大塚まさじさんの歩みは、スターになるための一直線な物語ではありません。
出発点はレコード会社でも大舞台でもなく、大阪で仲間と開いた小さな喫茶店でした。
そこからザ・ディランII、ソロ活動、東京でのバンド結成、全国98か所のひとり旅、映画出演、ラジオへと活動の形は変わります。
声も若い頃の真っすぐさから、低さと粘りを含む語りへ変化しました。
それでも一貫していたのは、歌を作品棚に置かず、人のいる場所へ運ぶことです。
大塚さんの歌唱変遷は、声が上手くなった歴史というより、「どこで誰に歌うか」を何度も選び直した歴史でした。
1969〜1971年|喫茶ディランでは、客と歌い手が分かれていなかった
大塚まさじさんは1950年、大阪府茨木市に生まれました。
1969年、仲間と大阪に喫茶店「ディラン」を開きます。
この店は完成された歌手を鑑賞するだけの場所ではありませんでした。
歌う人、聞く人、曲を持ち寄る人が出会い、関西のフォークが日常の会話から生まれる拠点になりました。
大塚さんの歌に、客席へ一方的に披露する感じが薄いのは、この出発点と無関係ではありません。
声を高く遠くへ飛ばすより、同じ部屋にいる人へ話を渡す。その距離感が、後の小会場での活動にも残ります。
1971年、永井洋さんとザ・ディランIIを結成しました。
店の名前を引き継いだバンド名には、歌が場所と人間関係から生まれた記憶が刻まれています。
1971〜1974年|ザ・ディランIIの声は、後年より若く真っすぐだった
ザ・ディランIIは「男らしいってわかるかい」などを発表し、関西フォークの重要な存在になります。
初期の大塚さんの声は、後年の深い渋みだけで捉えると意外なほど若く、真っすぐでした。
すでに言葉を急がず置く歌い方はありますが、声の表面は比較的清潔で、バンドの中を軽く進みます。
後年の粘りが完成形として最初からあったのではなく、若い輪郭の中に芽として存在していた時期です。
ザ・ディランIIは1974年に解散しました。
大塚さんはグループの再現を続けるのではなく、自分一人の名義で歌が立つ場所を探すことになります。

1976〜1981年|ソロでは、自作と他者の歌を同じ旅へ連れ出した
1976年、初のソロアルバム『遠い昔ぼくは…』を発表します。
「プカプカ」や「天王寺想い出通り」など、後に長く歌われる曲が並びました。
ここで大塚さんは、すべてを自分で書くことだけを歌手の証明にしませんでした。
西岡恭蔵さんをはじめ、仲間が書いた歌を自分の声で預かり、長く歌い続けます。
声はザ・ディランII期より低い落ち着きを増し、言葉の後ろへ余白を置くようになります。
若さを失ったというより、一曲の中に自分以外の人物を住まわせるため、急いで感情を決めない歌い方へ進みました。
1981年の『STREET STREET』まで、アルバムごとに編成は変わります。
それでも声を大きく飾る方向へは進まず、都会、旅、月、酒場といった景色の中で、語り手の立つ位置を探しています。
1982〜1985年|東京でバンドを作り、最後は一人で98か所へ向かった
1982年、大塚さんは活動の拠点を東京へ移し、Love Collageを結成しました。
一人の弾き語りだけでなく、バンドの音へ声を置く時期です。
ところが1985年、今度はギターを抱えて全国98か所のひとり旅へ出ます。
バンドを経験した直後に一人へ戻ったことは、後退ではありません。
大きな音の中で歌う方法を知ったうえで、もう一度、声とギターだけで人に会う道を選びました。
各地の小さな会場では、同じ曲でもその場の空気に合わせ、話す速さや沈黙を変える必要があります。
この旅から、大塚さんの歌声は録音作品の再現より、目の前の人との会話へ近づいていきました。
後年まで続く「全国を歌い歩く人」という姿は、この時期に形になります。
1995〜2011年|歌だけでなく、学校、映画、ラジオへ声の居場所が広がった
1995年、大塚さんはアルバム『風のがっこう』を発表しました。
同じ名を冠した活動は、音楽を一方的に教える場というより、人が集まり、風景や生き方を共有する発想へつながっています。
その後は映画や舞台にも出演しました。
本人は、芝居と歌は方法こそ違っても、何かを人へ伝える点では同じだと捉えています。
この経験は、歌を劇的にする方向ではなく、人物の背景を声の内側へ置く方向と重なりました。
感情を大きく説明せず、そこにいる人が何を抱えているかを聴き手へ想像させる歌い方です。
2011年にはFM COCOLOで番組を担当します。
歌う声だけでなく、話す声で音楽を紹介する役割が加わり、大塚さんの声は演奏者と聴き手の間をつなぐものになりました。
友部正人さんの歌唱変遷にも、歌、詩、旅が長く交差する歩みがあります。
大塚さんの場合は、さらに店やラジオを通し、自分が歌っていない時間にも音楽の居場所を作ってきました。
2017〜2020年|『いのち』では、別れを終点ではなく輪の中へ置いた
2017年、大塚さんはアルバム『いのち』を発表しました。
西岡恭蔵さんが作った「アフリカの月」も収め、長く共に歩いてきた歌を現在の声で歌い直しています。
この時期の声には、若い頃の軽さとは異なる深い影があります。
しかし、過去を懐かしむためだけの作品ではありません。
友人との別れ、月、風、旅を一つの輪へ置き、生きている側が歌を次へ運ぶ構成になっています。
大塚さんが他者の歌を歌い続けた意味が、年齢を重ねた声によってはっきり見える作品です。
2020年には、古い曲を含むライブ作品『歌ってるからうれしいんや』を発表しました。
初期曲の声を若い録音へ戻すのではなく、現在の時間を含んだまま歌う。歌を保存するのではなく、生かしておくという姿勢が表れています。

2020年代|古い歌を歌うことが、昔へ戻ることではなくなった
大塚まさじさんは2020年代も各地でライブを続けています。
喫茶ディランから半世紀以上が過ぎても、活動の中心には、人が集まる場所へ出向いて歌うことがあります。
古い歌を長く歌えば、懐メロとして固定される危険もあります。
しかし大塚さんは、その日の声、その土地の空気、亡くなった仲間への記憶を加え、曲を現在の出来事として置き直します。
若い頃より声が低く渋くなったことは、単なる衰えではありません。
歌の中に積み重なった時間を隠さず、聴き手と共有できる音へ変えたということです。
現在の大塚さんを聞く時、初期録音と同じ軽さがあるかだけを比べても変遷は見えません。
一つの歌が何人の記憶を連れ、どれだけの場所を通ってきたかまで聞くと、声の深さが理解できます。
大塚まさじの歌唱変遷は、歌の持ち主から運び手になる歴史だった
大塚まさじさんの声は、ザ・ディランII時代の若く真っすぐな輪郭から、低く粘りのある語りへ変わりました。
しかし本当に大きく変わったのは、声の音色だけではありません。
喫茶店で仲間と歌い、バンドを組み、ソロになり、東京へ移り、最後は全国98か所を一人で巡る。
映画やラジオにも場所を広げながら、他者が書いた歌を何十年も運び続けました。
その結果、大塚さんは歌を所有する人というより、歌が次の人へ届くまで預かる人になりました。
古い曲を歌うたび、過去の再現ではなく、その日までの時間が加わります。
大塚まさじさんの歌い方を知ると、個性的な声がありながら物語を追い越さない理由も見えてきます。
声の変遷と活動の変遷が、同じ「歌を人へ渡す」という仕事へ結びついているからです。






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