなく、昔と同じキーで歌う曲もあると説明しています。
音の高さと声色は別の話です。
彼は声に響きが増したと感じ、以前より今の声を気に入っていました。
その変化を手術だけに任せたわけでもありません。
呼吸を学び、ほかの歌手を見てきたことで、自分は「歌うピアニスト」から「ピアノを弾く歌手」へ変わった、と本人は表現しました。
録音で目指すものも、若い時代の再現とは違っていました。
2004年の本人は、過去の作品に目を向けることはできても、同じスタジオや演奏者、空気まで再現することはできないと話しています。
そのうえで望んだのは、よい曲を書き、よく歌うことでした。
変化した声を昔の録音に近づけるより、その声を生かす現在の作品を作ろうとしていたのです。
2004年のアルバム『Peachtree Road』は自ら単独で制作し、自分の声にはほとんどエコーをかけていないとも語っています。
当時、公演を重ねていた自分のバンドと、まとまった一組として録音に入ることも大切にしました。
長く舞台で歌ってきた声と、それを日々支える演奏を、同じ作品に残す選択でした。
声をどう録音へ残すかまで、自分で選ぶようになっていました。

写真:Tony Hisgett from Birmingham, UK / CC BY 2.0
2023〜2025年|主旋律の隣で歌う
ツアーを終えた2023年秋、エルトンはブランディ・カーライルと新しいアルバムを録音しました。
2025年発表の『Who Believes in Angels?』です。
共演曲「Swing for the Fences」では、ブランディが主旋律を歌い、エルトンは別の音を重ねるハーモニーを担当しました。
エルトンが望んだのは、力と活気のある作品であり、ブランディが歌をさらに伸び伸びと展開できる曲でした。
ブランディは、二人がそれぞれの人生を築いてきた姿を通じて、若い性的少数者を励ます歌にしたかったと説明しています。
相手を支える歌には、役割の分担だけでなく、一緒に誰へ何を届けたいかという目的もありました。
多くの歌手とデュエットしてきた彼にとっても、今回は慣れた一行ずつの歌い分けではありません。
エルトンは、ブランディの歌を支える役割を難しく感じたと話しています。
若い日の自分と同じ声を出すかどうかとは別に、今の声を使って何を引き受けるかを変えているのです。
制作は、初めからすべて順調だったわけではありません。
本人は「Swing for the Fences」が形になったとき、アルバムの進む方向が見え、それまでの不安が薄れていったと振り返っています。
慣れていない歌の役割を試した一曲が、作品全体への手応えにもつながりました。
変わった声の、使い道を増やし続ける
1977年には低い音域を使うよう教わり、1987年の手術後は声色の変化を経験しました。
2004年にはその響きを気に入り、呼吸や録音の仕方も自分で考える歌手になっていました。
そして近年は、もう一人の歌手の主旋律を支える声にも取り組んでいます。
エルトンは変化した声で、昔の曲も新しい曲も歌い続けています。
その時々で声に何を任せるかを考え直すことが、この長い変遷の中心にあります。
歌詞を受け取って旋律を作り、その言葉をどう歌うかは、エルトン・ジョンの歌い方で扱っています。

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