加川良の歌声はどう変わった?「教訓I」からメンフィス、晩年の『みらい』まで

ステージでギターを弾く加川良 シンガー

加川良さんの歌声は、1971年の「教訓I」で完成したのではありません。
むしろ加川さんは、昔の作品を自分の結論のように扱われることへ抵抗し、フォーク、ブルース、メンフィスのリズム、轟音のロックを渡り歩きました。

初期の乾いた語り口は消えませんでしたが、その声が背負う音楽は何度も変わっています。
変遷を追うと、「教訓の人」という分かりやすい看板から離れ続けることが、加川良という歌手の一貫性だったと見えてきます。

1970〜1972年|「教訓I」は完成形ではなく、偶然開いた入口だった

加川良さんは、もともと音楽出版の仕事をしながら高田渡さんらに同行し、フォークを歌い始めました。
1970年の中津川フォークジャンボリーで「教訓I」を披露し、翌1971年に同名アルバムでデビューします。

「教訓I」のもとになったのは、身近な印刷物で見つけた文章でした。
政治的な時代の空気を正面から叫ぶより、皮肉を含んだ言葉を乾いた声で置いていく歌唱は、強い印象を残します。

ところが、この成功は加川さんにとって便利な出発点であると同時に、長くつきまとう看板にもなりました。
反戦歌の歌手、関西フォークの人、教訓の人という説明は分かりやすい一方、その後の音楽を狭く見せてしまうからです。

1972年の『親愛なるQに捧ぐ』では、「下宿屋」のように、長い私的な話を歌へする方向が深まります。
社会へ向けた言葉から、一人の暮らしや記憶へ視線が移り、声も演説より朗読に近い時間を持つようになりました。

若い頃にギターを弾く加川良

1973〜1974年|メッセージより「歌そのもの」を探し始めた

1973年の『やぁ。』、1974年の『アウト・オブ・マインド』へ進むにつれ、加川さんは政治的な主張だけで歌を支える場所から離れていきます。

これは過去を否定したというより、言葉が正しければ音楽も強い、という単純な関係を疑い始めた変化でした。
本人は後年、言葉の意味が分かることより、「音」として届くことへ関心を語っています。

初期の歌では、聴き手が内容の鋭さにまず驚きました。
この時期からは、声の間、ギターとの呼吸、物語が進む速度そのものが、歌を聴かせる理由になります。

岡林信康さんの歌唱変遷にも、社会的な看板から逃れ、別の音楽へ移った時期があります。
ただし加川さんは大きく沈黙するより、作品を出しながら静かに外套を脱いでいきました。

1976〜1978年|メンフィスの太い音が、声を別人にしなかった

1976年の『南行きハイウェイ』は、変遷の中で最も分かりやすい転換点です。
石田長生さんのプロデュースでメンフィスへ渡り、現地のリズム隊、オルガン、ホーンを迎えて録音しました。

初期の弾き語りから見れば、伴奏の景色は一変しています。
それでも加川さんの声は米国音楽の模倣にならず、日本語の字余りや土地の匂いを残したまま、R&Bやブルースの太い流れへ入っていきます。

1978年の『駒沢あたりで』でもバンドとの関係は続きました。
乾いていて少し離れた初期の声に、軽さ、温かさ、押し出す強さが加わり、「フォークの人」という枠が音の側から崩れていきます。

この変化を理解すると、加川良さんの歌い方を一つの発声名で説明できない理由も分かります。
声を全部作り替えたのではなく、同じ語り手が置かれる音楽を変え、歌い方の別の面を引き出したからです。

1981〜1983年|十年歌っても「これから始まる」と考えていた

1981年の『プロポーズ』、1983年のライブ盤『A LIVE』へ進んだ頃、加川さんはデビューから約十年を迎えていました。

普通なら、この時点で代表作と歌手像を結びつけ、完成された経歴として語れます。
しかし1982年の対話で、加川さんは高田渡さんや友部正人さんらも含め、本当にやりたいことがようやく始まりかけているのではないかと話しました。

