石井竜也(米米CLUB)の歌声はどう変わった?「浪漫飛行」を今の声で歌い直すまで

机の前で頬に手を添える石井竜也 シンガー
石井竜也。出典:TVガイドWeb(2025年インタビュー)。

石井竜也が2023年に「浪漫飛行」をソロ名義で録り直したとき、あえてサビから歌い始めました。
本人はその前年からソロ公演でも新しい編曲を試しており、若い頃の録音より今の歌い方や声のほうが好きだと話しています。
誰もが知る米米CLUBの曲を、なぜ原曲の形に戻さずに歌いたかったのでしょうか。

大きな舞台の中心で歌ってきた人が、華やかなショーを続けながら、歌そのものを近くで聴かせる場所も選べるようになる。
本人の言葉と作品をたどると、声の使い方と、声を置く場所の両方が変わっていきます。

1987~93年|「浪漫飛行」を大きなショーで歌う

石井は1985年に米米CLUBのボーカリスト、カールスモーキー石井としてデビューしました。
歌うだけでなく、ステージセットや衣装を含めてショーを作る人でもあります。
「浪漫飛行」は1987年のアルバム『KOMEGUNY』で発表され、1990年にJALのCM起用とシングル化によって広く知られるようになりました。

当時のスタジオ版について、石井は後年、打ち込みで制作した曲だったと振り返ります。
一方、1993年の公演「SHARISHARISM ACE -THE 8TH OF ACE-」では、舞台上の米米CLUBが演奏する「浪漫飛行」が映像として残っています。
録音した年と大きな会場で歌った年は違う。
この曲は早くから、同じメロディーを編成や場面に合わせて動かせる歌だったのです。

米米CLUBの再始動後には、ホーンセクションを加えてライブで盛り上がれる「浪漫飛行 ’07」も作りました。
元の打ち込みの質感を守り続けるより、バンドがその時に客席へ届けたい形を選んだ。
のちに石井自身がソロで歌い直すことは、突然の方向転換ではありません。

1997~2004年|ソロになっても、派手さはすぐには手放せなかった

米米CLUBが1997年に一度解散すると、石井はソロ活動を始めます。
同年の「WHITE MOON IN THE BLUE SKY」は、その出発点を示す曲の一つです。
米米CLUBで培った舞台の華やかさを捨て、静かに歌う人になったわけではありません。

2004年の取材で、石井は普段の公演ではダンサーやホーンを伴う派手なステージを作っていると話しました。
同年の「NYLON CLUB SUPER DELUXE」に残る「HI TENSION LOVE」も、そうしたソロの舞台の一面です。
歌を聴かせることと、観客をショーに巻き込むことは、石井にとって長く切り離せないものでした。

しかし同じ2004年、彼は「SKETCH」でギター、ベース、ドラム、キーボードによる小編成を選びます。
初めて来る人が、全員で踊る公演にいきなり放り込まれず、まず歌を聴ける場も作りたかった。
本人は、米米CLUBの派手なイメージの中では試しにくかったことを、ソロだからこそ自由にやってみたいと語っています。

小さな会場を選ぶこと自体、周囲には意外だったようです。
石井は、そばにいる客を自分の歌で納得させることを、新たな挑戦と捉えていました。
若い奏者との小編成でも、バラードだけに限定するつもりはなかった。
編成を変えることで、歌を聴かせる力と、会場を楽しませる力の両方を試そうとしていたのです。

大きなショーは続けながら、伴奏を絞った会場で歌を前に出す。
ソロになって増えたのは、声を届ける方法でした。

ギターを持つ石井竜也
2015年のインタビュー掲載写真。
撮影:Naoki Hashimoto/出典:Mikiki。

2015年|周年の舞台でも、自分が歌い通すと決めた

ソロの立ち位置は、その後も考え続ける課題でした。
デビュー30周年の2015年、石井は、米米CLUBと一緒に祝うべきか、自分一人の公演にするかを悩んだと語っています。
米米の中にいた自分も含めて、一人の歌手としてどんな舞台を見せるかという問題でした。

25周年の際には多くのゲストを招いていましたが、今回は自分が歌い通そうと決めます。
長く衣装や舞台を作ってきた人が、周年だからと他の歌手に支えてもらうより、自分で歌う姿をファンに見せたいと考えたのです。
華やかな演出をやめる決断ではありません。
その舞台の中心を、自分の歌で引き受けるという選択でした。

