山本譲二さんの歌声は、別人のように何度も姿を変えたわけではありません。
変わったのは、太く真っすぐな声に何を背負わせるかでした。
伊達春樹として売れなかった頃には、生き残るための声でした。
「みちのくひとり旅」が遅れて大ヒットすると、一曲の主人公だけでなく、「不器用でも前へ進む男」という山本さん自身の物語まで聞かれる声になります。
2009年には右耳の聴力が大きく低下し、自分の声を聞く条件そのものが変わりました。
それでも機器を使い、静かな曲では大声を引き、50周年にはメタルで叫ぶところまで進みます。
山本譲二さんの変遷は、若い声を保存した歴史ではありません。
同じ一本の声を、失敗、成功、病気、家族、遊び心へ結び直してきた歴史です。
1968〜1978年、二つの名前を通っても歌手になり切れなかった
高校卒業後に上京した山本さんは、新宿で弾き語りをしていた時に作曲家の浜圭介さんと出会いました。
1974年には伊達春樹の名で「夜霧のあなた」を発表しますが、念願のデビューは生活を変えてくれませんでした。
翌年から北島三郎さんの楽屋へ何度も通い、付き人兼前歌として舞台の裏側へ入り込みます。
1976年には全日本歌謡選手権を10週勝ち抜いたものの、本人の回想では、それでも期待したほど仕事は増えませんでした。
1978年、本名の山本譲二で「北ものがたり」を歌い、もう一度デビューします。
名前を戻せばすぐ売れた、というきれいな再出発ではありません。
事務所で電話番をし、光熱費を止められるほどの暮らしが続きました。
この時期の歌声を、後の大ヒットだけから逆算すると、最初から完成していたように見えてしまいます。
実際には、歌手という肩書を一度得て、選手権も勝ち抜き、それでも届かない時間がありました。
北島さんから学んだのも、声を大きく見せる方法だけではありません。
番組へ出られても前へ出すぎないこと、作品と周囲への礼を忘れないことでした。
後に山本さんの声が「男の生き方」と重なって聞かれる背景には、この売れない年月があります。
1980〜1984年、「みちのく」の一発では終わらない歌手になった
30歳で出会った「みちのくひとり旅」は、発売直後から全国を席巻した曲ではありません。
関西の有線放送から火がつき、時間をかけて広がり、1981年には100万枚の大ヒットとなりました。
山本さん自身、これがだめなら歌手を諦める時期だと考えていました。
ゆっくり走っていた列車が、突然、超特急になったようだったと後に語っています。
売れたことで、声の意味も変わります。
それまでは仕事を得るために歌っていた人が、テレビへ登場した瞬間から、日本中が知る「みちのくの男」を毎回成立させなければならなくなりました。
しかし、山本さんを代表曲だけの歌手にしなかったのは、1984年の「奥州路」でした。
同曲は古賀政男記念音楽大賞の大賞を受け、当時のプロデューサーも、この曲をあのように歌えるのは山本さんだけだと評価しています。
「みちのくひとり旅」の腕を引く動きは、発売後に野球のスイングから加えられたものでした。
歌と身ぶりが一つになったスター像に続き、「奥州路」では作品の言葉だけでも山本譲二だと認められた。
ここで大ヒットの人から、曲を任せられる歌手へ進んだのです。