若い頃に好きだったボブ・ディランやニール・ヤングへの憧れだけで、一生歌い続けられるのか。
その疑いがあったから、過去の作品を自分の結論として差し出すことができませんでした。

この時期の重要な変化は、声が急に太くなったことではありません。
自分の歌を完成品ではなく、死ぬまで終わらない過程として引き受けたことです。

1991〜1996年|静かな再出発のあと、過去曲を轟音へ投げ込んだ

1991年の『ONE』、1993年の『2』では、長い活動を経た歌が再び簡素な題名の作品へ集められます。
声は若い頃の鋭さをそのまま保存するのではなく、言葉の間に時間を置き、物語を背負う方向へ進みました。

その直後、1996年の加川良 with TE-CHILI『R.O.C.K.』では、過去曲を大きなロックサウンドで再演します。
静かな成熟だけを予想した聴き手にとっては、かなり乱暴な方向転換でした。

けれど、これは若作りのための衣装替えではありません。
「教訓I」など昔の曲を博物館へ置かず、別の時代の音へ放り込み、まだ現在形で歌えるかを試した作品でした。

過去を捨てるのでも、懐かしむのでもない。
作った歌へ新しい居場所を与えることで、加川さん自身も昔の看板から再び逃れています。

ステージでギターを弾く加川良
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2000年代|音を増やした旅の先で、もう一度歌とギターへ戻った

2002年の『USED』以降、加川さんは自作だけでなく、親しんできた歌を自分の声へ通す作品も発表しました。
全国の小さな会場を、ギターやスライドギター奏者との編成で巡る活動も続きます。

2009年には、童謡「靴が鳴る」を山下洋輔さんと録音しました。
子どもの歌と考えていた曲を改めて読み、大人が言葉と旋律を削ぎ落として作った奥深い歌だと気づいた、と本人は話しています。

バンドの音を経験したあとに、楽器を減らすことは後退ではありません。
加川さんは、最終的には何も足さなくても声だけで人を揺らせる音楽へ憧れていました。

初期の弾き語りへ同じ形で戻ったのではなく、音を増やす面白さを知ったうえで、何を残せば歌になるのかを選び直した時期です。

2016〜2017年|『みらい』とシカゴ公演が、歩みを回顧で終わらせなかった

2016年、加川さんはアルバム『みらい』を発表し、シカゴ大学へ招かれて公演を行いました。
映像に残るステージでは、初期曲も近年曲も一つの長い現在として並んでいます。

同年12月4日の福岡公演が最後のコンサートとなり、その後に入院しました。
2017年4月5日、69歳で亡くなります。

最後のアルバム名が『みらい』だったことは、結果を知る側には象徴的に見えます。
ただし、その題名を予言のように扱う必要はありません。

大切なのは、45年歌った人が最後まで回顧録ではなく、新しい作品を作り、海外の大学で自分の言葉を現在の聴衆へ渡したことです。
1982年に語った「自分の音楽を探す過程」は、昔話にならないまま続いていました。

加川良の変遷は、「教訓I」から遠ざかっては戻る旅だった

加川良さんの歌声には、初期から晩年まで乾いた話し声のような輪郭があります。
変わらなかったのは、その音色より、歌を生活者の側へ置く姿勢でした。

一方で、声が暮らす場所は大きく変わりました。
社会的な言葉、個人の物語、メンフィスのリズム、轟音ロック、童謡、小会場の弾き語りを通り、同じ人の声が別の役割を獲得しています。

「教訓I」は加川良さんを知る入口として今も強い曲です。
しかし、その入口だけで足を止めると、本人が最も嫌ったであろう「昔の作品が結論になる」見方へ戻ってしまいます。

加川良さんの歌唱変遷とは、代表作を捨てた歴史ではありません。
そこから何度も遠ざかり、新しい音を連れて戻ることで、古い歌まで現在形にし続けた歴史です。

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