同年10月の日本武道館公演「ARROWS HEAD」では、ソロ曲と米米CLUBの曲を織り交ぜ、約三時間で33曲を披露しています。
それぞれの時期の曲を、一人の歌手としてまとめて客席へ渡す公演になりました。

40代、50代を経て|声の揺れと濃い歌い回しを、自分の表現へ

歌そのものについても、初めから現在の形が完成していたわけではありません。
石井は2020年、ビブラートが出てきたと感じたのは40歳を過ぎた頃だったと振り返りました。
本人は、長く声を伸ばすための技術として、その揺れを捉えています。

司会のピストン西沢が「ヒハマタノボル」の大きな揺れに驚いた際も、石井は今なお勉強することがあると答えました。
声を伸ばす時間に現れる特徴と、長く歌ってきた経験を、本人は結びつけていたのです。

声の揺れに加え、言葉を出すタイミングも変わっていきます。
2020年の別の放送で、西沢は石井の歌い出しがここ数年でいっそう遅く、粘るようになったと指摘しました。
石井はそれを自分では「重さ」と呼んでいると笑いながら、こういうふうに歌いたかったのだと答えています。

本人によれば、50歳に入った頃までは、その濃い歌い方を少し恥ずかしく感じていました。
いまは恥ずかしいと思うところまで行ってみようと考える。
つまり、時間が経って声が勝手に変わったという話ではありません。
かつてためらっていた言葉の置き方を、自分の表現として選ぶようになったのです。

同じ取材では、明るい恋の曲から失恋の曲へ移る際、気持ちが歌に入るまでの過程も話しています。
曲中で感情をどう切り替えるか、言葉をどれほど引きつけて歌うかは、石井竜也の歌い方で一つの公演に絞って扱いました。
ここで大切なのは、その歌い回しを石井自身が以前より許せるようになったという時間の変化です。

近い客席で見つけた、歌だけで立てる場所

2017年に始まった「LIKE A JAZZ」では、ジャズの編曲を交え、客席の近い場所で曲を届けました。
石井は一万人の前でも歌ってきたのに、Billboard Liveでは目の前に観客がいることに手が震えるほど緊張したと振り返ります。
会場が小さければ簡単になる、という予想とは逆の体験でした。

その公演を重ねて気づいたのは、ソロの舞台でも、米米CLUBの華やかなショーを見てきた客を満足させなければ、と長く考えていたことです。
飾りの少ない、歌を中心にしたステージでも楽しんでもらえる。
その自信がつき、エンターテインメントの捉え方が少し変わったと本人は話します。

2022年のツアー「ISHYST」では、自ら全曲を座って丁寧に歌うスタイルを選びました。
コロナ禍を経た観客に、落ち着いて歌を聴いてもらいたかったからです。
ダンスやセットを使う米米CLUBの活動を終わらせたわけではありません。
賑やかなバンドの石井と、歌をじっくり聴かせるソロの石井を、その時に届けたいものによって使い分けています。

正面を向く石井竜也
石井竜也。
撮影:森好弘/出典:音楽ナタリー(2022年インタビュー)。

2023~25年|昔の代表曲に、現在の声を入れる

2023年、さまざまな歌手が「浪漫飛行」を歌うトリビュート盤に、石井自身もソロ名義で参加します。
前年からソロ公演で新しい編曲を試し、録音ではサビ始まりにしました。
すでに多くの人の耳にある原曲を、自分でもう一度歌うために、新しい始まり方を選んだのです。
本人は、今の歌い方と声を好んでいるとも語っています。

2025年には米米CLUBの17人で「THE FIRST TAKE」に出演し、同じ「浪漫飛行」を歌いました。
1993年の公演映像、2023年のソロ再録、2025年の一発撮りは、ライブ、スタジオ録音、スタジオでのセッションという条件がそれぞれ違います。
一つの曲をバンドのショーにもソロの再解釈にも戻せる、石井の選択肢が見えてきます。

長く愛される「浪漫飛行」でも、石井自身の歌い方は最初の録音に固定されていません。
米米CLUBでは舞台ごとに曲を動かし、ソロでは歌だけで届く場所と、ためらわず濃く歌う間合いを得た。
その積み重ねがあったからこそ、よく知られた曲にも、今の自分の声で新しい始まりを作れたのでしょう。

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