マイケル・ボルトンの歌声はどう変わった? ロックからバラードへ、成功後の学び直しまで

2022年、イベントに登場したマイケル・ボルトン シンガー
Gage Skidmore / CC BY-SA 3.0

1995年、イタリアのモデナでルチアーノ・パヴァロッティとの共演を控えたマイケル・ボルトンは、リハーサルで「テノールを勉強したようだ」と声をかけられました。
ボルトンが勉強していたのは、ほかならぬパヴァロッティの歌です。
そして、自分はこれまで声をどう扱ってきたのだろう、と打ち明けました。

その時点でボルトンは、すでにバラードで大きな成功を収めていました。
にもかかわらず、なぜ歌い方を考え直したのでしょうか。
自分で歌う曲を選び直した1980年代と、成功後に声との付き合い方を変えた1990年代。
この二つの転機を、初期のロック作品からたどります。

1983〜85年|バラードを書きながら、ロック歌手を目指していた

『Everybody’s Crazy』を出した1985年まで、ボルトンはソロでもロックを歌っていました。
一方、作曲家としては、ローラ・ブラニガンが1983年に発表した「How Am I Supposed to Live Without You」のようなバラードをほかの歌手へ渡しています。
自分のアルバムで歌う曲と、書き手として送り出す曲の方向が分かれていたのです。

本人は後に、ロック歌手としてのアルバムが続けて成功しなかった時期、家族を養うためにほかの歌手へ曲を書いていたと振り返っています。
ただ、売れなかったから急にバラードが歌えるようになった、という話ではありません。
レコード会社には、提供曲のデモで歌う彼の声を気に入り、録音を持ち帰るスタッフがすでにいました。

他人のために書く時間は、歌手としての仕事を待つだけの期間でもありませんでした。
ボルトンは、毎日のように曲を書いては誰かに歌ってもらう作家たちと働き、その姿から学んだと話しています。
自分がスターになることより、一曲をよくすることに夢中な人たちがいたのです。
その中で磨いた曲を、デモでは自分の声で歌っていました。
書き手としての経験と歌手としての力が、そこでつながっていたのでしょう。

1987年|人に渡していた曲を、自分で歌う

デモを持ち帰るスタッフの反応をボルトンに伝えたのが、コロムビア・レコードのアル・テラーです。
本人の回想では、テラーはもう一枚ロックアルバムを作るのではなく、スタッフが持ち帰っているデモのような作品を作ろうと提案しました。
ボルトンは、1987年の『The Hunger』で「That’s What Love Is All About」を歌います。
数年前なら、ルーサー・ヴァンドロスに渡していたかもしれない曲だと、本人は話しています。

変化の中心は、声の強さそのものではなく、その声を置く曲でした。
ロック作品で自分の声を前に出していた歌手が、他人のために書いていたバラードを、自分の名前で届け始めたのです。

1989年の『Soul Provider』では、ブラニガンに提供した「How Am I Supposed to Live Without You」を本人が録音しました。
以前は作曲者として知られた曲が、今度は歌手ボルトンの代表曲になります。
自作曲を自分で歌うことは、ロックを諦めた結果というより、自分の歌手としての居場所を見つける選択でした。

この曲は、ダグ・ジェイムズとピアノのあるスタジオで書いた共作です。
ボルトンによれば、当初はエア・サプライが録音する話もありましたが、レコード会社側が求めたサビの歌詞変更を断り、別の歌手へ渡りました。
他の人に歌ってもらう段階から、どんな言葉を残したいかを選んでいた曲なのです。
1989年に本人が歌ったことで、その作り手の判断と、表に立つ歌手の声が同じ名前で届くようになりました。

1990年のマイケル・ボルトン
1990年のマイケル・ボルトン。
写真:Alan Light / CC BY 2.0

一曲の中で力強い声をどう使い、相手を思う弱さをどう伝えるかは、マイケル・ボルトンの歌い方で詳しく扱っています。
ここで追いたいのは、歌う曲と声の扱い方を、時代ごとにどう選び直したかです。