2000年の「花も嵐も」で、強さの中へ夫婦の温度が入った
1999年にテイチクへ移籍し、翌年に発表した第1弾が「花も嵐も」でした。
50歳を迎えた時期の再出発で、作品は30万枚を超え、紅白歌合戦への復帰にもつながりました。
この後、「おまえにありがとう」「しあわせの青い鳥」と、男の優しさや夫婦のぬくもりを扱う作品が続きます。
旅立つ男を大きく見せた声が、隣にいる人へ礼を伝える声としても定着していきました。
変わったのは、男性的な太さではありません。
その太さを、孤独だけでなく、支えてくれた相手への感謝にも使うようになったことです。
「みちのくひとり旅」では別れを自分の美学へ変えた主人公が歌われます。
中年期以降の山本さんは、その格好よさの裏側にいた妻との生活を、少しずつ作品の中央へ置くようになりました。
2009〜2022年、声より先に「自分の声を聞く方法」が変わった
2009年、山本さんは右耳の聞こえに異変を感じ、耳の内部に良性腫瘍があると診断されました。
手術で顔面神経へ影響が出る可能性を説明され、状態を受け入れながら治療を続ける道を選びます。
歌手にとって深刻だったのは、音が聞こえにくいことだけではありません。
自分が今どのくらいの音量で歌っているか、伴奏と合っているかを確かめる条件が変わったことでした。
山本さんは、聞こえる側の耳へイヤーモニターで伴奏を届けられる技術に助けられたと話しています。
のちには補聴器も使い、従来とは違う環境で舞台を続けました。
2022年の「睡蓮」は、作曲家協会と作詩家協会の企画から生まれた新しい作品です。
闘病後も過去の曲だけで公演するのではなく、知らない作家の世界へ自分の声を置く仕事が続いていました。
ここを単純な「病気を乗り越えて声量を維持した」という成功物語にはできません。
聞こえ方には現実的な制限があり、機器と医療の助けが必要です。
それでも、条件が変わった後の声を新作へ使い続けたことが、山本さんの本当の継続でした。
2023年、「みちのく忘れ雪」は張らない山本譲二を前へ出した
代表曲の43年後、「みちのく」の名を持つ新曲が届きました。
「みちのく忘れ雪」の録音で、山本さんは最初、どう歌えばよいか分からないままスタジオへ入ったといいます。
考え続けた末に選んだのは、昔の大ヒットを大きく再現することではありませんでした。
しんしんと降る雪のメロディーなら、がならず、大きな声も出さず、素直に歌う。
録音はその歌い方で認められ、妻からも、さらりとしているところがよいと言われました。
若い頃の山本さんには、失敗する怖さより、まず歌う場所を得る必死さがありました。
ベテランになると、失敗してはいけないという緊張を隠して歌うようになったと本人は語っています。
だからこそ、大きな声を出さない選択には意味があります。
出せないから小さくしたのではなく、曲の雪を壊さないために引いた。
長いキャリアで身についたのは、譲二節をいつでも見せることではなく、見せない方がよい場面を選べることでした。
2024〜2025年、妻への歌とメタルが同じ一枚に入った
50周年記念曲「妻よ…ありがとう」は、売れない時代から山本さんを支えた妻へ向けた歌です。
ところが、そのCDのボーナストラックには、吉幾三さんとのメタル曲「言論の自由」が収録されました。
静かな感謝の直後に、激しいギターと叫びが始まる。
普通なら企画の統一感を疑う組み合わせですが、山本さんの50年を考えると、二曲は意外なほど近くにあります。
妻への歌は、振り返るための声です。
メタルは、まだ守りに入らず前へ進むための声です。
山本さんは、これからも三振を恐れずバットを振ると話し、初めてのジャンルへ本気で参加しました。
2025年の50周年公演では、演歌の客席にメタルバンドが登場しました。
「人は旅人」や「ローリング・ストーン」が重いギターで演奏され、「みちのくひとり旅」にもメタルのギターが加わります。
これは、演歌を捨てた転向ではありません。
若い頃から持っていた「勝負する時は振り抜く」という性格を、75歳の新しい舞台へ移した出来事でした。

変わらなかったのは、上手く見せる前に一曲へ賭ける姿勢
伊達春樹のデビューも、全日本歌謡選手権の勝利も、すぐには人生を変えませんでした。
山本譲二という本名で再出発し、「みちのくひとり旅」へ歌手生命を賭けた時、ようやく声と本人の人生が一つになります。
成功後は、「奥州路」で一曲だけの歌手ではないことを示し、「花も嵐も」以降は夫婦の温度を歌へ加えました。
右耳の聴力が大きく低下してからは、機器の助けを受けながら、今の聞こえ方で新作を歌う道を選びます。
そして50周年には、過去をきれいに並べるだけでなく、メタルへ踏み込みました。
変わらなかったのは声の形ではなく、次の一曲を最後の打席のように扱う姿勢です。
山本さんは、うまくいったから振り続けたのではありません。
売れない時も、病気の後も、三振するかもしれない時に振った。
だから現在の声には、若い頃の勢いだけでは作れない、失敗した時間の厚みがあります。
山本譲二の歌声は、失ったものを隠さず次の歌へ進んだ
山本譲二さんの歌声は、「みちのくひとり旅」で完成して止まったのではありません。
最初のデビュー失敗、北島三郎さんのもとでの下積み、大ヒット後の重圧、妻との時間、右耳の聴力低下によって、歌に背負わせるものが変わりました。
2023年には静かな雪を大声で壊さず、50周年にはメタルで思い切り叫びました。
一つの歌い方を守ったのではなく、曲ごとに声の役割を作り直したから、山本譲二の輪郭は残っています。
若い頃とまったく同じ声である必要はありません。
聞こえ方も身体も舞台も変わる中で、今の条件から次の一曲へ進む。
山本譲二さんの50年は、変化を否定せず、それでも打席を離れなかった歌手の物語です。
現在の歌い方で、強い声をどこまで残し、どこで引いているのかは、山本譲二さんの歌い方・発声で詳しく解説しています。






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