ブレンドン・ユーリー(Panic! at the Disco)の歌声の変遷|「一人でバンドを作る」歌手が、三人で一つのマイクを囲むまで

2014年4月、公演でのブレンドン・ユーリー シンガー
Will Fisher / CC BY-SA 2.0

パニック!アット・ザ・ディスコの最後のアルバムに収められた「Viva Las Vengeance」。
その録音で、ブレンドン・ユーリーは二人の仲間と一つのマイクを囲んで歌いました。
低い声、中間の声、高い裏声を三人で分け、自分に隣の声が聞こえなければ、声量を下げる。
本人によると、それ以前はドラムもギターもベースも歌も、自分で順に録って「一人でバンド」を作ることがあったそうです。

デビュー時には四人で、やがて正式メンバーはブレンドン一人になったバンドです。
その歌手が、最後の作品ではなぜ他の人の声を聞きながら歌ったのか。
曲作りの役割、ミュージカルの舞台、録音室での選択をたどると、目立つ声の使い道が変わっていったことが分かります。

2005~08年|四人で作った芝居に、声を乗せる

2005年のデビュー作『A Fever You Can’t Sweat Out』を広めた「I Write Sins Not Tragedies」では、結婚式が大騒動に変わります。
2006年に公開されたMVでは、サーカスのような衣装と舞台で、曲の世界を演じました。
この頃から、歌だけでなく舞台のような演出も、バンドの表現でした。

2007年8月、ステージでのブレンドン・ユーリー
2007年8月、ステージでのブレンドン・ユーリー。写真:Adam Riggall from Jersey City, NJ, USA / CC BY 2.0

ただし、正面に立つ歌手が曲のすべてを決めていたわけではありません。
当時はギタリストのライアン・ロスらも曲作りの中心にいました。
ブレンドン自身、若くして注目された四人は、人前で答えを知っているように振る舞わなければならなかったと、後に振り返っています。

2008年の『Pretty. Odd.』では、初期作の芝居じみた世界から、ビートルズやビーチ・ボーイズを好んで聴いてきた四人の音楽へ進みました。
ブレンドンは、前作より自分たちが知っていることを歌うようになったと語っています。
「Nine in the Afternoon」は、このアルバムのために最初に作った曲でした。
当時のライアンとジョンは、長いツアーを経てメンバーだけで曲作りに戻れた喜びを歌ったと話しています。
ブレンドンが歌うこの曲には、四人でまた新しい音楽を作れるという気持ちが入っていました。

弦楽器と管楽器をロンドンのアビー・ロードで録ったのは、制作に参加したロブ・マセスの提案でした。
バンドと作り手が選んだ大きな編成の中で、ブレンドンは歌手として物語を届けていました。

2009~16年|歌う人が、曲の方向も決めるようになる

『Pretty. Odd.』の後、ライアン・ロスとベーシストのジョン・ウォーカーが脱退しました。
ブレンドンは2011年の取材で、四人だった頃は人に見せたい自分の案を引っ込めていたと話しています。
二人が去ってからは、その案を出さないままにしておけなくなった。
声を任された歌手が、何を歌うかという決定にも、より深く関わるようになったのです。

残ったドラマーのスペンサー・スミスと制作した『Vices & Virtues』(2011年)には、「The Ballad of Mona Lisa」があります。
ブレンドンは以前の作品を否定せず、それでも自分たちが新しくやりたい曲を作ろうとしていました。

その後スペンサーも正式メンバーから離れ、2016年の『Death of a Bachelor』では、ブレンドンが唯一の正式メンバーでした。
長く親しんできたフランク・シナトラの音楽を、パニック!の作品に持ち込む自由も得ています。
タイトル曲で一つの歌に使ったのは、穏やかに語るような声と、大きく高音へ進む声でした。

その二つの歌い方が一曲の中でつながる理由は、ブレンドン・ユーリーの歌い方で扱っています。
ここでの転機は、初期には四人の音楽を前で歌っていた人が、作品の方向を選び、自分の声をどの曲にどう使うかまで担うようになったことです。

2017~18年|観客に歌ってもらえない舞台に立つ

自由に曲を作れるようになったブレンドンには、意外にも、他人が書いた歌を歌う舞台が次の挑戦になりました。
2017年、ブロードウェイの『Kinky Boots』で、靴工場を継ぐ青年チャーリー・プライスを演じたのです。
本人は、自分のライブなら調子が悪い日に観客が歌を手伝ってくれる、と話しています。
けれど、チャーリーの物語を届ける舞台では、そこで役を演じる自分が歌を引き受けなければなりません。