1993〜94年|成功した声にも、立ち止まる時期があった

1993年の『The One Thing』に収めた「Said I Loved You…But I Lied」も、ボルトンが大切にしている自作の歌です。
本人は、プロデューサーのマット・ラングが曲を独特の録音に仕上げたことを振り返っています。
提供曲を自分で歌う段階から、新しいヒット曲を自分の作品として作る段階へ進んでいました。

ところが本人への取材によると、翌1994年には声帯の結節が見つかり、手術のためツアーを取りやめます。
歌い続けられるか分からない時間を、ボルトンは後に怖かったと語りました。
それでも本人は、この時点ではウォーミングアップすら習慣にしていなかったと振り返っています。
手術を受けたことと、声を使う日々の方法を見直したことは、同じ出来事ではありませんでした。

1995〜98年|パヴァロッティとの共演が、練習の意味を変えた

1995年のモデナ公演では、パヴァロッティと歌劇『道化師』の「Vesti la giubba」を歌いました。
ボルトンはこの一度の共演に向け、約2か月をかけてイタリア語とオペラを学んだと話しています。
リハーサルで自分の歌い方への疑問を口にすると、パヴァロッティは、これほどレコードを売ってきたのだから、できていたこともあるはずだと返しました。
過去の成功を否定するためではなく、その声をさらに知るための勉強になったのです。

ボルトンは、この準備を通じて声をいたわる意識が変わったと説明しています。
後年『Soul Provider』の録音を聴き、「ほとんど別の声」のように感じたとも語りました。
昔の歌が間違っていた、という話ではありません。
それまでしていなかったウォーミングアップを含め、声を使う前の準備にも目を向けるようになったのです。

惹かれたのは、テノールの高音だけではありません。
ボルトンは、高い音を長く保つ制御と力に関心があったと話しています。
共演の準備ではイタリア語の発音も学び、この経験を通じて練習を続ける規律の大切さを知りました。
大きな声を持っていることと、必要な瞬間にその声を使えることは違います。
成功した持ち歌を離れて学んだ経験が、声への自信を捨てずに、扱い方を見直すきっかけになったのでしょう。

1998年には、フィルハーモニア管弦楽団と制作した『My Secret Passion: The Arias』を発表しました。
「Nessun dorma」を含むオペラのアリアを一枚のアルバムにしたことで、学んだ音楽は共演の一夜だけで終わりませんでした。
ロックの歌手、バラードの歌手として歩んだ先で、別の歌を自分のレパートリーに加えたのです。

1997年、ワシントンD.C.でのマイケル・ボルトン
1997年、ワシントンD.C.でのマイケル・ボルトン。
写真:John Mathew Smith & www.celebrity-photos.com / CC BY-SA 2.0

2023年|昔の曲を守りながら、新しい曲を作る

ボルトンはその後も代表曲を歌い続け、2023年には『Spark of Light』を発表しました。
本人にとって、オリジナル曲を中心としたアルバムは約14年ぶりです。
制作では若い作曲家やプロデューサーと組み、互いに新しい音楽と長く歌われる曲の作り方を持ち寄ったと説明しています。
パンデミック中も小さなスタジオで書く作業を続けました。

ジャスティン・ジェッソとの「Beautiful World」も、そのアルバムの一曲です。
二人が書いた背景には、ロックダウン中に感じていた重苦しさがありました。
ボルトンは、先の見えない状況の中で希望を表したかったと説明しています。
若い共作者を迎える際も、新しさだけでなく、自分が共感できる旋律と言葉を大切にしていました。
共演相手に合わせて自分を消すのではなく、長く歌ってきた声に託せる新しい歌を探していたのです。

昔のヒットを新録するのではなく、別世代の共作者と、今届ける歌を作った。
自分の声を生かす曲を選び直した1980年代から、曲の作り手としても歩みを止めていません。

ボルトンの変遷を、ロックの声がバラードの声に変わり、オペラの声になった、と一列に並べることはできません。
初めに変えたのは、自分が歌う曲です。
成功してから変えたのは、歌うための準備と声への向き合い方でした。
過去の代表曲を持ちながら、新しい曲にも自分の声を使う。
ボルトンは、声に任せる仕事と、その声を使い続ける方法を変えてきたのです。

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