言い争う台詞が三場面続いた後に、特に高い音の歌が来る。
ブレンドンはシンディ・ローパーのボーカルコーチらの助けを受け、その難しさに向き合いました。
翌年の本人取材では、舞台を経て声が強くなり、以前より高い音も低い音も歌えるようになったと振り返っています。
これは本人の実感であり、測定された音域の数字ではありません。

2018年の『Pray for the Wicked』では、舞台で見つけた歌い方を録音でも試したと語りました。
「High Hopes」で歌ったのは、子どもの頃、紙でギターを作って鏡の前でロックスターを演じていた自分が、その夢を追い続ける話です。
かつて曲の芝居を演じていた歌手が、別の人物の物語を舞台で歌い、自分の経験を歌う作品へ戻ってきました。

2022年|声を重ねる前に、隣の声を聞く

『Viva Las Vengeance』の制作前、ブレンドンは疲れを感じ、しばらく休んでいました。
新型コロナ禍の中で、気心の知れた友人と過ごしたいとも思っていたそうです。
そこで長年の仲間であるジェイク・シンクレアに新曲のデモを聴かせ、さらにマイク・ヴァイオラと曲を練りました。

ブレンドンは後に、以前はドラム、ギター、ベース、歌、ハーモニーまで自分で積み重ね、一人でバンドを作ることもあったと説明しています。
しかし、この曲には優れた仲間が二人いる。
ジェイクがベース、マイクがギター、ブレンドンがドラムを担当し、顔を見ながら土台を録りました。
アルバムは8トラックのテープを使って制作し、何度でも後から直せる作り方から離れようとしたそうです。

「Viva Las Vengeance」の歌でも、三人は一つのマイクを囲みました。
マイクがブレンドンの自然に出た高い裏声を聞き、その周りに重なる声を考える。
ジェイクは低い声、マイクは中間、ブレンドンは一番高い声を受け持ちました。
ヘッドホンは使わず、他の声が聞こえにくければ自分の声を小さくする。
ブレンドンは、その場で三人の声の釣り合いを探したことを、楽しかったと振り返っています。

パニック!は正式メンバーが一人になっても、音楽を一人きりで作っていたわけではありません。
それでも、今回は自分で全部を録る方法から、演奏も和音も他の二人と同じ場で作る方法を選んだ。
一番高いパートを受け持つ人が、自分の声を前に押し出すだけでなく、低い声が聞こえる音量を探したところに、この時期ならではの変化があります。

2023~25年|終わったバンドの、最初の曲をもう一度

ブレンドンは2023年、家族との生活に力を注ぐため、パニック!アット・ザ・ディスコを終えると発表しました。
それから2025年10月、デビュー作の20周年を祝うWhen We Were Youngに出演します。
『A Fever You Can’t Sweat Out』を全曲演奏し、後年の曲も歌いました。
「I Write Sins Not Tragedies」をもう一度演奏した終盤には、かつてのドラマー、スペンサー・スミスも加わりました。

2025年のWhen We Were Youngで共演するブレンドン・ユーリーとスペンサー・スミス
2025年のWhen We Were Youngで共演するブレンドン・ユーリーとスペンサー・スミス。写真:Popturtle / CC BY 4.0

一人で名義を担い、別の舞台に立ち、最後のアルバムで友人と声を合わせた歌手が、最初の曲をスペンサーと演奏する場が実現しました。
2005年のMVでは四人の芝居の中心にいたブレンドンが、20年後にはその曲へ、もう一度仲間の演奏とともに戻ったのです。

一人で目立つことだけが、主役の仕事ではなかった

ブレンドン・ユーリーは、初期から芝居の真ん中に立つ歌手でした。
しかし、役割は同じままではありません。
メンバーが去った後は、歌だけでなく曲の案も自分で出した。
『Kinky Boots』では、他人が作った役の物語を、自分の歌で引き受けた。
そして「Viva Las Vengeance」では、自分の高い裏声を、二人の声と一緒に鳴る場所へ置きました。

一人になったから、最後まで一人で録る必要はありませんでした。
デビュー時の「I Write Sins Not Tragedies」へ戻るときも、その曲を作った時代の仲間が隣に立てる。
ブレンドンの変遷は、どこまで高い声を出したかだけでなく、その声で誰の歌を担い、誰と声を合わせるかを選んできた歩みとして読めます。

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